阪神淡路大震災から25年がたちました。
もう、25年、まだ25年
遺族の方にとっては、何年たっても癒えることはないと思います。
1995年1月、当時わたしは、横浜に住んでいました。
息子が幼稚園で、長めの冬休みをとり、実家の神戸から横浜に戻ったのが1月14日
その3日後の1月17日
朝、テレビをつけると、関西で大地震があったとのこと。
そのときはまだ震源地がどこだかわかっていませんでした。
実家の安否を確認しようと、電話をしたけど、話し中。
誰かと話してるから話し中なのか、それとも、地震で受話器があがってしまって話し中なのか、安否が確認できない不安なまま、ずっと電話をかけつづけていました。
テレビのニュースで、伊丹駅が倒壊したとのこと。
そして、明石市で死者が出たとの報道がありました。
わたしの実家は明石なので、ますます不安がよぎりました。
それにしても、伊丹駅が倒壊で、明石市で死者って、いったいどんな地震なの?
そんなことを思っていると、電話がなりました。
出ると、東京に住む、高校時代の友達からでした。
「実家は大丈夫だった?」
の言葉に、
「まだ連絡とれないの、ずっと話し中なの」
っていうと、「公衆電話だとつながるみたいだよ」
って教えてくれて、そのころ、どんどん減りつつある公衆電話を求めて、駅まで行きました。
長蛇の列の公衆電話、ようやく順番がまわって、かけると、すぐに母親が出ました。
「大きな地震だったよ」
っていうのんきな母親の言葉に、
「なんですぐに連絡くれへんかったん!」
って思わず叫んでしまったわたし。
そして、旦那の実家の神戸の家族もみんな無事だとのこと。
とりあえずひと安心だけど、家の中はグチャグチャで電気も水も出ないとのこと。
その夜、わたしは子供たちをママ友に預け、旦那といっしょに
水、携帯ガスコンロ、火がなくても食べれそうな食糧を買い込んで、車で神戸へ向かいました。
大阪に近づくと、渋滞で動けなくなりました。
神戸生まれで神戸育ちの旦那は、抜け道を知ってるといって、いろんな道をグルグルグルグル蛇行して進みました。
行く道、行く道で建物が倒壊していて、数日前に見た景色との違いに愕然として、言葉を失い、身震いがしました。
旦那が抜け道に選んだ山のほうの道は、学生が住むアパートが多く、ほとんどが倒壊していて、道がなくなっていました。
同じ道を選んだ人たちと、さっきまで建物だったはずの、がれきと化した板をよけながら進みました。
大学生たちが住むアパート、どうか、誰も犠牲になっていませんように、と念じながら進みました。
神戸の実家は半壊で、両親は近くの小学校に避難してました。
「家の中はグチャグチャだ」という両親の言葉で、家に入ると、柱がゆがみ、扉は閉まらない状態。
食器棚は倒れ、食器が飛び出して、ガラスや陶器の破片が飛び散っていて、電子レンジは飛び、もう、何から片付けていいかわからない状態。
余震はまだ続いているので、怯えながら、とりあえず手にしたものから片付けていると、姉がやってきました。
「余震続いてるし、ここは半壊で立ち入り禁止って言われてるから中に入ったらあかんよ」
と言われました。
そして、姉はマンションに住んでいて、建物は大丈夫なので、中が片付いたら両親を連れて行くとのこと。
持ってきた水や食料を姉にわたして、わたしたちは、明石に向かいました。
明石の家は、建物は大丈夫でした。
ここもまた食器棚から落ちたガラスや陶器の破片が散乱していて、両親が片付けている最中でした。
中の片づけを手伝っている間に、給水車が二回やってきたので、わたしたちは、水を運びました。
ある程度落ち着いたところで、両親は、「もう、大丈夫だから帰れ」といいます。
ママ友から、「子供たちのことは、いくらでも預かるから、納得いくまで手伝っておいで」
って言われていることを話すと、
あとはふたりでやっていけるから大丈夫だ、と
たしかに、ずっといると、お腹もすくし、のども乾くし、トイレも行きたくなる。
せっかくもってきた食料を自分たちが食べたら意味がない。
なので、帰ることにしました。
神戸から高速に乗るまで何時間もかけて、横浜に戻ってきました。
なんだかぐったり疲れて、テレビをつけると、ずっと地震のニュースが流れています。
そこで初めて、神戸の被害の大きさを知りました。
こんな大地震で、よく、全員が無事だったこと。
命を落とさなかったことを改めて感謝しました。
ニュースの報道をみていると、何かが違う。
電気が明々とついたスタジオでニュース原稿を読むアナウンサー
被害状況を伝えるヘリコプター
そう、神戸にいて気になったこと。
ヘリコプターの音がうるさくて、話している言葉をかき消されていたこと。
「ヘリコプター飛ばないで!まだ埋もれている人がいるかもしれないのに、助けを求める声が聞こえない!」
わたしは思わず叫んでいました。
現状を全国に伝えることより、今、困っている人を助けることのほうが大切なはず
当時はスマホもインターネットもまだまだ普及していなかったので、個人が連絡をとれる手段がほとんどなかったので、助けを求める声がなかなか届かなかったのです。
神戸の現状をみてきているのに、わたしの思いを伝える手段もなく、もどかしさを感じていたある日、
テレビのミュージックステーションでSMAPが登場。
すでにファンだったわたしは、新曲披露だと聞いて、楽しみにしていました。
そして、登場したのは、黒いスーツを着たSMAP、
新曲披露を急きょ差し替えて、神戸のみなさんへ、というメッセージとともに、がんばりましょうを歌ってくれました。
わたしは、彼らの言葉を、歌をきいているうちに、この数日間の思いが蘇ってきて、疲れがどっとあふれて、涙があふれでて、とまらず、号泣していました。
アイドルにとって、特に、歌番組に恵まれない状況で活動してきたスマップにとっては、新曲披露というのは貴重なチャンスのはず、
それをさしかえて、被害にあった、心や体に傷をおった、神戸の人たちへ、とメッセージもくれて、よりそってくれたSMAP
今まで、弱い、困ってる人に寄り添ってくれるアイドルっていたのだろうか、初めてな気がします。
この日から、わたしにとってスマップは、ただのファンというのを通り越して、かけがえのない存在になっていました。
SMAPとともに生きる!
この思いは変わりません。
いつか戻ってくれるまで、
長文、最後まで読んでくださってありがとうございました。
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