申命記
6:20 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、【主】が、
あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」
と言うなら、
6:21 あなたは自分の息子にこう言いなさい。
「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、【主】が力強い御手をもって、
私たちをエジプトから連れ出された。
6:22 【主】は私たちの目の前で、エジプトに対し、
パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、
6:23 私たちをそこから連れ出された。
それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、
その地を私たちに与えるためであった。
6:24 それで、【主】は、私たちがこのすべてのおきてを行い、
私たちの神、【主】を恐れるように命じられた。
それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、
生き残るためである。
6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、
御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」
(新改訳)
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日本教の根本理念である自然(じねん)とは、
人間にとっては一番、つきあっても肩がこらないものなのです。
だから日本のクリスチャンは律法が嫌なのです。
よく日本人は「まあ、そんな堅い話はよしましょう」とよく言います。
自然の流れるままが心地よく、いいのですが、
聖書の信仰はそうではありません。それは自分を十字架につけて、
肉に死ななければならないのです。
そして聖霊を受けて、再生して生き始めないと
聖書は単なるただの言葉でしかないのです。
肉は自然を喜びます。
自然の教えをどれだけ極めても、どれだけ高い領域にいけても
十字架で死に、自分の肉を完全に十字架につけて、
完全な人間が生まれるのです。
ゆえに自然=肉ではなく、聖霊に生きることを、
聖書では「義」と言い表しているのです。
「義」は人間を遥かに超えるものであり、生命なのです。
そして「義」は、切断するものであり、神のものとなることです。
それでしか自然を克服できないのです。
そしてそれを克服して、神に生きることを生命と聖書は語ります。
ゆえに25節をもう一度、じっくり味わいましょう。
6:25 私たちの神、【主】が命じられたように、
御前でこのすべての命令を守り行うことは、
私たちの義となるのである。」
(新改訳)