たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-12より

2024年09月15日 08時43分27秒 | 本あれこれ

『アンナ・カレーニナ(中)』-第四篇-3より

「「でも、あの人はいったい、なにをしたというんですの?」ドリイはいった。「ほんとに、なにをしたというんですの?」

「あれは自分の務めをないがしろにして、夫を裏切ったのです。そういうことをあれはしたのです」彼は答えた。

「いいえ、いいえ、そんなことってあるはずがございませんわ! いいえ、どうぞそんなことをおっしゃらないで。それはたしかに、あなたさまの思い違いでございますわ」ドリイは両手でちょっとこめかみにさわって、両の目を閉じて、いった。

 カレーニンは唇に冷やかな笑いをもらした。彼はそうすることによって、相手にも自分自身にも、自分の確信が揺るがぬものであることを示そうと思ったのである。ところがこうした熱烈な弁護は、彼の気持を動揺こそさせなかったが、かえって彼の傷口をかきたててしまった。彼はますます興奮してしゃべりだした。

「妻が自分からそのことを夫に申し立てているんですから、思い違いをしようにもできませんな。なにしろ、8年間の夫婦生活も、むすこも、みんな誤りだった、自分ははじめから生活をやりなおしたいと、申し立てているんですから」彼は鼻を鳴らしながら、腹立たしそうにいった。

「アンナと不品行-あたしにはどうしても、この二つを結びつけて考えることはできませんんわ」

「奥さん!」彼はもうまともに、ドリイの興奮した善良そうな顔を見つめながら、しゃべりだした。彼は自分の舌がひとりでにほぐれていくのを感じた。「まだ疑いをいだく余地があったら、ワタシとしてもどんなにうれしいかしれませんよ。疑っていたときは、そりゃ苦しくはありましたが、でも、今よりは楽でしたからね。疑っていたときには、ひょっとしたら、という希望がありましたから。しかし、今はもうその希望さえありません。でも、そのくせ、なんでもかんでも疑うようになりました。いや、なにもかも疑わずにいられなくなったものですから、むすこのことさえ憎らしくなりましてね。どうかすると、これははたして自分の子だろうかとさえ疑うようになりましたからね。じつに不幸なことです」

 彼には、こんなことをいう必要はなかった。ドリイは相手が自分の顔を見た瞬間、それを察したからである。彼女は相手が気の毒になってきて、親友の潔白を信ずる気持が動揺しはじめてきた。

「ああ、これはほんとになんてことでしょう、なんてことでしょう!でも、あなたさまが離婚を決心なすったというのは、ほんとなんでございますの?」

「私は最後の手段をとることにしました。ほかにどうしようもないのです」

「どうしようもないんですって、どうしようもないんですって・・・」ドリイは目に涙を

浮べて繰り返した。「いいえ、しようがなくはありませんわ!」彼女はいった。

「いや、まったくその点がやりきれないんでして。この種の悲しみというものは、ほかの、たとえば失敗とか死とかいう場合のように、ただ十字り架を負っていけばいいというわけにはいかなくて、どうしてもなんらかの行動に出なければならないんでして。いや、その点がまったくやりきれないのですよ」彼は相手の気持を察したかのように、こういった。「自分のおかれている屈辱的な立場から、出て行かなければならないのですよ。三人いっしょに暮らしていくわけにはきませんから」

「わかりますわ、そのことはあたしにもよくわかりますわ」ドリイはいって、うなだれた。彼女は自分のことを、自分の家庭の悩みのことを考えながら、しばらく黙っていた。と、不意に、さっと顔を上げて、祈るようなしぐさで、両手を組み合わせた。「でも、お待ちになってくださいまし!あなたさまはキリスト教徒なんですもの。あの人のことを考えてあげてくださいまし!あなたさまに捨てられたら、あの人はどうなりますでしょう?」

「いや、私も考えたんですよ、奥さん。ずいぶん考えてみたんですよ」カレーニンはいった。その顔にはところどころ赤いしみが現われ、どんよりした目は、まともに彼女を見すえていた。ドリイはもう心の底から相手がかわいそうになった。「私もあれの口から、自分の恥辱を告げられたあとで、今おっしゃったとおりのことをしたんですよ。つまり、なにもかも元どおりということにしたのです。悔い改める機会を与えてやったのです、あれを救おうと努めました。それが、どうでしょう? あれは世間体をつくろうといういちばん楽な条件さえ、実行してはくれなかったんですからねえ」彼はかっとなりながら、いった。「そりゃ、破滅したくないと思っている人間なら、救うこともできますよ。しかし、すっかり性根が腐ってしまって、もう破滅そのものを救いだと思っているような堕落しきった人間は、どうにも手がつけられませんよ」

「なんでもようございますが、ただ離婚だけはどうか思いとどまってくださいまし!」ドリイは答えた。

「しかし、なんでもとおっしゃっても、いったい、なにができましょう?」

「でも、それじゃ、あんまりですわ。あの人はもうだれの妻でもなくなって、身を滅ぼしてしまいますわ!」

「私になにができるとおっしゃるんです?」カレーニンは眉と眉をつりあげて、きき返した。妻の最後の仕打ちを思いだすと、彼はまた気持がいらいらっしてきて、話しはじめたときと同じように、冷やかな態度になった。「ご同情には感謝いたしますが、もうそろそろお暇しなくてはなりません」彼は立ちあがりながら、いった。

「いえ、お待ちになってくださいまし!あの人の身を滅ぼすようなことはなすってはいけませんわ。まあ、お待ちになって。あたし、自分のことを申しあげますから。あたしは結婚いたしましてから、夫に裏切られました。もう腹が立つのと嫉妬のために、なにもかも投げ捨てて、出て行く気になりました。自分だけで・・・ところが、はっと正気に戻りましたの。それはだれのおかげだとお思いになりまして?アンナが救ってくれたのでございますよ。ですから、今、あたしは、このとおり、生きていられるんですわ。子供たちもおおきくなりましたし、主人も家庭へもどり、自分の悪かったことに気づいて、今では、前に比べれば、それは潔白な、いい人になってくれました。それで、あたしも生きがいがあるんですの・・・あたしも許してきたのですから、あなたさまも許してやってくださなければいけませんわ!」

 カレーニンは、じっと聞いていたが、ドリイの言葉はもう彼の気持に、なんの作用もおよぼさなかった。彼の胸の中には、離婚を決意したあの日と同じ敵意に満ちた気がまたわき起ってきた。彼はちょっと身震いすると、よく透る、甲高い声でしゃべりだした。

「許してやることはできません。いや、そうしたくもありません。それは正しくないことだと思いますね。あの女のためにはなにもかもしてやったのですが、あの女はそれをすっかり、泥まみれにしてしまったのですから。いや、泥まみれになるのはあれの性に合っているのですよ。私は意地の悪い男ではありませんから、今まで一度も人を憎んだことはありません。しかし、あの女だけは心の底から憎んでいます。許してやることはできません。あれが私に投げつけた敵意に対しては、もう憎んでも憎みきれない思いです!」彼はその声に憤激の涙までこめて、そういいきった。

「なんじを憎むものを愛せよ、と申しますのに・・・」ドリイは恥じ入るような声で、ささやくようにいった。

 カレーニンはさげすむように、にやりと冷笑をもらした。そんなことは、彼もとうに承知していたが、とても彼の場合にはあてはまらないものであった。

「なんじを憎むものを愛せよ、ならわかりますが、自分の憎んでいるものを愛することはできません。お騒がせをしてすみません。だれでも自分の不幸だけでも、たいへんなことですからな!」カレーニンはそれだけいうと、気をとりなおして、静かに別れを告げて立ち去った。」

(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、290-294頁より)

 

 

 


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