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聖 武 天 皇 陵   奈良市法蓮町     平城京の鬼門を守るように、

小山のような巨大な姿を横たえる。正面を避け、西側の幼稚園入口から撮影した。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 717年 「行基集団」に対する第1禁令
  • 718年 「行基集団」に対する第2禁令
  • 722年 「百万町歩開墾計画」発布。「行基集団」に対する第3禁令
  • 723年 「三世一身の法」。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる(東大寺の前身)。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。「藤原4子政権」成立。「行基集団」に対する第4禁令

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。
  • 731年 行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁」に入る。行基、恭仁京右京に「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁京」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した「行基集団」750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

《第Ⅳ期》 750-770 称徳(孝謙)天皇没まで。

  • 754年 鑑真、来朝し、聖武太上天皇らに菩薩戒を授与。
  • 756年 孝謙・聖武、「智識寺」に行幸。聖武太上天皇没。
  • 757年 「養老律令」施行。藤原仲麻呂暗殺計画が発覚、橘奈良麻呂ら撲殺獄死(橘奈良麻呂の変)。
  • 758年 孝謙天皇譲位、淳仁天皇即位。
  • 764年 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱道鏡を大臣禅師とする。淳仁天皇を廃位し配流、孝謙太上天皇、称徳天皇として即位。
  • 765年 寺院以外の新墾田を禁止道鏡を太政大臣禅師とする。
  • 766年 道鏡を法王とする。
  • 769年 道鏡事件(天皇即位の可否で政争)。
  • 770年 称徳天皇没。道鏡失脚、左遷。光仁天皇即位。
  • 772年 墾田禁止を撤回
  • 773年 行基を顕彰し、菩提院ほかの荒廃6院に寺田を施入。

 

 

竹 林 寺  行 基 墓          奈良県生駒市有里町

1235年に行基の舎利容器が発掘された竹林寺寺地にあるが、明治時代に「文殊堂」の

跡地を史蹟指定したという。正確に舎利埋葬地であるかどうかは、疑問が残る。

 


【122】 行基の複雑な胸のうち

 


 前回の終りに述べたように、聖武天皇の「大仏造顕」事業に「行基集団」が参加した・協力したという直接の証拠(記述)は乏しい。なぜかというと、「行基集団」側の史料がみな、この点について沈黙しているからです。まるで、「大仏造顕」事業は、行基の事績としてふさわしくないと主張しているかのようです。しかし、ここではまず、じっさいに参加・協力をしたという・間接的根拠ないし状況証拠が、どのくらいあるかを見ることにします:

 

〔1〕「行基集団」内と見られる人物が大仏に寄付をした記事が見いだせること(続日本紀)。

 

〔2〕745年、聖武天皇が行基を「大僧正」に叙任し、752年の大仏開眼供養会で、行基の高弟・景静が都講師を勤めていること。

 

〔3〕772年任命の内裏「内供奉(ないぐぶ)十禅師」のうち4名が行基の高弟であり、790年代には行基の孫弟子・施暁が「僧綱」入りした。

 

 まず〔1〕ですが、↓下は『続日本紀』に記録されている「大仏」造営への寄進者の一覧です。これらのうち、「行基集団」との関係が立証できるのは赤枠の3名ですが(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.245,276-277; 吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.170-174)、ほかの寄進者にも「行基集団」員がいる可能性はあります。『続日本紀』には、氏・姓・名と、せいぜい出身地が書かれているだけなので、「行基集団」かどうかを確認するのはたいへん困難です。

 

 

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.179.に加筆。      
 

 

 『続日本紀』の記事↑は、とくべつに高額の寄付をした者に朝廷が位階を授けたので、位階授与の記事として載せられているのです。つまり、↑これは寄進者のうちごく一部です。「智識」と呼ばれるような少額の寄進者のなかに、「行基集団」員がどれだけいたのかは全くわかりません。しかし、16名の高額寄進者のなかに3名いるのですから、一般寄進者中には、もっと高い割合でいただろう、とも言えます。

 

 ちょっと気になるのは、「買位」つまり官位をもらうのが目的で寄付をしているのではないかということですが、それは大いにあったと言うべきです。高額の寄進者は、もっぱらそれが寄進の目的であったでしょう。単なるご褒美ではなく、事実上の「官位の売買」であったことは、「銭1000貫」という “相場” があったことからもわかります。もっと少額の寄進者にしても、官位はもらえぬまでも、地方官との関係を円滑にして、行政上なにかと便宜を得やすくする、といったメリットは大いにあったはずです。

 

 しかも「行基集団」としては、「官位の売買」を不正なものとは見ておらず、むしろ、大いに奨励していたと考えてよいのです。彼らの「智識」事業は、けっして狭義の宗教的「功徳」のためだけでなく、灌漑・交通の便益を増大させることによって、寄進者自身にも直接の物質的恩恵があることを売りにしていました。「買位」を目的とする寄付は、その延長と言ってもよいのです。

 

 

住 吉 公 園          大阪市住之江区浜口東1丁目

奈良時代「住吉御津」の故地。「難波津」に至る交易路の停泊港。

近くに行基「呉坂院」が建設されている。

 

 

 赤枠の3名について、吉田氏らの研究成果をまとめますと、①河俣・連(むらじ)人麻呂は、河内國若江郡川派(かわまた)〔現・東大阪市川俣.「難波宮」から約5km〕を本拠とする氏族で、この郷には行基の熱心な信者群がいたことが『日本霊異記』〔中-30〕から知れます。

 

 

『人麻呂が献上した銭一千貫は、難波〔京〕の官設市をはじめ行基の4か所の堀川〔比売嶋,白鷺嶋,次田,大庭堀川:行基掘削の船溜まり――ギトン註〕を含む私的交易の場で獲得したものであろう。もしそうなら、人麻呂はかなりの数の船舶を所持して漕運業や商業に従事することによって蓄財に成功したのであろう。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.173. 

 


 ②漆部・直(あたい)伊波が寄進した「商布」とは、東国~北陸産の麻布のことで、漆部は相模國の氏族、伊波自身、768年に相模國造に任じられています。しかも、760年の時点で、摂津國・堀江川〔現・大阪市北区・天満川〕沿いの東大寺荘園の隣りに土地を所有していました。ここは「難波津」を取り巻く基幹交通水路の一部です。

 

『堀江川は船舶の往来の頻繁なところで、漆部伊波がここに土地を確保したのは、ここを往来する船舶・貨物に関する情報をいち早く入手し商機をつかもうとする意図があった〔…〕西成郡の土地は、西国から運送される商品を仕入れ、平城京の市や東国相模への商品輸送をする根拠地であったとみることができる。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.171. 

 

 

 ③板持・連・真釣は、河内國石川郡板持村(近世)〔現・大阪府富田林市東板持〕を本拠とする氏族で、「大野寺土塔」の陰刻瓦銘(⇒:(21)【67】【68】)に「板茂(いたもち)連」があるので、「行基集団」の構成員であったことが確実です。この「板茂連」は、下級官人層に属する一族でした。

 

 これら3名は、「行基集団」内~その周辺にいた富豪・下級官人の一例――頂点に立つ例――であったのですが、彼らは、「難波津」を中心地とする摂津~河内圏で商業・漕運業によって蓄財していた人びとであったのです。彼らは単に檀家であったのではなく、彼らの一部は、「行基集団」の中核的メンバーである行基高弟たる僧侶にもなっていました(信厳禅師:俗名血沼(ちぬ)県主倭麻呂)。

 

 しかし、「行基集団」全体を見渡すならば、彼らが集団の中心を占めていたとはいえません。「行基集団」の沿革を見ると、「長屋王政権」による弾圧を境として、それ以前の「初期集団」と、それ以後に蘇生した「第2次集団」に分かれます。↑上のような富豪的な人びと、いわゆる下級官人層は、「第2次集団」になって・はじめて加わった人びとです。

 

 「初期集団」は、「長屋王政権」の厳しい弾圧によって潰滅しているのですが、それでも、行基自身はもとより中核的な僧侶、つまり行基高弟には、弾圧を堪えて集団内に残った人びとが多かったと思われます。行基死没の年に書かれた「大僧正・舎利瓶記」をはじめとする・数々の行基伝記史料は、これらの高弟たちや、その孫弟子・孫々弟子らが書いたものです。彼らには、「初期集団」以来の行基の宗教的信念が脈々と生きていたはずです。それは、律令支配の犠牲となって斃れる運脚夫たちを救済し、「違法」のレッテル貼りと弾圧をものともせずに布教を敢行する「三階経」の教え(⇒:(11)【34】)にほかなりません。

 

 このように振り返ってみますと、行基側の諸史料が「大仏造営」への協力の事績についてあえて沈黙しているのは、理由があると言わなければなりません。「行基集団」中核の高弟たちにとって、「大仏造営」事業への協力は、「心すすまぬもの」であったのです。

 

 しかし、なぜ、それでも彼らは協力したのか? しかも、〔3〕行基は「大僧正」に叙任され、行基没後も、弟子が「大仏開眼供養会」の「都講」を勤め(生きていれば行基が勤めたはず)、〔2〕弟子たちは、その後も永く朝廷の仏教統制体制の中で優遇された――それほどの貢献を、彼らはなぜしたのか?

 

 

兵 庫 港 大輪田橋 を望む。        神戸市兵庫区今出在家町3丁目

行基築造「大輪田船息」の故地。瀬戸内方面から「難波津」に至る停泊港。

船息院」「同尼院」も建立された。

 

 

 まず、「行基集団」中の、富豪層をはじめとする裕福な信者たちが協力した理由は明らかです。彼らは、「第2次集団」の一員であり、灌漑・交通整備事業への献身と同じ理由で、つまり主として物質的現世利益を求めて、「大仏造営」に参加したのです。

 

 しかし、「初期集団」からのメンバー――集団の中核を占める宗教者たち――にも、協力する動機はあったと考えます。‥‥たしかに、「天平十三年記」〔741年〕の提出と勅認によって「行基集団」は晴れて公認されました。が、托鉢・街頭布教などの「初期集団」以来の活動を禁止している律令条項はそのまま存続していました。「行基集団」は、今はいわば “お目こぼし” に預かっているにすぎない。「初期集団」時代に受けた弾圧の記憶は、中核的な僧侶や在家信徒たちの脳裏には、深く刻まれていました。なるほど、今のところは良い。しかし、行基大徳ももはや高齢であり、聖武天皇も永遠に在位するわけではない。行基没後にどんな “揺れ返し” が来るかは、予断を許さない。いつまた “律令絶対” の硬派官僚が政権を握って、弾圧を再開しないとも限らない。「行基四十九院」が、地方官の侵奪を受けずに寺田・寺領を維持できるのも、いつまでのことだろうか? ‥そのような憂慮は、彼らの脳裏を去らなかったにちがいありません。だとすれば、いま、行基大徳の存命中に可能なかぎりの功績を上げて、朝廷の記録に記させておかなければならない。

 

 こうして、「行基集団」全体が、それぞれに異なる思いはありながらも一丸となって、「大仏造営」事業に参加・協力したのです。

 

 ここからもわかるように、「公認」以後の「行基集団」が、保守化、ないし内に向かう傾向をもつようになったことは否定できません。「初期集団」の過激なまでの意気はもとより、「第2次集団」初期の目覚ましい土木工事の進展が、まもなく鈍化していることは、史料上明らかです。長年の苦労に耐えて大成したあとは、人間にしろ集団にしろ、すでに手にしたものを守ろうとするほうに傾いてしまうのは、さけられないことなのです。

 



【123】 「墾田永年私財法」と行基集団


 

 前回の「詳細年表」↓を再出しておきたいのですが、ここで注目してほしいのは、743年5月に発せられた「墾田永年私財法」です。「行基集団・公認」の直後に出ています。そして、「私財法」の直後に紫香楽の「甲賀寺」寺地が整地されて「大仏造立」に進むと同時に、難波では「行基集団」が5院・3付属施設を建立ないし起工するという目覚ましい活動を再開しています。「私財法」の施行が、行基傘下の土豪たちの開墾熱を刺激したことは明らかでしょう。

 

 前節で見たように、「大仏」への寄進が立証できる行基信者3名はいずれも、「難波津」を根拠地とする商業活動で蓄財した人びとでした。運輸・商業活動と灌漑工事・墾田開発のあいだには、社会経済的には大きな結びつきがあったのです。

 

  • 742年末、「紫香楽宮」起工か。
  • 742年 2月、「恭仁京」から「紫香楽」に通じる東北道を完工。8月、第1回「紫香楽」行幸(甲賀寺造成開始か)。この年、「天平十三年記」を審査・承認(行基集団の公認)。
  • 743年 5月、「墾田永年私財法」。10月、紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、「甲賀寺」寺地を開く;行基集団が協助.
  • 744年 2月、「難波宮」を皇都と定める勅;行基、摂津國西城郡に「大福院」「同尼院」起工;当年中にほか3院・付属施設3所を建立(同郡)。11月、聖武天皇、紫香楽甲賀寺」で廬舎那仏の「体骨柱」を立つ(大仏造立開始)。この年、行基に勅使を遣し食封 900戸を施与するも、行基は辞退、「天皇いよいよ帰伏す」。
  • 745年 1月、「紫香楽宮」に遷都;行基を大僧正とす;玄昉を僧正から降ろし封戸を没収、筑紫に左遷。5月、「平城京」に還都。8月、平城京金鍾寺(東大寺)で、大仏造立を開始
  • 748年 11月、聖武天皇、行基菅原寺」に行幸し 120人を得度、「喜光寺」の勅額を発給。
  • 749年 1月、聖武天皇、光明皇后、中宮宮子、行基を授戒師として菩薩戒を受け出家。2月、行基没。7月、聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。
  • 751年 菩提僊那を僧正とす。
  • 752年 4月、金鍾寺大仏開眼供養会:導師菩提僊那、都講景静(行基弟子)。

 

 ↑744年、「行基集団」の建設活動のあとに、ちょっと気になる記事があります。聖武天皇は行基に「食封」を賜与しようとしたが、行基は辞退したというのです。聖武としては、紫香楽「甲賀寺」での大仏造営が「体骨柱」棟上げに漕ぎつけたので、「行基集団」のこれまでの協力に報いる気持ちがあったのでしょう。ところが行基はこれを断ってきた。それを聞いた聖武天皇は、慾がない! 本物の聖者だ! ということで、ますます行基に帰依し、翌年には行基を「大僧正」に列しています。

 

 「大僧正」という官職は、この時に初めて設けたもので、「僧綱」(僧正,僧都,律師)〔⇒:(10)【33】〕の上に立つ地位です。だとすると、じっさいの職務ではなく名誉職かな? という気もしますが、行基の「大僧正」就任と同時に、「僧正」であった玄昉を解任し、食封を没収して大宰府に左遷しています。聖武天皇と玄昉のあいだにどんな意見の違いがあったのかわかりませんが、これは、寺院統制に関する “政権交替” といってよい措置です。つまり、行基大僧正は、単なる名誉職ではなく、実質的にも「僧綱」の最高権限を与えられたと見なくてはなりません。

 

 749年に行基が没したあとは、751年に菩提僊那を僧正に任命しています。菩提僊那はインド人の渡来僧で、日本の教界権威にとっては「行基大僧正」同様のサプライズ人事というべきです。聖武天皇は、行基の抜擢/玄昉の降格/菩提僊那の抜擢、と続けて、既成の教界権威を破壊する政策をとったと言えます。

 

 

大宰府・観 世 音 寺 鐘 楼        福岡県大宰府市観世音寺5丁目

745年、玄昉観世音寺別当に左遷されたが、飛鳥時代以来建築途上に

あった寺を完成させて翌年没した。同寺の梵鐘は7世紀末鋳造で日本最古。

訪れた時は、あいにく九州国博に貸出中で撮影できず。

 

 

 ところで、行基自身は、「大僧正」任命に関しても、「しかりと雖も、もって懐(こころ)にあらず」として悦ばなかったというのです(大僧正舎利瓶記)。ただ、「行基らが造営した院の維持と、弟子僧らの未来を考え」て、大僧正就任を受け入れた(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,pp.157-158)のです。

 

 にもかかわらず、「食封 900戸」のほうはなぜ断ったのか? 「食封(じきふ)」とは「封戸(ふこ)」を与えることで、国司が「封戸」から徴収した税のうち、「租」の半分と「庸・調」の全部を封主に支給する制度です。したがって、封主は自分で農業経営に関与することはできず、国司が「封戸」を苛斂誅求するのを食い止めることもできない。律令国家の農民支配に寄生することになってしまうので、そのために行基は、「食封」を受けることだけはできなかったのだと思います。

 

 この「食封」とは異なって、「墾田永年私財法」は、農民でも寺院、貴族、豪族でも、自分で開墾した農地は自分の所有地として認められる――ただし税は課せられます――わけですから、国家機構に寄生することにはなりません。傘下の農民をどう支配するか、搾取するか、温情的に扱うか、農業技術的にどんな経営をするか、といったことも自分で決められます。「行基集団」にとっては大いに意味のある法改正だったと言えます。

 

 そこで、以下、「私財法」の具体的内容を見ていきたいのですが、そろそろ字数が迫っていますので、続きは次回にしたいと思います。




 

 

 

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