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Series of チョン・ジウンの恋煩い 1

Series of チョン・ジウンの恋煩い from the King’s Affection

1. 司書v.s.大君

ある日の昼下がり,世子侍講院の書筵官(司書)チョン・ジウンは,上司に頼まれて大君の書筵へ向かっていた。

王と中殿の庇護下にいる斎賢大君はまだ幼く,その訓育には主に中殿が采配を振るっていると聞くが,何故かチョン司書にお鉢が回ってきた。どうやら,担当の書筵官が軒並み流行病で倒れたらしい。

折よくと言うべきか,王世子は明国の使節団を迎えるために暫く講書を休んでおり,時間には余裕がある。

基本的な学問を修め,今はより深い解釈を得るための講義を受けている世子と違い,大君はまだ論語を学び始めたばかりだという。そのような若者に教える経験はなかったので,新鮮な気分で講書に臨めるだろう。

しかし,世子と折り合いの悪い中殿がよく自分を臨時の師に選んだものだ。曲がりなりにも左議政・尚憲君に推薦された世子の司書であるのに。

不思議に思いながらも,中宮殿の一画にある大君の書筵堂へ入っていった。

チョン司書が入室した時,斎賢大君は既に席について待っていた。

「お待たせして申し訳ありません,大君媽媽。司書のチョン・ジウンでございます。媽媽におかれましては,お初にお目にかかります。」

チョン司書は若々しい大君に深々と頭を下げた。

「初めまして,チョン司書。兄上の師に学ぶことが出来るなんて,この上ない喜びです。よろしくお願いします。」

王族らしくなく,大君は満面の笑みで挨拶を返した。その純朴な仕草に,チョン司書の頬も自然と緩む。

講義を始めると,大君は実に熱心な生徒だった。

キラキラ輝く瞳をこちらに向け,師の解説を聞き漏らすまいとしている。それだから,教える方もつい熱が入る。修学中の若者に教えることがこんなにやり甲斐があるのかと,チョン司書は感動を禁じ得なかった。

十年以上前,まだ自分が大君より若かった頃,学問が何よりも楽しくて仕方がなかった。良い師に恵まれたこともあるだろう。祖父の縁で教えを乞うことになった元判書が,チョン司書の才能を引き出してくれた。

その後,様々な出逢いにより,学問が全てだと思っていた幼い時代は過ぎ去ったが,今でも師と問答していた頃の純粋な喜びを覚えている。大君を見ていると,負の感情が無かった時代を思い出す。

兄世子とは何もかも違う。

チョン司書の頭の中に,寸分の隙もないほど完全無欠な世子の姿が浮かび上がった。

小柄で細面という外見は優しく繊細そうだが,中身は虎のように獰猛だ。怒らせたら,歴戦の大将より恐ろしい。司書に着任した直接,躊躇なく矢を射られた記憶が未だに生々しく残っている。

気性は荒いが傍若無人というわけではなく,普段は規律を重んじる冷静沈着な人物だ。決して地位に甘んじることのないその姿勢は,チョン司書も好ましく思っている。

縁故で廷臣を優遇することは皆無で,大義ではなく正義のためなら全力を尽くす。

チョン司書の進退が問われた時,世子本人が折り合いの悪い父王と外祖父の間に立って助けてくれた。三開房の実態を知ったからだ。そうでなければ,自ら動くことなどなかっただろう。

融通の利かない堅苦しい人間のようにもみえるが,一本筋の通った傑物ともいえる。悪名高い尚憲君の外孫とは思えないほどに。

そんな兄に比べて,弟の大君は大人しく優しい性質のようだ。両親の注目を一身に浴びて育ったような,善良な小市民のような雰囲気が漂っている。

「今日の講書はとても理解し易かったです。流石,侍講院でも名高いチョン司書ですね!」

素直に感想を述べる大君の姿に,チョン司書も自然と笑顔になる。

「そう言って頂けて大変恐縮です,大君媽媽。」

「私には飛び抜けた才覚はありませんが,将来は兄上をお支えすることが夢なのです。その夢に橋を架けて下さるのがチョン司書であればよいのに。」

虎視眈々と世子の地位を狙っている領議政と中殿が聞いたら卒倒しそうなことを,真っ直ぐな瞳で訴えてきた大君。

確かに,世子のもっている圧倒的な求心力が大君にあるとはいえない。年齢や地位のせいではなく,世子自身が生まれもった宿命的なものなのだろう。或いは,左議政の血筋の賜物か。

しかしながら,疎遠に育ったにも関わらず,真っ直ぐに兄世子を慕う大君の純粋さは,この泥沼のような宮廷において貴重といえる。チョン司書自身でさえ,勤務開始当初の冷遇されていた頃は,とてもじゃないが“東氷庫”に好感を抱くことなど出来なかった。

「その橋は媽媽がご自分で架けられることでしょう。今は情熱をもって学ばれ,何でも吸収されるべき時期ですから。」

チョン司書は諭すように告げた。

「世子邸下は実に公正な御方です。媽媽のそのお気持ちを無碍にされることは,決して無いと断言させて頂きます。」

大君は嬉しそうに微笑んだ。

年の近い世子からは得られない素直な反応は,実に新鮮だ。

「チョン司書の仰る通り,兄上は本当に素晴らしい方です。冷徹な邸下だと巷間云われているのは知っていますが,それは表面的なことに過ぎません。私は幼い頃から兄上だけを見てきました。」

急に,大君の口調に熱が込められたので,チョン司書は内心驚いた。瞳の中に炎が燃え上がり,心なしか,身体が前のめりになっている。

「望み得る最高の地位と才能をお持ちなのに,驕り高ぶることなく,謙虚に努力なさってきました。真冬の豪雪の中でも,武芸の鍛錬をされている姿を見て,兄上には敵わないと実感したものです。」

大君の熱弁は続く。

「母や外祖父の大それた思惑は兎も角,私は兄上に認めて頂ける人間になりたいのです。今は目を向けて頂けませんが,それは私は未熟だからです。一日でも早く,兄上をお支え出来るようになりたい…。」

チョン・ジウンに兄弟はいないが,弟は兄をこんなにも無条件に敬愛するものなのかと不思議に思った。

身近な兄弟といえば三開房のパン兄妹か。確かに仲は良いが,好き勝手に言いたいことを言い合って,遠慮が無い関係だ。お互いを大事に思っていることは間違いないが。

また,者穏君は兄の源山君を尊敬しているが,大君ほど盲目的に崇拝してはいない。

斎賢大君にとって兄世子は父王より遠い存在で,それ故に憧憬を抱いているのだろうか。まあ,人を寄せ付けない孤高の王世子が兄であれば,然もありなんという気もする。

「私も幼い頃から邸下のご活躍を拝聴してきました。同年代故に,自分自身も学問に奮起する切っ掛けを与えて頂きました。有難いことに早い段階で科挙に合格し,明国で見聞を広め,幾多の経験を経て書筵官の職を賜っております。」

チョン司書は頭を切り替えて,若き大君に優しく語りかけた。

「つまりは,何事に於いても焦りは禁物ということです。今日のような熱量で学び続けられれば,そう遠くない未来に必ず橋が架けられるでしょう。殿下も邸下もそのように望んでおられると思いますよ。」

大君は司書の言葉を噛み締めるように頷いた。

一方,チョン司書は宮女タミと出会った頃の自分を思い出していた。

学問に於いては早熟だったが,武芸の心得は全く無かった。武芸で身を立てた父は,息子が文官になってより高い地位につくことを願い,鍛錬を強要しなかった。しかし,タミという少女と出逢い,学問を極めるだけでは真の男になれないと思った。彼女に二度と情けない姿を見せたくないと,それまで一度も握ったことのなかった剣を振るようになったのだ。

思い返すと,武芸を始めた頃は,大君のように気持ちが急いていたかもしれない。早くタミを守ることができるように,と。

大君が世子を慕う気持ちが,幼い頃の恋慕の情と重なるとは…。不敬極まりない。

たとえ,王世子の類まれなる麗しさが,時にチョン司書さえも翻弄するとしても。

…世子は恐ろしく美しい。

いくら諸国を渡り歩いて見聞を広めても,これほどまでに美しい人間はいなかった。内面が深すぎて外見のことを忘れがちだが,白い肌に吸い込まれそうになったのは片手では数えきれない。

講書の最中に,呆けたように見惚れてしまい,世子の怪訝な視線を何度かわしたことか。

大君の純粋な崇拝ぶりを見ていると,自分は不純な視線で世子を見つめているのではないかと不安になる。公明正大な内面を尊敬しているつもりでも,気付くと美しい顔立ちを眺めている。そんなことが日常茶飯事だからだ。今は講書が休みになっているため,そのような失態を犯さずに済んでいるが。

チョン司書は大きく深呼吸をしてから,大君に不自然な笑顔を向けた。

「では,今日の講書はここまでにさせて頂きます。」







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