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  • 天命を悟る

    「人事を尽くして、天命を待つ」といふ古言があります。「人事を尽くす」とは、自分のできる限りの力を尽くすといふことだとして、「天命」とは何でせうか。人事は自分がすることなので自分でコントロールできるでせうが、天命のほうは得体が知れない。その得体の知れないものゝ命(意思、意図)を待つといふのは、何だか心もとない気もします。 3年ほど前の記事「台風が直撃しませんやうに」の中で、小学生の男の子とツアー・コ...

  • あなたがたのただ中にある

    先日紹介した「3粒レーズン瞑想」を自分なりに続けてみて、気づいたことがあります。 私は現在独り暮らしなので、大抵の食事は自宅で一人で食べる。テレビは手放して1年ほどになるが、無音はさすがに寂しいのでYoutubeで動画を流しながら食べるのが常だつた。ところが、瞑想を始めるとともに、この動画もやめてしまつたのです。 食事を目の前に置いて手を合はせる。すると、「これから聖なる祈りの時間が始まる」といふ、背筋が...

  • エゴと対話する

    『「今この瞬間」への旅』の著者、レナード・ジェイコブソンには特異な能力があるやうです。自分のエゴばかりでなく、他人のエゴとも1対1の対話ができるといふ能力がそれです。 しかしそのエゴとは、そもそも一体何者なのか。そして、そんな得体の知れないものとどのやうに対話するのか。なんだか眉唾にも思へるのですが、ジェイコブソンはその対話の一つを詳細に再現してくれてゐます。その一部を抜粋して紹介してみませう。 ...

  • 光といふ言語

    前回の記事「足はなぜ動かなかつたか」の中で、 「体に届くメッセージには、言葉はない。現れるのはただ、足が動かなくなるといふ現象だけです」 と書きました。 確かに、体には我々がふつうに日本語とか英語などと呼ぶやうな言葉は通じないでせう。しかし、体には体なりに理解できる言葉があるのではないか。その言葉の命令(指示)によつて、崑崙丸に乗らうとした文青年の足はピタリと地について動かなくなつた。体が理解できる...

  • なぜ足は動かなかつたか

    1943年の秋、文鮮明青年は早稲田大学附属の高等工学校を卒業したのち、韓半島の故郷の家に「崑崙(こんろん)丸に乗つて帰国する」と電報を打つた。ところが、その帰国船に乗らうとした日、足が地について離れないといふ、思ひがけない不思議な現象が起きたのです。 出航時間はどんどん迫つてくる。しかしどうしても足を離すことができず、結局、崑崙丸に乗り損ねてしまつた。 「崑崙丸に乗るなといふ天のみこゝろのやうだ」 と...

  • 3粒レーズン瞑想

    「3粒レーズン瞑想法」といふものを紹介します。やり方はとても簡単です。 3粒のレーズン(必ずレーズンである必要はない。3粒のピーナッツでも、3個のキャンディでもよい)を用意します。そしてその1粒1粒をよ~く観察しながら食べる。それだけの瞑想法です。 もう少しだけ詳しく言ふなら、 ① レーズンをつまみ、表面の色や質感などを感じる。 ② 匂ひを嗅ぎ、充分に感じる。 ③ 口に運び、舌の上に乗せる。 ④ ゆつくりと噛...

  • 信じることと知ること

    僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。(『学生との対話』小林秀雄) 我々人間の意識、特に「私」といふ意識とは一体何者なのか。どこから、どうやつて生まれてくるのか。ノーベル賞学者も量子論を駆使して解明しようとしてゐますが、まだまだ解明には至ってゐない。 意識を追求する科...

  • 人生は蕩減

    最近、知人と話してゐて、介護の話になつた。 私は3年半介護した母を1年前に看取つた。知人は父親が介護施設に入居した。口から食べようとすると、しばしば誤嚥を起こす。危険なので、鼻に管を通して、そこから栄養物を入れる処置をした。 意識が薄れてゐるなら、そんな処置など家族はしたくなかつたが、本人にはまだ生きる意志が見てとれる。意思があるのに栄養を絶つといふのはあまりに忍びないので、管で延命してもらふやう医...

  • すべての人は哲学者になる

    ロボットが普及する次の10年、20年は、ひとびとが哲学者になる時代ではないか。僕はそれに先んじて、すべての人間を哲学者にしたいのだ。 (『アンドロイドは人間になれるか』石黒浩) これが本書の締めくゝりのフレーズです。石黒氏が考へてゐること、本書で読者に伝へたいことは、この一言に尽きると言つていゝと思ふ。 石黒氏は大学の教授ですが、かなり風変はりに見える。表情はつねに不機嫌さう...

  • こころの貧しい人はなぜ幸いなのか

    こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。(マタイによる福音書5:3) イエス様が語つたと言はれる、有名な「山上の垂訓」の一節ですね。「こころの貧しい人」とは、どのやうな人でせうか。 ネットで調べてみると、 ・ 霊において貧しい人:自分の霊的な無力さを自覚してゐる人 ・ 自分の限界を自覚してゐる人:神の前に謙虚である人 ・ 霊に砕かれた人:神の前に無力...

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まるくまーる(元教育部長の講義日記)
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