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第25回水彩人展 開催近づく

2023-09-02 04:28:32 | 水彩画
 

 第25回水彩人展が近づいて来た。9月10日(日)~9月17日(日)東京都美術館で開催する。中判全紙の作品4点を出品する予定である。是非とも見て頂きたい。水彩人も始めたときの仲間は3名になってしまったが。25年前の気持ちのままに今も水彩画を研究だと思い描いている。

 25回展は記念展と言うこともあり、画集を作った。展示も大きく変えて、小品は小品だけで2つの部屋に集めることにした。また1室には、会員同人が評価する人の投票を行い、票数の多かった人の作品を飾ることにした。突き当りの4番目の部屋を一番広い部屋にして大作を中心に展示する。

 初めての試みなので、不安もあるが水彩人がここから、25回展を機にさらに成長をするために、やれることは何でも試みてみようと言うことだ。水彩人は水彩画の研究会である。まだ水彩画は未開の分野が広がっている。紙に水彩絵の具と言う材料は素朴なものであるが、画材の中で最も優れた材料だと考えている。これから水彩画の本領が発揮されてゆくはずだ。

 絵を語る会も9月11日と13日の10時から語る会を行う予定です。 絵を語る者は、語ることを希望する出品者であるが、その人自身のために絵を語るのである。語ることによって自覚すると言うことになる。思っていると言うことと、口に出して自分の絵について語ると言うことは違う。

 語ることによって、絵に対する自覚が生まれ、次の絵の成長に繋がるかも知れないと考えている。私は語ることで成長してきた気がしている。それはブログで語ると言うことでもあるが、絵の仲間の前で語ること。水彩人の会場で語ること。そのことがなければ、自分に近づいてくることは出来なかったと思う。

 多くの絵描きが職人的気質を持っている。黙って仕事だけをしていれば良いのだ。仕事で判断してもらう。これは職人の姿勢で、芸術家は研究者でなければならない。良い仲間と切磋琢磨して、あらゆる方法で成長を目指す者だろう。

 絵を語ると言うことは、水彩人なりの表現でもある。絵は表現である。表現の意味はそれぞれのものであるのだろうが、いずれにしても作者が何かを表現しているのが作品だ。自らを絞りだす表現がないとすれば、それは芸術作品ではない。その表現を伝えるために語ると言うことでもある。

 語るためには聞いてくれる人が居なければならない。是非多くの人に聞きに来て貰いたいと思っている。ただ絵を展示している開場である。絵を語っている人を邪魔だと考える人もいるかもしれない。絵を見ている人の邪魔にならないようにお願いしたい。

 水彩人展は数人での研究会から始まった。水彩連盟や日本水彩画会がアクリル画の登場によって、純粋な水彩画の表現の探求から変化をした。作品もせいぜい中判全紙ぐらいだったものが、100号を越えるような物になった。まるで油絵のようだという、展覧会に変貌した。

 水彩人は水彩画の素朴で直接的な表現の原点に立ち戻ろうと研究を始めた。その研究会が別派活動ではないかと言うことから、公募団体から私は退会させられた。そこから25年が経ち今に至る。水彩人が独立できたことは幸運だったと思う。アクリル画と並んで、水彩画を展示するということでは、水彩画を最高の素材だと考えてきた者としては、残念すぎることだったのだ。

 ただ、未だ水彩画は素材として、開発され尽くしたとは言えないと思っている。世間の考える水彩画は、ほんの一断面である。水彩画はこれから切り開かれるだろう、私絵画の世界に於いては、主流の表現になるだろうと考えている。

 ーーーここからは少し水彩人展のこととは離れる。
「私絵画」とは自分のために、描くという行為自体に意味を見いだす芸術行為のことだ。表現するという意味が、他者に対する表現から、自分自身に対する行為としての表現に変わるだろうと言うことだ。芸術としての絵画はすでにそのように変わり始めていると思われる。

 日本だけでもたぶん数万人の人が絵を描いている。商品絵画の時代の中で、商品としての絵画の人は1000人程度だろう。それは純粋絵画分野でのことでイラストレーターは別だ。100人の内99人の人は自分のために絵を描いている時代なのだ。

 何故自分のために絵を描くのかと言えば、それが生きる手応えだからだ。何で生まれてきたのか。そう考えたときに、自分の生きると言うことと向き合う方法が、絵を描くという行為になっている者が居るのだ。少なくとも私はそうである。そして、仲間の多くもそうなのでは無いかと見える。またそうして描かれた絵の中にこそ、藝術としての絵画に見えるものがあるのだ。

 私絵画の研究も成長もなかなか困難だ。自己本位に成りがちである。独善に成りがちである。商品絵画と私が見ている人達の多くが、なんて失礼なことを言う奴だと考えるだろう。資本主義社会全体から、絵画の現状を見れば、それ以外考えられない自体なのだが、間違っても評論家という人はそんなことは言わない。

 現代の評論家はその商品絵画の提灯持ちと言わざる得ない人がほとんどだからである。商品絵画を藝術の絵画であると主張しなければ、立つ瀬が無いのだ。芸術論とか、絵画論を語るのが本来の評論家なのだろうが、そういう人はネットで探して見つからない。

 北斎の絵だって商品絵画である。むしろ何故江戸時代の商品絵画がそこまでの芸術性を持てたのかが問題なのだろう。質の高い芸術を理解する大衆が存在したからだろう。堂々とそのことの意味を評論すべきだろう。現代の絵画の即物性や、幼児性を評論すべきだ。それが資本主義末期の芸術論ではないだろうか。

 水彩人展も25回を機に、さらに水彩人が求めてきたものを純粋に探求する会になりたい。私がやれることも今回が最後か考えて、色々提案させてもらった。始めて25年も経つと50歳だった人も75歳である。メンバーが替わって行くのも止むえない。25回展で水彩人を始めた者としての方角だけは示したいと考えている。

 水彩人展はおおよそ100名くらいの人で開催される。沖縄から北海道まで仲間が居る。一年に一度大半の人が顔を合わす機会になる。水彩画の一番の研究の場だ。ゆっくり絵を見せてもらい、作者の考えを聞かせてもらおうと思う。石垣島に居ると、どうしても絵の世界から離れてしまう。

 こうした時代の中で絵を描くと言うことが、どういうことなのかを水彩人の仲間と話し合いたいと思う。自分変えを居て行くためには一年に一度の重要な場だと思っている。そうした水彩人という場を作り、今もあるということは何にも代えがたいことだ。大切にして行きたい。

 
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