言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

生成AIを脅迫する教育学者

2024年08月06日 10時18分49秒 | 評論・評伝
 昨日大手予備校が主催する教育セミナーに参加した。大阪難波の一流ホテルの大宴会場に相当な数の教員を集めての大集会であつた。
 いく人かの講師が話されてゐたが、どれも低調で残念だつた。この種のセミナーが成功するかどうかは主催者がどれだけ丁寧に講演者にセミナーの主旨を説明し意見交換し講演の内容を鋭角的にできるかにかかつてゐる。さうでなければ、講演はどこかで使つたパワーポイントの焼き直しかどこかに書いた文章の再現でしかないものになりがちである。
 昨日のもさういふ印象が強かつたが、それとは次元の異なる酷い講演があつた。それは講演といふよりは、「皆さん生成AIを使はないで学校の責任が果たせますか」といふ主張の押し売りであつた。生成AIの利用については私も全く異論はない。問題はその次の話が全くないといふことである。生成AIをどこに使ひどこに使はないのか、自分の頭で考へ、自分なりの言葉で説明するのが、この講演の主旨ではないか。しかし、そんなことには一切触れない。いや触れようとの意識すら感じなかつた。30分の講演はそれだけであつた。だから、私は脅迫と比喩したいのである。
 例へば今から60年前に新幹線が出来た。それ以降の社会では新幹線を使はない選択肢はない。その通り。ではそれによつて得られたメリットと失はれたデメリットとは何だらうか。一言で言へば、利便性と多忙化とを共に味はふ時代になつたといふことである。そして、新幹線を使はない旅といふものにも価値があるし、さういふ旅は60年経つた今でもある。さういふことが技術革新と人間の生活との間にはあるといふことが変はらぬ関係である。不易である。
 となれば60年前のそれと同じことがAIを巡つてこれから起きる。学校や教員はそれを踏まへて現実のこの生成AIに取り組みませうといふのがアカデミズムの、現実社会への正確な距離感であらう。ところがその教育学者は違つてゐた。聞けばこの3月まで高校の教員だつたと言ふ。なるほどICT推進のアジテータであつたのかと合点がいつた。奈良県はこの人をリーダーとして教育改革に挑んでゐるやうだ。事の推移を見守つて行かうと思ふ。
 いい勉強になつた。
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