私の武道歴と柔術との出会い | スキー万歳 かっちゃんのブログ

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冬はスキー⛷️馬鹿してます。スキーのオフトレで始めたら自転車にもはまり春から秋は自転車馬鹿してます。2024年7月から柔術も始めました!だいたいは自分の運動記録を残すために書いてる自己満足の内容です。

アメンバー限定記事で前に書いてたのですが、

間違って削除してしまったため再度校正して

アップします



子供の頃は自分の性格はどちらかと言うとお人好しでいじめられっこな性格であったと思う。そんな自分が嫌だったから、應援團に入ったりして自分を変えようともがいていた高校時代、夏の地区大会の練習の合間に昼飯で入った西高前のお好み焼き屋さんにあった極真会館総裁大山倍達の半生を描いた伝記的劇画『空手バカ一代』を読み完全に私は洗脳されてしまった。

(写真1)

      原作 梶原一騎


 大学に入学してから入部する部活動はこの時から決めており、入学初日に空手道部を探した。母校の空手道部は元々極真会館芦原道場関西地区の支部であったが、当時の関西地区の責任者だった石井和義氏が独立し新日本実戦空手道連盟正道会館を設立し母校の空手道部も正道会館の学生連盟に所属していた。極真空手系の実戦空手をやりたかったので迷わず入部した。空手道部の練習は医学部の空手道部だからそんなに厳しくないだろうと思ってたが、茶色帯以上の先輩方はめちゃくちゃ強く、レバー打ち(左のボディへの回し打ち)や下段回し蹴りで毎日倒されるような日々であった。それでも空手の練習が楽しくて仕方がなかった。そんな私でも4回生になって茶色帯まで取得できた。   



(写真2) 

大学4年生、正道会館茶色帯を取得し黒帯を目指して一番稽古してた頃


 当時の正道会館では黒帯はよほどの実力者しか貰うことができず学生連盟に所属している他大学の同期の空手道部員でも貰ってる者はほとんどいなかった。唯一黒帯に合格した私の同期は大阪芸術大学の主将で現在は正道会館で東海地方某県の支部長をしている(アメブロも書いてて最近知った!)。ちなみに格闘技イベントのK-1GPで有名選手だった武蔵選手は、私が青帯の昇級審査を受検した時に同じ青帯の受検者でいたがものすごく強そうで、組手であてられなくで良かった~とほっとした事を覚えている。


さて、その頃世界の格闘技界は大きな波が押し寄せてきていた。どの格闘技が最強なのか?格闘オタク達の妄想を現実化した大会が1993年11月に第1回UFC大会が開催された。日本で前田日明との異種格闘技戦も行った極真空手出身のジェラルド・ゴルドー、日本で初めて完全実力主義、真剣勝負のプロレス団体パンクラスのウエィン・シャムロックなど強豪選手が参加するなか、優勝は無名のグレイシー柔術のホイス・グレイシーであった。

(写真3) 

大会参加者の中で最軽量なホイス・グレイシー

が無傷で優勝した





 1994年3月に第2回UFC大会が開催され日本からは大道塾空手から市原海樹選手が参戦したが、前回優勝したホイス・グレイシーに1回戦で破れてしまった。





(写真4)

従来の空手の突き蹴りに加え、投げ技、関節技も取り入れた格闘空手の大道塾のチャンピオン市原海樹も敗れた






 この出来事は衝撃的であった、打撃系格闘家(ストライカー)は組み技系格闘家(グラップラー)に路上での戦いでは全くかなわないのではないのか?そんな疑問を抱くようになった。1回目の4年生で空手道部主将の責務を果たしたあと、2回目4年生の時に部員不足になってた柔道部の後輩らに誘われ、同じ空手道部員5年生の東先輩と柔道部と兼部することになった。当時はまだウェイトトレーニングを練習に取り入れてる運動部員も少ない中、空手道部はフィジカルの重要性に早くから気づいていたため、ウェイトトレーニングもかなり行い、日々の稽古もキツイものだったから基礎体力には自信があった。実はいきなり柔道をしてもそこそこいけるんじゃないか?となめてたのだが、その考えは初日で打ち砕かれた。自分より小さい後輩たちに簡単にテイクダウンされてしまった。柔道の奥深さを知った私はその魅力にとりつかれた。

初めて参加した柔道の西医体が終わったあとも実家にほとんど帰省せずに町道場に通いコソ練習して、夏休みの間に昇段審査を受検しに行った。幸い相手は白帯高校生が3人だったため、力まかせにテイクダウンして、2人を抑え込み1人は腕ひしぎ十字固めで一本勝ちし初段を認定された。

 


(写真5)

有段者になったことが嬉しくて、母校と名前入りの黒帯を作った、今もタンスの奥に大事にしまっている





 なんとなく後輩有段者柔道部員達とも互角に乱取りできるようになり、白帯の部員達には負けないくらいにはなったが、いかんせん弱小柔道部だったので、対外試合で勝利する事はないまま卒業となった。大学に○年も通いひたすら運動ばかりしていたのに空手道部としても茶帯止まり、柔道もなんちゃって初段で終わってしまった。卒業後はひたすら仕事をこなすのに精一杯でもちろん運動と無縁のような生活が何年も続いた。(そんな中でも小さい頃からやってたスキーだけは続けていたが。)その後健康を気にする年齢になってきた頃から習慣的に運動に取り組むようにり、かなり体力も戻ってくると学生時代に中途半端で終わってしまった空手や柔道への情熱が再び沸き上がってきた。インターネットでいろいろ格闘技教室を探してはどうしようか?悩んでは行動できない状態であった。


そんな中、2024年6月に地元にグレイシー柔術の教室があるのを知った。自分の格闘技における考え方に衝撃を与えたUFC大会、そこで勝ったグレイシー柔術。教室の先生のメールアドレスが書いてあったのでメールを送ってみると、大歓迎で一度見学体験に来てくださいとお誘いいただいた。大学時代使ってた柔道着を持って練習場所の体育館を訪れると、フレンドリーな先生が迎えてくれた。練習生は小学生から中学生、20代の大学生らが中心であった。もちろん自分は最年長。グレイシー柔術はいわゆるブラジリアン柔術と今は言われている。講道館柔道の黎明期に活躍した柔道家の前田光世がブラジルに渡り1917年カーロス・グレイシーに指導を行ったのが始まりである。この時前田は自身の指導したこの格闘術を柔術と名乗った。グレイシー一族は前田から習った柔術を独自に研究を重ねて進化させていった。一方この頃日本では寝技の膠着を認める高専柔道ができ、当時の旧制高校生らの中で独自に寝技の技術が発展していく。この事は井上靖氏の自伝小説『北の海』のなかで書かれている。

 


(写真6)井上靖著 『北の海』


 講道館柔道は1920年の旧制第六高等学校(高専柔道)×警視庁(講道館柔道)の対抗戦で敗れ、高専柔道家らの寝技に苦戦した講道館側はついに1941年に寝技への引き込みを禁止した。寝技の膠着状態を認めないため寝技の攻防が少なくなり立ち技に偏重していくスタイルに変化していった。その後日本は戦争に突入し高専柔道大会も無くなってしまったが、現在も高専柔道の技術は旧7帝国大学柔道部に受け継がれている。前田光世によってブラジルに渡った柔道はブラジリアン柔術として独自の発展をとげ、総合格闘技の世界では柔術を学んだストライカー(空手、キックボクシング)やグラップラー(レスリング、柔道)、柔術をバックボーンとした格闘家が活躍している。一方日本では講道館柔道はオリンピック種目にもなり世界のJUDOとなったが、立ち技偏重のルールで寝技の攻防が少なくなってしまったような気がする。今回のパリオリンピックでも日本の柔道はJUDOとは違う!という外野の意見が聞こえてくるが、講道館柔道そのものも嘉納治五郎先生が創設した黎明期から現在はずいぶん変わった形になってきてるのではないであろうか?そんな中柔道女子角田選手の寝技は素晴らしかった!圧倒的強さであった。彼女は普段から高専柔道の経験者やブラジリアン柔術家らと稽古して寝技の技術を学んでいたらしい。

日本柔道はブラジルに渡りブラジリアン柔術として日本に逆輸入された。

グレイシー柔術教室の見学体験後、正式に入会した私は柔術の魅力にどんどん引き込まれた。柔道部時代にはほとんど練習してなかった寝技の攻防、数えきれないほどのテクニック、体格の小さい者でも練習量で大きい者に勝てる可能性、打撃を想定した練習もあるが、基本的には立ち技から寝技の攻防であり、試合は帯別(修行歴)、年齢別、体重別(無差別もあり)なので、自分のような中年社会人でも参加しやすい。先日は上達した証であるストライプをいただいた。(9月上旬にはさらに2本目のストライプもいただいた。)


 (写真7)

ストライプ1本目

ストライプ2本目


 ストライプ4本もらえたらその次は青帯に昇格になる。各帯にストライプ制があり、白→青→紫→茶→黒の順番に昇格していく。柔術は帯の昇格があらゆる武道の中でも最も難しいとされ黒帯で10年以上かかるのが当たり前との事である。今のところ黒帯はあまりに遠すぎる目標なので、とりあえず次の目標はマスターズ大会出場、そして2年で青帯昇格を目指そうと思っている。私の柔術人生も始まったばかりである。体が続く限り挑戦し続けるつもりだ。



最後まで読んで下さりありがとうございます。

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