言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

不易流行といふこと

2024年08月07日 09時50分01秒 | 評論・評伝
 先日の講演会で講演者の一人が、この言葉を引用し、芭蕉はこのやうに言つてゐるとして示したのが次の言葉である。「去来抄」にある。
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」。
 そして、これを次のやうに現代語訳してゐた。
「変わらない真理の中にも新しい変化を取り入れようという考え方です」と。

 国語の教員であるといふ方の、わづかこれだけの短い自分の言葉に矛盾があることに気付いてゐない。それに驚いてしまつた。「変わらない」と「変化」が両立するとはどういふことであるのか。
 芭蕉が言はんとしたところは、俳句には基本がありそれをおろそかにしてはいけない。ただし、その基本に忠実といふだけでは陳腐になつてしまふので新風を吹き込めといふことである。
 芭蕉が「去来抄」で述べたところを、真理自体が変化するかのやうに解釈しては、芭蕉自身も驚くだらう。「私は真理についてなど述べてはをらぬ」と。
 俳句創作の妙についてのこの言葉を、真理や新技術への対応について応用するといふ姿勢が、私には不遜に思へた。芭蕉はもつと控へ目である。

 ついでに言へば、この講演者、「デジタルネイティブの今の子たちは国語以外の文章をほとんど横書きで読んでゐます。国語の授業の時だけではないですか、黒板に縦書きで文章を書くのは」と話してゐたが、そんなことは電子黒板が出て来る前からのことである。数学英語理科社会、その他どんな授業も以前から横書きである。それがどうしたのか。もはやデジタル社会は待つたなし、と言ひたいのだらうが、横書きが主流であることをいくら述べてもそのことの根拠にはならない。いや、デジタル社会であることを否定してゐる人などほぼ零であらう。今更それを正当化するために横書き文化の到来を述べるとは片腹痛しである。
 それでも縦書き文化は残る。電子機器の普及や横書き文書の拡大とは関係ないからである。講演者が不易流行といふのであれば、むしろこのことの方を言ふべきであつた。縦書き横書きを許容するところにこそ、日本文化の不易流行があるのである。
 この方は、日本の文化の多様性、奥の深さに気付いていらつしやらないやうだつた。

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