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しがない統合失調症患者の生きざまブログ。

山への憧憬と情熱も、往年のような激しさを失い、最近は少し寂しいですが、自分には他の役割があるのかな、と模索しつつある最近です。

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2010/07/07

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  • 「不愉快な本の続編」絲山秋子著。

    図書館で見掛けたので、読んでみた。 まず、とても引き込まれる筆致で、ライトノベルばりに読み易い。しかし、表現の豊かさや内容、構成などを見ると、明らかに純文学だ。主人公がイカれたヒモくずれで、砕けた饒舌体で書かれるためもあって、難解な表現がなく長音記号の頻出するナンパな文章なのに、そこそこ文学的であり、ぐいぐい引き込まれる筆致だ。襟を正して正座して読むような、堅苦しさは皆無だが、純文学としての芸術性がある。一言で言って、面白い。 場面は、広島、東京、新潟、富山、広島、と移り変わるが、ところどころフランスやイタリアなどの海外の回想も入り、そこは旅情を誘う大衆文学的要素もあるのだが、富山在..

  • 「光まで5分」桜木紫乃著。

    拙著「筆と虹」の感想を戴いたときに、桜木紫乃と雰囲気が似ていると言われたことがあって、前から気になっていたので、一作読んでみた。 読み出してみると、僕の文体とは似ても似つかぬ比喩表現だが、視覚的にイメージの湧きやすい描写である点が、類似点かもしれないと感じた。また、描かれる世界がとても美しい。これは、僕が文学論に書いたことでもあるのだが、僕は小説を書くときに、かならず先に美しい小説世界を思い浮べる。想念美と僕が呼ぶそのような美しいイメージを、この小説も持っているところも、共通点である。 しかし、その想念美のありようが、僕とは一八〇度異なる。この作品では、小説世界の美しさは、売春宿に務..

  • 「かっかどるどるどぅ」若竹千佐子著。

    「おらおらでひとりいぐも」が面白かったので、若竹千佐子さんの次作を待っていたが、昨年の春に出ていたのを見付けたので、読んでみた。 読み終わって思ったのは、最近の小説にありがちなのか、テーマが欲張って盛り込みすぎである。現代資本主義に対する問題意識から始まり、ウクライナ戦争の反対、日本政府の悪政への疑念、意識改革の提示などのテーマが天こ盛りである。しかし、上手いのはそれらのテーマが違和感なく、作中の里見悦子ではないが、「一貫性」を持って綴られているところである。そのあたりは、作品を技術が巧みだと感じた。 登場人物はどれも、現代の競争社会に合わずはぐれた人たち。現代社会で上手く適応できな..

  • 「流卵」吉村萬壱著。

    「流卵」という言葉は、僕の持っている広辞苑には掲載されておらず、どうも造語らしい。おそらく、作中に出てくる理科教師の言った「受精卵」に対する言葉で、流産した受精卵のような意味ではないかと思われるが、この小説自体が、流産したかのような出来に思えた。 オカルトから、異常性欲、シンナーと、矢継ぎ早にドギツいネタを繰り出して、読者を飽きさせない技術は大したものだが、牽引力が強いだけで、中身は空ろな感じを受けた。魔術の怪しげな知識が細かく書かれていてリアリティがあって、主人公の伸一は魔術をどのように開花させるのか、あるいはそのようなオカルト趣味が人生にどのような影響を与えるのか、そのようなところが..

  • 「嘔吐」ジャン=ポール・サルトル著(白井浩司訳)

    サルトルという人を、ほとんどと言って良いくらい知らず、哲学者らしいことはなんとなく知っていたが、その哲学の内容はまるで知らない。しかし、同人に加入して戴いた郷土の文学の大先輩が勧めていたので、哲学書ではないこともあって、読んでみた。 哲学者とは思えないほどの、詩的な文体で綴られているが、ものごとを説明するのに、筋道立てて順序よく論理的に述べることをせず、命題の周辺を関係の無さそうな細部まで描いて、直接そのものを言葉で説明せずに、感覚的に浮き彫りにするような書き方で、読んでいてまどろっこしい。少しも哲学者らしくなく、少なくとも文系脳の描き方である。したがって、非常に判りにくくて、読者に不案..

  • 再読「真実真正日記」町田康著。

    以前にも、感想をこのブログで述べたことがあるのだが、勉強会のテキストに選ばれたので、再読することになった。 初読のときは、抱腹絶倒の面白さだったのだが、二度目の今回は、だいたいの筋が判っているために、それほど爆笑はしなかった。しかし、ユーモアの腧というものを町田康氏は弁えていて、むしろ吉本芸人になった方が理に適った職なのではないかと思うくらいである。その辺は、大衆を惹き付ける力が強いので、とても大衆的な小説とも言える。 ただ、社会問題も何気なく訴えていて、表面化はしていないが、戦後の昭和の時代を潜り抜けた日本は、国民の内面は動物化しているのではないかとのテーマを感じ取ることができる。..

  • 短歌と陶芸。

    しばらくまえに、民芸に関する美術展覧会を観に行った。「民藝」というのは明治時代の造語らしく、生活の中の身近な美術品といった意味のようである。それはつまり、日常の衣食住に直接関わってくるものたちで、食器や衣服、小物などのことのようなのだ。 これを見たときに、僕はこれは、今まで僕が感じてきた芸術における「美の解放」に対して、あっち向きの概念のように感じた。芸術が市民に解放されるにおいては、美を見出す眼力の解放と言うことを行うべきというのが私見で、美しいものを集めるのではなくて、何気ない物や風景に、潜在的な美を見出すのが、芸術の役割であると思うからである。 そのようなことは、同美術館の滝口..

  • 「夏の流れ」丸山健二著。

    丸山健二という小説家は、名前も聞いたことがなかったのだが、勉強会のテキストになったので、読むことになった。芥川賞作品らしい。 全体的に、地の文や台詞など、文章の読みにくさを感じた。特に、台詞の部分は、短い台詞の遣り取りが台詞だけで書かれている部分が多くて、途中誰の台詞であるかが特定できない部分もあった。些末的なことを言うと、そのような台詞の主を、台詞の内容だけから推測させるようなものは、僕の趣味には合わない。 内容的には刑務所の話なのだが、主人公の看守がいやに能天気である。殺人犯の処刑をする身でありながら、休日に同僚と釣りに出掛けて楽しんだり、子供と家族団欒を楽しんだりする。よほど神..

  • ふたたびの白木峰。

    一昨年、大日平に登って妻が腰を抜かして以来一度も山に登っていなくて、そろそろ山が恋しくなってきたので、あまり乗り気でない妻を説得して登ることにしたのだが、初めは鳴谷山を考えていたが、どうやら林道が倒木で塞がれてて、林道の下から歩いて行かなければならないようなので、もう少し手軽なところを探して、妻も前に行ったことのある白木峰にした。 すると、今年から8合目まで林道が復旧したとかあるので、今度はあまりにも物足りなさすぎるので、前回同様、杉平キャンプ場から登った。 キャンプ場出発7:45。だらだら林道を歩く。こんな遠かったっけ?と訝る頃に、5合目登山口到着、8:40。小休止して、登り始める..

  • 無気力なこの頃。

    文フリが終ってしばらくして、疲れが出たのか、どうにもやる気が出ない。そればかりか、インスピレーションが湧かず、あまり芸術にも新鮮味を感じられなくなっている。どうやら、陰性症状が亢進したらしい。 いやいやでも書いた時に、インスピレーションが湧けば、仕事にはなる。若いとき、たとえば「眼」などを書いているときは、幻聴と思考伝播から来る執筆恐怖で、書くのが苦しかった。こころの痛みを堪えつつ書いていた。そのときでも、インスピレーションは湧いていた。ここ最近、そのインスピレーションが湧きにくくなっているのだ。 ちょっと、異なる視点から、ものごとを見ることが必要な気がする。保坂和志の小説講座にもあ..

  • 「DJヒロヒト」高橋源一郎著。

    少し前に発売されたので、昭和の日に購入してみた。 題名から連想されるのは、何と言っても「玉音の放送」だが、その連想の通り、全編を通して語られるのは、戦争の話である。小説家を中心として、多くの著名人を主人公として、日中戦争や太平洋戦争のことについて描かれた譚が、いくつも繋ぎ合わされて、全体を形成している。この点、技巧的には巧みな方法で、次から次へと話が移るためか、600ページを越える長大編なのに、ほとんど中弛みを感じさせない。それだけ、読みやすい構成になっている。 しかし、明らかに虚構と判るように書いてあるために、どこまでが史実であるのかが判別しがたく、多くの資料を渉猟して書かれたもの..

  • 文学フリマ東京38。

    今年こそ、春の文学フリマ東京に出よう、ということで、体調も整えて当日に臨みました。 いつも通り自動車で上京しましたが、ホテルに安いところを探して泊ったら、品川シーサイド駅の傍になってしまい、行ってから気付きましたが、流通センターまで3駅のところでした。りんかい線とかいう埼京線から直通電車もある路線が、いつのまにか東京に出来ていて、天王洲アイル駅が東京モノレールと連絡しているために、電車ですぐ会場にいけるという位置に泊ったのです。それで、急遽電車で行くことに予定を変更しました。 しかし、移動してみると、りんかい線や東京モノレールのホームと電車の段差や隙間が結構大きくて、乗り降りがしにく..

  • 「幻の母」城戸朱理著。

    僕は、詩というものが元来苦手で、感動を覚えたこともないし、読むのにとても骨が折れるので、今まで詩集をほとんど読んだことがなかった。しかし、同人誌などでお世話になった関係上、城戸朱理さんの詩集を購入したために、いやしくも充分理解できたとは言いがたいが、一読してみた。 この詩集を読んでまず感じたのは、描かれる幻の川ホータンが、とても詩的存在であると言うことだ。ヘディンの名前は、浅学の僕でも知っていたが、その「さまよえる湖」と同様、消えたり現われたりするという点に、とても現実の中の詩性を感じるのだ。奇しくも、さまよえる湖もホータン川も、タクラマカン砂漠にあって同じタリム川に接続しているのだが、..

  • 「魔笛」シカネーダ著/モーツァルト作曲(海老沢敏訳)。

    SNSで見掛けたので、まえから気になっていた「魔笛」を読んでみた。このジングシュピールは、妻の持っている音源を部分的に聴いたことがあるだけで、観たことがないためにどのような話か全く知らなかった。だから、却って先入観なしにこの台本を読むことができた。 読後に思ったのは、普通に面白かった。 まず、技巧的に詩的というか凝っている。例えば、夜の女王の三人の侍女が始めに出てくるが、この台詞と話すタイミングが、実に幾何学的に配置されている。言葉のリフレインと対句的な対比は、音楽で言うならば三重奏を彷彿とさせる規律に則られていて、韻文的な形式美があるのだ。この三というのが、ユング心理学的なあるいは..

  • 「菜穂子」堀辰雄著。

    高志の国文学館で氏の展覧会があったので、その名前はうろ覚えするほどに耳にしたことはあったにせよ、殆んど知らなかった堀辰雄氏の小説を読みたくなった。それで、私小説からロマン派にシフトする試みの作品という「菜穂子」を選んだ。 とても魅力的な小説世界なのは、少し噛み砕くのに時間が掛かる長めの文体の所為なのか、浅間山を中心にした静謐な小説の舞台の所為なのか、いずれにせよ美しさを感じさせる情趣深い作品だった。しかし、一方で、この小説により作者は何を伝えたかったのかというような、顕著なメッセージ性がまるでない。始まりが菜穂子と不仲だった母親の日記から始まっていて、導入部としてとても興味をそそるのだけ..

  • 「世に出る前」内角秀人著。

    同人メンバーの方が、本を自費出版なさったので、読んでみた。 内角さんは、いつもは野球に関する小説を書く方だが、この小説は半分自叙伝である。半分というのは、読んでいてそのように感じるからでもあるのだが、それは日記のように、伏線にも何にもなっていない事柄が雑然と記されていたり、前後関係のあまりないような登場人物が数多く出てきて、普通に考えられるところの一般的な人生経験のように、偶発的な出来事が列挙されているからである。どこまでが創作かは判らないが、本人も自叙伝的作と言っているために、おそらく多くの部分がみずからの経験にリソースを得ているのだろう。 しかし、主人公の名前も実名ではなく、出て..

  • 「彼岸先生」島田雅彦著。

    島田雅彦氏の小説は初めてだったが、興味があったので読んでみた。 文体は、非常に読みやすいうえに美文だ。350ページを越える長編だが、読めたのはその所為もある。同じ美文でも、大江健三郎のような読みにくい美文ではないために、頭をそれほど使わなくても、内容が理解できるためだ。 しかし、それだけだと途中で中だるみを感じてしまうが、そのあたりも次々と話題が提供されるために、あまり苦痛がなかった。ただ、先生の日記の件りで時間が一旦止まる。この停止された時間の長いことと言ったら、かなりの苦痛である。この冗長でくどくどと先生の女たらしぶりを自慢のように披露した件りが、一番のネックである。ここまでくど..

  • 「星の王子さま」サン・テグジュペリ著。

    勉強会のテキストとして選ばれたので、読んでみた。 それまで、この「星の王子さま」という言葉が、小説の題名であることすら知らなかったのだが、解説を読むと世界150ヶ国語くらいに翻訳された超ベストセラーなのだそうだ。なるほど、平易な文章で描かれた童話のような世界は、誰でも頭を使わずたやすく読むことができる。 たやすく読むことができるのは美点ではあるが、この小説はその分、難しい表現を避けているために、文学性を犠牲にしているところがある。ただ、それをさっ引いても、描かれる世界の詩的な要素は、小説に独自性を与えていると言える。 出だしの、蛇の絵を描く部分が、その端的な例である。大人というも..

  • 「海を感じる時」中沢けい著。

    ちょっとした縁があり、中沢氏の著書を読んでみた。 驚いたのは、主人公の名前が「中沢恵美子」であり、私小説じみていることだ。出だしの洋とともに見た海の美しさを感じさせるような詩的な描写から、自然主義的な現実を描写した小説ではないと思っていたのだが、ひょっとしたら多くの部分が体験談なのかもしれない。しかし、どこを読んでも小説世界に漂う美しさは、創作世界のそれのように感じさせる。 テーマ的には、ラストを読むまでは、ドラマチックな恋愛を知らない平凡な女の子が、運命的ロマンスのないまま男を好きになっていくというような、ある種のステレオタイプ的な一般人の女性の成り行きを描いたような小説であり、男..

  • 「悪の日陰」翁久允著。

    地方文壇の先人として前から名前は聞いていたのだが、最近文学館で氏の展覧会があったので、その書籍を読んでみることにした。 読んでまず思うのは、校正が不充分であること。校正以前に、日本語をよく知らない人が書いた文章である。感覚的造語が多く、文法的にも小説技法的にも、未熟と言わざるを得ないところが散見される。日本語を習いたての外人が書いたら、このようになるのではないかという感じの文学である。移民地文学と言うことだから、確かに翁は日本語の理解が不充分だったのかも知れない。 内容的には、登場人物を一つの駒として多数使って、さまざまな事件を面白おかしく描いた、週刊誌のゴシップネタの寄せ集めのよう..

  • 「東京都同情塔」九段理江著。

    生成AIを作成して書かれた小説ということで、初めは莫迦にしていたが、人類における生成AIのあり方的なテーマもあるというようなことを聞き、読んでみることにした。 読後、まず思ったのは、欲張りすぎということである。あれもこれも盛り込みすぎ。生成AIから始まって、犯罪者のあり方、平和とは何か、建築はどうあるべきか、その辺りまでにしておけばまだしも、自意識の発生についてのモデルの提示まで来ると、テーマが拡がりすぎて、作品として締まりがなくなってしまっている。 この自意識の発生について、言葉が鍵だとの案は、安部公房に見られるものだけども、彼の影響が色濃いのは、建築家牧名の不必要とも言える外部と..

  • 「ブエノスアイレス午前零時」藤沢周著。

    この著書は大分前に既に読んでいて書評も書いてあるのだが、今度同人の勉強会で取り上げることになったので、再び読むことになった。 筋はほぼ覚えていたので、ラストもそんなに衝撃を受けなかったのだけれども、藤沢氏の文体にも慣れてきたのか、随分その小説世界の美しさを感じることができた。そんなに描かれているみのやホテルが美しいわけではないのだけれども、描写されるちょっとした細部が生き生きと目の裏に浮んできてイメージしやすい上に、ところどころにカザマの脳裏に浮ぶ想念としての、若い頃の記憶であったりブエノスアイレスのローチャの想像だったりが、地の文の間にバランス良く配置されているために、リアリズムという..

  • 今年の五大事件。

    毎年のように、飽きもせずにこのような記事を書いているが、自分でも少々面倒くさい気がしないでもない。しかし、一年を振り返ることによって、過去を大切にできるようにも思い、今年も書いてみることにした。 5.空華第一八号に、城戸朱理さんの記事を寄稿して戴く。 城戸さんは、古くからツイッターの相互フォローをして戴いていて、実際にお会いはしていないものの、著書の詩集からその文学的センスの鋭さについて、尊敬の念を抱いていた。プロの小説家の知人も殆んどいない中に、われわれの同人誌が少しでも売れるようにと、記事をお願いしたら、快諾戴いた。それで、第二回空華文学賞受賞作の講評を戴いた。ひょっとした..

  • 創作の合間の落書き。

    最近、自分の書いてきた小説について、若干俯瞰できるようになってきたような気がする。 それまでは、自分の渾身の力を込めて書いたものが、全く認められないことに関して、不公平だの偏見の所為だのと言っていたが、それが全くないとは言えないけれども、僕の小説世界が非現実的な所為ではないかと、最近思うのだ。 人によっては、僕の書く登場人物は、特に女性が綺麗すぎると言われる。つまり、男性の投影する理想像的な女性になっているということである。実際にそのような女性がいないために、読者を惹き付けることが出来ないのではないだろうか。 多分、大衆というのは高価な手作り壺を見ると割りたくなるような、脆いもの..

  • 「夏の花」原民喜著。

    世界で戦争が起きている昨今、原爆を描いた小説を読む必要があると感じ、この代表作を読んでみた。 出だしは主人公の墓参りである。この部分は、とても情緒豊かに描かれており、このあとの悲劇の描写を際立たせる効果がある。 しかし、原爆の被害の描写は、極めて客観的に淡々と描かれるために、阿鼻叫喚というような陰惨さを、激しくは感じさせないものと感じた。被害の状況の悲惨な様が、その冷静な語りにより軽減している気がする。これは、作者が実際にその悲惨な状況を見て、眼を覆ってしまったのかもしれず、たとえばホラー映画や残虐殺人事件を描いたときの、おどろおどろしい殺戮現場のような、グロテスクとも言える悲惨さが..

  • 「ちるとしふと」千原こはぎ著。

    文学フリマに、「うたそら」でいつもお世話になっている千原こはぎさんが出店なさっていたので、著書を購入した。実は、この本で通読し終えた歌集は三冊目なのだが、歌集というものを読み慣れないせいか、いつも途中で挫折してしまう。この歌集も、したがって一気に読めたわけではないので、浅い読みしかできてないと思われる。その中で、僕の感じた感想を述べよう。 恋愛の歌が圧倒的に多い。しかも、散文で連作ごとに関連のある歌が並べられているために、あたかも小説でも読むかのように、歌人の姿が浮き彫りになってくる。連作だからといって、何も一定の情景を描き出さなくても良いはずなのだが、この歌集は歌人の日常の情景が、読者..

  • 文学の癒やし。

    僕は、「神懸かった痙攣」という文学論もどきを書いたことがあるが、その稚拙な論文に対して、文学に癒やしと希望を求めるのは新しい知見だという感想が届いた。僕には、その感想の方が意外だった。 僕は、在京時代、とても孤独でこころが凍えきっていたし、持病の対人恐怖症状によりメンタルに多くの傷を負っていた。それで、芸術には癒しを求めた。音楽では、マーラーの復活にとても癒されていたし、絵画でも、印象派絵画などに慰められていた。だから、文学にもそのような癒しを求めた。 たまたま、僕の在京時代頃、J文学が流行していた。J文学は、小説世界が都会的なものが多く、セックスやバイオレンスのドギツい描写がほとん..

  • 公正でないなら。

    なかなか僕の小説は読まれない。統合失調症で第一選考も通ったことのない負け犬小説家などと、イメージが固定しているのかもしれない。確かに、大手文学賞すべて、第一次選考を通らないという実績は、僕の評判を落としているに違いない。僕は、文学賞の公正性を疑っているし、ひょっとしたら一時期の妄想のように、出版業界のブラックリストに僕の名前が掲載されているのかもしれない。 文学フリマなどでも痛切に感じるのは、選考に残った人の方が、よく読まれるという事態である。結局、大衆が何も判らない状態で本を選ぶときの基準になるのが、文学賞の予選通過という実績である。これがあれば、みなさんに一目置かれるし、本も売りやす..

  • 文学フリマ東京37。

    というわけで、毎年のように出ている秋の文学フリマ東京でありました。 今回は、土曜開催と言うことで、客数がどのように変化するか心配でしたが、終ってみれば12890人とかなりの数が来たようです。しかし、それにしては売上が伸びなかったというのが実情としてありまして、理由を考えてみるに、ブース当たりの客数があまり変化無いという視点を得ることができました。客数が増えたのは、ブース数が増えたために、おのおののブースの客が来たからに過ぎず、しかも一ホールならお客もすべてのブースを廻ることもやりやすいですが、ホールが三つに分かれているために、すべてのブースを廻りにくいという点があり、結局ブース当たりの客..

  • 文学フリマの一般入場有料化について。

    文学フリマ東京も、当初からはかなり規模が大きくなり、最近の発表では、来年令和6年の秋は、今まで長い間お世話になった東京流得センターから場所が替わり、コミケと同じ東京ビッグサイトになるとのことだ。それにともない、令和6年の春の開催から、一般入場を有料化するらしい。入場料は1000円らしいが、これはコミケを参考にしたのかもしれない。 コミケも最近、増え続ける入場者数に対応しきれないらしく、一般入場に対して課金をしたのだが、文学フリマもそれに準じた形となる。しかし、コミケよりも相当規模が小さい文学フリマで、課金をする必要があったのか、ということが、少々疑問だ。 客に課金をすると、あきらかに..

  • 「仮面の告白」三島由紀夫著。

    三島由紀夫氏を天才とする読書家や文学関係者も多いと思うのだが、僕自身はあまり高く評価することができない。それは、高校時代に「潮騒」を読みかけて、嫌になって投げたからであり、まだ偏見もない少年時代に読んで嫌いだったのだから、相性がとても悪いのだろう。しかし、多くの文学関係者が認めている文豪である故に、どのようなものか実際に読んでみる必要があると、今更ながらに考えてこの著を読んでみた。 入り始めは、元少年A著「絶歌」を思わせる不健康な精神の少年時代が描かれている。しかし、「絶歌」は実話であり、「仮面の告白」は虚構である。その点は、元少年Aの殺人事件が起る遙かまえに書かれた小説でもあるために、..

  • 文学フリマ大阪11。

    今年の春の文学フリマ東京36には、用意周到に準備したにも拘わらず、直前のコロナ罹患で行けなくなったため、代わりにと言っては何だが、秋の大阪に出ることにした。 出発まで、また何らかのトラブルに巻き込まれるのではないかと、嫌な雰囲気を振り払えなかったのだが、その悪縁のためか、北陸道は工事だらけで遅遅たる速度で車を駆った。しかしながら、なんとか大阪に着き、吹田で降りるといつも通り太陽の塔に御挨拶に行く。おりしも、太陽の塔初代の御玉顔の展示があり、その偉容に圧倒された。ここはパワースポットなんだなと、感慨深く思う。 パワーをもらった所為もあってか、興奮気味で妻も僕もあまりよく眠れなかったが、..

  • 「おいしいごはんが食べられますように」高瀬隼子著。

    芥川賞も、僕のようなアンチ権威の人間に掛かると、マイナスイメージになってしまうのだけども、この著者は、文学フリマに出ている京都ジャンクションに属していたため、少し親近感が湧いた。まあ、受賞する人というのは大体は僕のような拗ね者とは、社会性も文学性も異なる人であり、あまり相互理解もできないかもしれないのだが、ちょっと時間に余裕が出来たので、読むことにした。 描写からして、まったく僕とは正反対の文学で、ほぼ情景描写は皆無だ。しかし、人間関係の細やかで、ふとした人々の仕草のなかに、心理を込めて描く技術は、なかなかだと思った。そのような技巧的なところは、長く小説を書いておれば、だいたいの著者は、..

  • 「水張田の季節」柳原恵津子著。

    僕は、短歌というものに殆んど感動したことがなくて、評者としてはあまり適格ではない小説家なのだが、自分でも歌を詠った経験を考え合わすと、一つ一つに歌人なりの重い感情が込められているのではないかと思ったりもする。そのような思いでこの歌集を読んだわけではないのだが、わりあい僕と歌の感覚が似ているような気がしたので、購入してみた。 全体的に見ると、歌人の子供と妻と母親の三面性が生活の写生の中に、浮き彫りになっている。結婚しても、子供を持っても、歌人の親はずっと親であり、特に父親への愛情が深く描かれている。 大ぶりのどんぐりに似た爪が好き武器に触らなかった父の手 持っている臓腑..

  • 「釈迦」武者小路実篤著。

    お釈迦様を描いた小説は数多くあるが、武者小路実篤のものは妻がプレゼントしてくれるまで存在をも知らなかった。白樺派の著名な作家の作品として、とても興味を惹かれつつ読んでみた。 読み始め、お釈迦様の心境に迫っていない気がした。生老病死を恐れるために出家したという部分についても、伝承ではあるのかもしれないが、それを素直にお釈迦様の本音と取るところは、お釈迦様の人物を矮小に見せているように思う。 僕も「菩提人」を書くときに、ほんの僅かだがお釈迦様の伝承を調べた。しかし、そのときにはこの武者小路「釈迦」のような小さな懊悩に出家したようには思えず、悩みが深いものだと感じていた。その辺の主観性とい..

  • 創作の振り返り。

    思えば、僕も多くの小説を書いてきたものだが、ふと若い頃はもっとセンセーションを呼び起こそうとか、大きなことを考えていたなと、思い出した。若いときは、文学賞を取ってベストセラーを書き、一攫千金を夢見ていたものだ。しかし、今はその夢よりも、芸術の追究に走ってしまった。走らざるを得ない自作に対する無評価があり、はじめは評価を受けるために、のちには作品の質を高めるために、芸術の向上を目指した。 若いときは、だからある程度奇を衒っていて、驚かすような小説を書こうとした。その名残がアブストラクト小説だが、この小説はあまり理解されない。自分ではかなりユニークなものだと思っていて、今後もアイデアを見つけ..

  • 「呟く」という動詞の語義の誤認識。

    僕は、このようにどこの出版社からも見放されているので、正式な校正を受けたことが、文芸社で出版した「菩提人」のみである。その菩提人も、第一校は新米の編集者に読まれて、ほとんど赤が入らなかった。ちゃんと校正を受けたのは、第二校の一回だけである。 しかし、自分のヴォキャブラリーにそんなに自信があるわけでもないので、できれば校正は受けたいと思うたちである。校正は、純粋な著者の創作物を汚す行為であるとするほど、自分の能力を高く見積もっていないし、「神懸かった痙攣」に書いたように、作品は100%創作者の能力で出来るとは思っておらず、むしろ科学では偶然や環境と呼ばれる因子——創作の神様によるところが大..

  • タイムリー・コロナ。

    昨日は、妻と二人で文学フリマ東京36の最終準備をしていた。ブースの予行練習をして、実際に本をレイアウトしたりした。ポスターを刷ったりおまけの栞を作ったりし、ほぼ完璧に準備を整え荷造りをして、部屋のある五階からはるばる車に運んでいった。晩御飯も済ませ、もうあとは一晩寝て明日東京に出るだけだった。 そんなときに、妻が寒気がすると言い出した。念のため、体温を測ってみると、37度以上ある。昼間に風呂に入った後、しばらく下着でいたから、湯冷めでもしたのかと、風邪薬を飲ませるが、一向に熱は下がらずむしろ上がり始めた。市販の風邪薬を飲んで寝たが、妻は寒気がするままなので、ぬれタオルを持って来たり、ポカ..

  • 「高野聖」泉鏡花著。

    同人の勉強会で小説史を勉強しているのにこの作品の抜粋が出ていて、美しい表現が眼を引いたので、泉鏡花は初めてだったが、読んでみた。 まずは、非常に情景が美しい。福井に電車旅で泊まる主人公と高野聖の場面から入るが、何気ない情景描写ではあるのだが場面が目の裏に鮮やかに映り、また、その設定の技巧性も相俟って、とても物語を美しくしているような気がする。高野聖の寝床での口舌上で話は進んでいくのだが、そのような間接的な描写法は、まどろっこしくてもどかしい思いがするのは初めだけで、物語に引き込まれてしまうと、頭の中に聞き手の主人公が消えてしまうほど、没入させられた。 このような、口舌上で物語が進むの..

  • 何をやっても、評価されないなあ。

    ここのところ忙しくて、なかなかブログを書く気力も無かったが、あまりにも破天荒な仕打ちを受けたので、ふっきれたようになって、ふとブログに零してみようという気になった。 こう見えても、僕は39まで必死にサラリーマンをやっていた。そのころは、まだ給料というみかえりがあった。しかし、そのあと入院を挟んで、再就職して働きまくったが、どこの会社もみとめてくれなかった。ガソリンスタンドに勤めていた者が、にわかに建築業界に入ろうと頑張ったからということは多分にある。しかし、やはり僕のやることは、なんであれ認める人はほとんどいないのだ。 僕が小説が認められないのは、小説が下手だからと思っている世間の人..

  • 山山の架け橋展。

    個展を開こうと思ったのは、知人の小説家・上田聡子さんの朋友、ロクエヒロアキさんが、福井の書店で開いたという情報を小耳に挟んだからである。去年の夏頃だったか。僕らも、なかなか正当に認められずに口惜しい思いをしているので、少しでも知名度が上がるならと、試みてみた。県内各施設に訊いたところ、一番リーズナブルなのはガラス美術館だと判り、丁度市立図書館と同居しているので、読書好きの人が流れてくる可能性もあり、そこに決めた。 はじめての個展と言うことで、ずいぶん勝手がわからなかったが、パネルはコストを抑えるため、ラミネートを貼り合わせてA1のものを作成した。これを当日、業界では有名らしい「ひっつき虫..

  • 妻のいない冬。

    ここのところ、第四回空華文学賞選考から空華第一七号の編集まで、貧乏さここに極まれりとといった忙しさで、ブログなどまったく更新していなかったのだが、今や日記を書かぬようになってしまっているので、生活の記録と言えばブログしかないために、まったく書かないのも忍びないように思い、また、空華の編集も一段落付いたので、久々にブログの筆を執る次第である。 二月初めに妻と喧嘩してしまい、妻は実家に帰ってしまった。結婚記念日はバレンタインデーであるが、それも空閨で迎えた。しかし、妻は思い遣りがあるので、バレンタインのチョコレートを贈ってくれた。しかも、それを買ったのが、郷に帰って間もないときだというから、..

  • 今年の五大事件。

    令和四年もなんとか終わりに近付いてきて、相変わらず症状の中で格闘する僕は、いい加減自由な精神になりたいのだけれども、陰性症状の虚しさを和らげるため薬を弱くすると、陽性症状の幻聴が襲ってきてしまうという、ドリフの箪笥的病状表出は健全なままである。 今年は、それほど目立った進歩もなかった歳だったが、簡単に振り返って見ることにする。あまり進歩的な出来事がなく、全体的に停滞気味であるが、恒例のカウントダウンで行こう。 5.文学フリマ東京では、例年になく売り上げ不振に終わる。 春は、コロナ禍のための客層数減少、秋は客足は戻ったが不況の煽りか、かなりの売り上げ不振。新刊を毎回の文フリに併..

  • 芸術主義国家。

    最近、日本政府が極まりない暴政で国情を乱しているので、この世も末かと思いつつ、架空の理想国家を空想してみた。 岡本太郎が、どこまで本気で言ったかは知らないが、芸術・政治・経済の三権分立を提案していた。もちろん、このような思想が実現するほど、世の中は平穏ではないのだが、芸術を国の機構の柱の一つにすることに関して、僕も腑が落ちた瞬間があって、そういう説も本腰で考える思想家が出てきても良いように思っている。 まあ、僕は思想家ではないので、不勉強でもあるしそのようなことを提唱する任ではないのだけれども、空想なら小説家の本分なので、ちょっと遊んでみようというわけだ。 僕が思うに、芸術という..

  • 金稼ぎが職業の謂ではない。

    現代の小説家というと、ベストセラーがバンバン売れていくつも賞を獲っていて、有名で巨万の富を稼いでいる人たちのように思われがちである。 しかし、小説家というものは、古来あまりお金儲けとは縁のない人たちであった。小説を書くには、大抵はパトロンがいるのだ。パトロンに援助されながら、執筆に精を出すのが、本来の小説家のスタイルである。高度成長期などを経て、小説家も資本主義経済に毒されてしまった。売れない作品は価値がない、売れない小説家は小説家ではない、現在はそのような認識が、ちまたに蔓延っている気がする。 小説家が売れるために、文学賞というものがある。これは、現代でこそあたりまえの価値判断だが..

  • 小説と作者の主従。

    先日、スタバの前で注文の列に着いていたら、後ろのグループの女の子が、私自叙伝を出す、とか話していた。 自叙伝というのは、私小説的でありながら、文学ではない。あれは、自分の苦労した体験を書いて、いかに自分が素晴らしい人間であるかを記そうとするものであろう。つまりは自慢だ。これに対して、私小説というのは、あくまでも文学であり、体験談ではありながら、体験の中に文学を見る立場のものである。それは、自然主義的なイデオロギーに則っていることが多く、日常生活という大自然を過不足なく描写し、その素晴らしさを訴えるというものが多い気がする。 僕は、私小説はあまり好きではない。自然の美しさは確かに偉大な..

  • 「ダダ・シュルレアリスムの時代」大塚史著。

    以前に、瀧口修造の著書をチラ見していたときに、「ダダ運動」という言葉が触れられていて気になったので、題名からこの著を読んでみた。 トリスタン・ツァラという名前は初見だったが、彼の偉業がとても判りやすく書いてあった。そのあとに、シュルレアリスムを概観する訳だが、この書を読むとよけい「シュルレアリスム」というものの実体が摑みにくくなってしまった。そもそもシュルレアリスムとは何のことであったのか。 確かに、「ダダ」は言葉の意味性を解体して、言葉を物質的に還元した上に、その物質言葉に依る新世界を開拓しようとした試みなのかもしれず、「シュルレアリスム」は、それに形式だけは似ているが、みずからの..

  • 文学フリマ35。

    20221120_013002300_iOS.heic 今年も秋の文学フリマ東京に出店することが出来た。 上京は、定番となった軽四での妻との二人旅で、宿は春に泊って好感触だったホテルモントレにした。 宿に着くと、多くの客がチェックインのために長蛇の列を作っていたので、荷物だけ預けて東京観光に出た。今回は、岡本太郎記念館とトーシツ100%展を見てきた。 それで疲れたか、その晩は二人ともあまり眠れずに、本番の文学フリマを迎えた。都内、マラソンがあったようで交通規制が激しくどうなることかと思ったが、なんとか第一京浜にでると、スムーズにTRCまで来ることが出来た。 今回は、早く開けてい..

  • 「限りなく透明に近いブルー」村上龍著。

    妻が一押しの小説なので、反権威的な気持ちを鎮めて読んでみた。 筋は、ほかの小説のレビューなどで判るだろうので端折るが、あまり大切な要素とは思えない。要するに、ドラッグとセックスに明け暮れるリュウとその仲間のことが判ればそれで良く、そんなに有意なストーリー展開があるわけではない。その辺は、純文学的な無プロット性があると言って良い。しかし、それはもちろん、私小説のようなリアリズムに徹するあまりの結果ではなく、ストーリーのロマンやドラマ性に重きを置かないためであろうかと思われる。 しかし、最後に思い出したように符牒のように出てくる「限りなく透明に近いブルー」と言う言葉について、テーマがくっ..

  • 祖母の逝去に思う。

    祖母は、今年の春に腰を骨折して入院した。コロナ禍ということで、隔離されたような入院になり、その間に一気に祖母は衰えた。六月に自宅に迎え入れたときには、かなり認知症も進行し、僕のこともわからなくなってしまった。叔母がつきっきりで介護して、寝たきりの状態で小康状態をしばらく保ったが、十月二二日、丁度叔母の誕生日に当たる日の夜、まさに眠りに就くように旅立った。 葬儀も出席したが、仲間内だけのこじんまりとした式ではあったが、祖母がどれだけ愛されていたかがわかるような温かい式だった。お坊さんとも仲の良かった祖母は、お坊さんにも慕われていたようだった。山野草が好きで春生まれだったので、それを取り入れ..

  • 先生方の評価。

    僕は、自分の小説をさまざまな小説家先生に読んで戴いた経験がある。 保坂和志先生に読んでいた戴いたときには、小説を送るまえには感想を書くと言っていたのに、待てど暮らせど来ないので問い合わせたら、あなたの僕の小説に対する解釈もそんなにあたっていないし、僕はあなたのよい読者ではありません、と言って少しも感想を呉れなかった。 柴崎友香先生に読んで戴いたときには、送った小説に関して解説をお願い出来ないか打診したのだが、しばらくして弁護士による警告書が届き、ファンレターを送ったり、先生の主催するイベントに出席したらストーカー防止法で訴えると言われた。 そのほかにも、さまざまな小説家先生にお送..

  • 大日平 1765m。

    妻も僕も、血液検査でコレステロール値が高く出て、栄養士に適度な運動が必要であると言われたことを逆手に取り、熊を怖がる妻を連れて大日平に登ることにした。もともと、大日岳本峰を目指すつもりはなく、その日登って大丈夫そうだったら、来年か再来年にでも試そうと思っていた。 称名平の駐車場から歩いて登山口に着いたのが8:20。記念撮影をして登り始める。ところどころに咲いている花々を楽しみながらゆっくり登っていくが、三十分もしないうちにギブアップして小休止。妻は早くもお菓子を取り出す。そんなことをやっていたら、ヒイヒイ言ってようやく着いたのが猿ヶ馬場、9:30。妻はかなり疲れたようで、しばらく休んで魚..

  • 「空華」電子書籍販売の断念。

    しばらくまえ、epubリーダーなるものが出回っているのだと知って、それなら一太郎を使えば、ネットショップで電子書籍をダウンロード販売できるなと思い付いた。 しかし、僕や妻の藍崎万里子、またそのほかのもと無刀会メンバーは、空華掲載作品をKindle出版しており、著作権の関係で難しいのではないかと、少し躊躇した。そこで、著作権センターに問い合わせたところ、同人誌の規約で無料寄稿の取り決めがあるのならば、その雑誌に限って言えば、著作権料を支払わずに販売することも可能だと言うことであった。無刀会の規約には、さいわい同人誌の売上代金の記述があって、すべて同人会計に収まるという風に書いてある。 ..

  • 現代日本の転換点――国葬について。

    僕は、今「末世の函葢」という世紀末の話を書いているのだが、世紀末とは言っても20世紀末の過去の話であり、未来のことではない。世紀末には、終末論が付き纏いがちであるが、世紀末を過ぎた現在、却って終末論を思わせるような浮世の状況である。 コロナ禍から始まり、ウクライナ危機まではまだ許容範囲であった。しかし、多くの天災が重なった上に、自民党の腐敗の露見、さらに独裁暴政を敷かれている今、もう世の中は戦乱の時代と変らないくらい乱れている。世界が戦乱に乱れていても、国情が安定しておればまだ安心出来たのだが、現在の日本はかなり危うい状態だ。 安倍元総理を国葬することの無駄さ加減と言ったら、まるで血..

  • 健康診断の結果について。

    健康診断の結果が出た。 脂質異常症に肺がんの気。もう若くはないなと実感した。 僕は、皮下脂肪が極端に少なく、そのくせコレステロールの血中濃度が高い体質なので、血管が詰まりやすい。ここのところコロナ禍のための外出自粛で、ろくに外に出ないばかりか、以前は月に二回ほど通っていた健康パークも行けなくなり、運動不足が酷くなった。また、一時期コレステロールの食事療法をしていて、青魚中心に食べていたら下がったのだが、今は妻の料理が凝っているので、結構肉を食べるようになってしまった。このままの食生活で運動不足が続いたら、早くに脳卒中に倒れることになるだろう。 また、若いときには煙草を一日一箱吸っ..

  • 不遇と芸術。

    妻もときどき元気が無くなり、ほかの人を見て選ばれている人は幸福だな、と羨んで自分の不遇を嘆く。気持ちは判らないでもないが、僕と異なるのは不遇に対する反骨的精神であろうか。不遇は、神仏に見放されているから起こることで、神仏に好かれない民は、一生憂き目を見るしかないのだと。このような妻の宗教妄想的なところは、僕も常々手を焼いている。神が不平等すぎるからだ。 神仏というのは、定義上、アガペーや慈愛を放つものであり、それは遍照するのであり、贔屓は一切無いのだ。もし、一方にだけ注ぎ一方には注がないという霊体があったとすれば、それはもはや神でも仏でも無く、注がれているものも偏愛でしかない。慈愛やアガ..

  • しばらくぼうっとしたい。

    空華文学賞の選考も終わり、一息つけると思いきや、「空華」の締切りが迫っていて、すこしも安らぐ暇がない。 僕は、年金生活者ではあるが、毎日多忙である。もう少し、ゆったりと過ごせないものかと、自分でも思うのだが、ゆったりしている時間があったときには、何かいろいろなことを始めてしまうので、そのような時間が長く続かない。のんびりと無為に過ごすことが出来ない質なのだ。 そもそも、何もしないでいることが楽しいとか素晴らしいとか思えないのだけども、それでものんびりしたい。のんびりしたら何をするかというと、例えば読書であったり、絵画鑑賞であったり、山登りであったりする。つまり、すこしものんびりしてい..

  • 虚しさと執筆。

    ここのところ、いわゆる陰性症状というものにやられてしまって、全くやる気がもてない。この症状は、何もする気が無くなり、生きるのに疲れたようになる。何か起こって死んでも仕方ないかなとか、思う状態である。無気力であり虚しい。妻がいるから、その虚しさはだいぶん和らいではいるのだが、それでも全く無くなることはなく、精神の骨が軽石状にぼろぼろに朽ちているような感じである。いくら妻の愛で浸しても、力が入らない。 陰性症状というものを、薬の副作用であるとする説があるが、僕は中学二年の時に初めて、このような死にたいほどの虚しさに襲われており、そのときはもちろん、まだ精神科に掛かっていなかったし、薬も飲んで..

  • 雄山 3003m。

    妻を一度立山に連れて行こうと思っていたのだが、コロナ禍の中なかなか実行できずに今年になった。コロナの第七派も始まりつつあったが、今のうちに行けばなんとかなると、人混みも割合少ない平日の金曜日、立山登山を敢行した。 室堂までは、以前雪の大谷を見に行っていたので、妻も来たことがあった。立山道路の道沿いに、途中ニッコウキスゲが咲いていたが、前日よく眠れなかったらしい妻は寝ていて、あまり見てくれなかった。 室堂到着8:30。すぐに登山口に向かう。室堂には、チングルマやウマノハナヅラなどの高山植物がたくさん咲いていた。 室堂から立山三山を望み一の越に向かうと、早くも雪渓が道を遮っていた。ま..

  • 「クロイツェル・ソナタ」レフ・トルストイ著

    トルストイの著書を未だ読んだことがなかったので、ひとつ読んでみた。 この著書は、ポズヌィシェフという病的な外見の男の独白で、話の半分以上が占められている。独白がずっとと続くので、途中単調に感じ飽きが来るが、終盤ミステリーのように、何が起こったのかに興味がそそられて、一挙に読み進むことが出来た。 ポズヌィシェフは、自分の妻に対する思いの回想を、すべての男性あるいは人類に当て嵌めて、男は欲望の塊であるかのようなことを言う。一種のフェミニズムにもとれなくもないが、女性が男性を誘惑する現実に関しても、女性の非を唱える。人類の目的が、清らかな愛であることを実践するためには、性欲は安全弁であると..

  • 金剛堂山 1637m。

    昨年も妻を連れて登ったが、金剛堂山の神にコロナ禍の自粛を命じられたか、長年愛用していたダナーの軽登山靴のラバーが左右とも剥がれ、リュックの物を結わえる紐で括って、片折岳から引き返した経緯がある。今年は、別にリベンジを目指したわけではないのだが、ほかに適当な山を思い付かなくて、また懲りずに金剛堂山に登りに来た。 登山口9:00に出発するも、初めの1kmの標柱までの急登に、妻がへばってしまって10分おきに休みを取って行った。ようやく1kmにつき、平坦な道をしばらく歩くと、また葛折りの急登に差し掛かり、夫婦共々へばりつつもなんとか2kmまで到着。だいたい9:45くらいに着いただろうか。そこから..

  • 「大伴家持」岩倉政治著。

    高志の国文学館で展示されていたのを立ち読みしたら、けっこう面白い書き出しだったので、図書館で一冊借りて読んでみた。 初めは、歴史小説とは思えない恋愛劇が、叙情豊かに描かれている。この調子で最後まで恋愛小説に終始するのかと思いきや、次第に小説は歴史的政治の舞台に巻き込まれていく。それは、あたかも一人の男の興味対象が、若い頃から中年に至るまで変遷していくその心情をそのまま描いたかのような、人生全体を俯瞰するような効果を齎している。 実際、この小説の中では、家持はまごころを歌道を通じて惟るばかりに、女性ばかりに情熱を燃やしていた。それが、失恋や別離を通じて、女性への情熱が外のものに向いてく..

  • 第三十四回文学フリマ東京。

    今回、はじめて春の文学フリマ東京に出ることになった。今までは、何かが罣礙してかならず春の文フリ東京に出られなかったが、今回はようやく念願の出店を果たした。 しかし、終わってみれば販売総数28冊と、それほど好調な売れ行きではなかった。コロナ禍による客足の遠のきが少し戻り、文フリ全体の客数は5000人を越えたらしいが、僕らのブースは販売数が去年の秋よりは伸びたものの、そんなによく売れたわけではなかった。コロナ不況による客の懐事情が関係しているのかも知れない。 今回は、妻の藍崎に売り子を譲った感じで、僕は釣り銭管理に追われたのだが、その方が客受けがいいかもしれないということもある。しかし、..

  • 大辻山 1361m。

    今年はまだ妻を山に登らせていなかったし、自分自身そろそろ山が恋しくなってきたので、鈍った体力でも確実に登れそうな山を選ぶことにした。ネットで見ると、今年の大辻山は、すでに登山口まで車で行けるという情報を得たので、冬は車道が長い山だが、地面が出ているならと判断して、大辻山に登ることにした。 実は、大辻山は夏道は初めてで、以前登山会の山行で冬に自然の家から歩いて登ったのと、夏に石川労山の研修会で白岩川の源流の沢登りを途中までしたのと、二回しか登ったことがなかった。僕も初めての山行になる。 車は、自然の家を越えると、車道に落石がごろごろ落ちていて、以前有峰林道で落石を踏んでパンクさせた経験..

  • 文藝同人誌プチマルシェ意見交流会。

    令和4年4月29日、コロナ渦で順延されていた意見交流会が、高志の国文学館にて行われた。 県内の文学同人が参加する会で、僕はパネラーとして招かれた。他にパネラーは、素粒同人の若栗清子さん、寒潮同人の平譯宏修さん、7'Libraryのななさん、みなそこすなどけいの笠木拓さんで、座長として黒部短歌会の上田洋一さんを迎えて行われた。アドバイザーとしては、歌人の黒瀬珂瀾さんが招かれた。 自己紹介の後、座長がパネラーに質問する形式で意見交流会が進められ、若栗さんが文学同人の在り方として、合評会のほうがカクヨムなどのネット小説よりも辛辣に批評を受けるために、切磋琢磨できるのではないかということに対..

  • 有名人と忌名人。

    僕がよく虚しくなるのは、統合失調症の陰性症状ということに加えて、誰にも相手にされないオジンということがあると思う。僕は、いろんな人々に善意や好意を向けて行動するが、それをありがたく受け取る人は僅少だ。臭いトーシツオジンはあっちに行けとか、追い払われる。ただでさえ、若者にはオジンは嫌われるのに、統合失調症とあっては、なかなか認めてくれるような優しい人はいない。 たとえば、文学フリマで購入した作品について、僕はその作者に面白いと認めたものはもちろん、そうでなくても力作だと思ったものには、かならず感想を書いて送った。しかし、その感想について、ありがたがる人など殆んどいない。まれに、感想に対して..

  • 藤子不二雄Aさんの薨去について。

    藤子不二雄Aさんがお亡くなりになった。これで藤子不二雄は二人とも他界なさったことになる。 藤本さんも我孫子さんも、すっかり地元の巨星となってしまったが、僕は子供の頃からドラえもんがそんなに素晴らしい作品とは思っていなくて、ひねくれた富山県民に良くあるように、つまらない漫画家だと思っていた。氷見や高岡に藤子不二雄の漫画の像ができたり、高志の国文学館で氏のコーナーが常設されていても、地元興しに必死な恥知らずの自慢のようにしか思えなかった。その認識が変ったのは、山口から嫁いだ妻が、ドラえもんなどのことを讃えたことだった。 妻の愛甥は頭が良いのにドラえもんファンで、このように多くの日本の児童..

  • ホームページに関する雑記。

    最近、忙しくてなかなかブログ更新をしていなかったが、すこし調子を崩して幻聴が多くなってきたため、どうも不眠気味で小説もなかなか書くような精神状態になれないため、リハビリというわけでもないけども、筆慣しに丁度と言うことで、ブログで雑記を書いてみることにする。 もともと僕のブログは雑記であり、日頃の生活におけるあれこれ感じたことをそのまま書いていたのだが、あるとき知人に暗いことは書くな、もっと明るいことを書け、などと言われて、そんなものかと思って、愚痴などを書かないようにし始めたのだった。しかし、愚痴は愚痴でこぼすとストレス発散になるというか、どうにも内容のない駄文になるため読む人は大変かも..

  • 三千坊山 264m。

    コロナ禍による外出自粛で、すっかり運動不足になってしまっているが、冬も開けかかったことだし、久しぶりに山でも登ってきたくなり、かと言って、カンジキ山行は妻には危ないだろうし、カンジキが二つ無いので買わねばならないと言うことで、カンジキの要らない極低山を探した。三千坊山はオールシーズンの山なので、まだ登ったこともなかったし、登ってみた。 しかし、登山口に向かう途中で、林道が雪のため通行が利かなかった。低山だから、登山道は短いと踏んで、車道に車をデポして、つぼ足で雪道を歩く。三月の雪は締まっていて、それほどずぼらない。しかし、妻はずぼるのが面白いと、すでに富山弁で楽しさを表現していた。 ..

  • 本当に筆は刀より強いのか?

    名目上、無刀会の命名由来となっている欧米の諺「ペンは刀より強し」だが、この言葉の真意はどうだろうか? 現在、プーチンロシア大統領により、ウクライナ市民の無差別虐殺が行われている。大統領ともなると、このような犯罪行為を行っても、簡単に取り締まることが出来ない。プーチン大統領は、いわゆる戦争犯罪者であり、バイデン大統領の言うように侵略者である。肩をもつような国は、殺戮や傷害をなんとも思っていないし、法律などまるで関係ないことのように思っている。戦争だろうがなんだろうが、人を殺すことは犯罪であり、宗教的にも罪深いことである。 このような殺戮者に対する処置として、欧米を中心とした各国は、非武..

  • 冗談は「顔」だけにしてくれ。

    地獄の沙汰も金次第とは、さいきん対戦型ゲームをやっていて思ったことなのだが、どう考えても経営が恣意的に不利な駒廻しをしているとしか言いようのない駒ばかり引いてきて負ける。あまりにもその意地悪な駒廻しをされるので、嫌な予感を遙かに越える確率でそれを予測できるくらいである。つぎあたり、ここで出てきたら最悪なあれが出てくるな、というときに、かならずそれが出てくるのだ。 これでは、とても上位に勝ち進めないのだが、やはり無課金が利いているのかな、という気がした。いくらなんでも、24時間体制で経営が駒廻しを手動で管理しているとは考えにくいので、たぶんプログラムの中に課金情報を入れて、課金したら良い駒..

  • 「太陽の季節」石原慎太郎著。

    訃報に触れ、追悼の意味で読んでみた。 出だしは、男気の溢れた青春ボクサーのストーリーである。かといって、必要以上に暴力的ではなく、むしろ主人公竜哉の暴力に対して否定的に書かれているところは、著者の平和的精神を表していると思われる。ボクサーの小説は、町屋良平さんの「1R34秒」を読んだことがあるが、後者は主人公が頼りない弱々しげな男性であるのに対し、前者は主人公が初めから逞しくて男らしく描かれている。同じボクサー小説でも、まるで色合いが異なる。 昭和の時代を生きた石原氏の男らしさというのは、湘南のヨットマンのようなプレイボーイだったのか、出てくる男たちは平気で女遊びをしている。それでい..

  • 「阿部一族」森鴎外。

    同人の勉強会のために、この著書を読んだ。 読後感としては、あまり爽やかな感じがせず、汚らしい人間社会のしがらみを見せ付けられたふうで、好きになれなかった。阿部の屋敷を攻め立てるときの武士たちのさまざまな経歴を語るところなどは、人間関係の因縁の複雑さを描いているような感じがしたので、そういう浮世の因縁のこんがらがっているようなのを、面白がって書いているのかと、初め思ったのだった。 しかし、勉強会にででみて、この小説が明治天皇崩御に対する乃木大将の殉死に際して書かれたものだと知るにつけ、さまざな見方が成り立つことが判った。 一番目立つところとして、この小説に描かれる武士の多くは、阿部..

  • 「こんとんの居場所」山野辺太郎著。

    前から気になっていた作品が直営ショップで手に入ったので読んでみた。 題名の「こんとん」とは何かが気掛かりで、コミカルな文体に惹かれて読み進むことになるが、中国の史書に出てくる謎の存在のようだ。その「こんとん」が海上にあるという設定が、どこまで史実に従ったものであるのかは、典拠文献を読んでいないので判らないのだが、そのようなことはむしろどうでもよくて、「こんとん」に出逢うまでは、全編が淡い恋愛ストーリーなのかと期待して読み進めることになる。 しかし、後半「こんとん」が出てきてから、純一と千夜子が調査しながら「こんとん」に飲み込まれていくさまは、文学でなくては表現し得ない能天気な死滅であ..

  • ブログ納め。

    例年はこんな記事は書かないのだが、さいきん記事を書く頻度が低くなっていて、今月の記事の数が少ないので、ほかにネタもないことだし、このような記事を書くことにした。しかし、あろうことか、幻聴にさいなまれて、先取り妨害執筆困難で上手く掛けない。これはどのような症状かというと、憎たらしいような相手やあるいは断定できないような相手が、何か執筆しようとする真際に思考の中に現れて、その人の声でテレパシーで語り掛けてきて、書こうと思った言葉を別の言葉で遮るという症状である。思うように書けないどころか、そのテレパシーに操られて書かされるような感じになり、非常に腹立たしくてこころが乱れる。もちろん、あまのじゃく..

  • 今年の五大私事ニュース。

    年の瀬も迫ってきたので、久しぶりに今年の重大ニュースを振り返ろうと思う。と言っても重大ではありつつ十大になりえないほど、あまり多くのことがなかったので、五大ニュースにしようと思う。これもコロナの流行によって外出制限が掛かって、あまり身動きが取れなかった所為が大きい。 ともかく、ベストファイブをカウントダウンします。 �D大手モールに初出店 妻がお金稼ぎをしたいと言って、作業所などに勤めたがることを諫めて、本業で儲けようやとやってみたフリーマーケットでした。雨が降って途中で店じまいでしたが、なかなか楽しめて二冊売れました。あのあと二回目も出ようと計画していたのですが、なかなか体力と財..

  • 創作に関する最近の愚痴。

    最近、小説の書き方に意見を戴いて、書く感覚が狂った。 それというのも、僕の小説は整合性を取ることに注力しすぎて、人間模様が今一上手く描かれていないという意見を戴いたからだ。意見に関しては、戴けるのはありがたいのだが、技術的な助言じみたものは、あまり僕は受け付けていない。自分の書き方があるから、それに従って表現したいだけなのだ。その結果、文学賞に見向きされないのなら、傾向と対策を勉強して自分の表現を曲げるよりも、そのほうがいい。 この指摘に関して言うと、整合性は大切な作品の仕上げである。小さな矛盾など見逃してくれ、というようないい加減な気持ちには、僕はなれない。一つの矛盾が、作品の風合..

  • 第三十三回文学フリマ東京。

    というわけで、今回も文学フリマ東京には自動車で行ってきた。浜松町に宿を取ったのだが、環七から行こうと思ったのに、iPadのカーナビを使いこなせなくて、首都高に導かれそうになって、ナビを切って案内看板を頼りに向かった。わりあい野生の勘が働いたのか、すんなりと着いたはいいのだが、フロントが教えてくれたコインパークの料金が、昼間最大4900円でしかも気付いたのが遅くてすでに最大になってしまっていて、これは明日も4900円掛かるのを避けねばと、慌てて夜の料金の安い別の格安パークに泊めてきたら、そこはもっと悪くて、最大料金の設定がなかった。それに妻が気付いたのが次の朝にパーキングに着いたときで、清算し..

  • 「バードウォッチング」田本真啓著。

    田本さんとは、民主文学のオンライン会議で知り合った。日本民主主義文学会の新人賞を取った方なので、社会的メッセージを込めた作品で受賞したのでしょう? と問うと、そんなことはないですよ、受賞作は全然社会性がないですよ、と言われたので、気になってその「バードウォッチング」を読んでみた。 この小説において、バードウォッチングとは、従来の自然観察の意味には使われない。文字通り「鳥を見ること」の意味であろうか。この鳥というのが、この小説で象徴として使われている鍵になっているような気がする。はじめは、つばめを指して、一誠の祖母が、空を飛ぶ少年であるピーターであるとの冗談をいう場面が描かれているが、この..

  • 瀬戸内寂聴さんの訃報を聞いて思う。

    瀬戸内寂聴さんが逝去なさった。僧侶だけに御成仏なさったのかもしれない。あの方は、妻からの情報によると、生き長らえるために肉食を好んでしていたそうだ。そこは、あまり仏教的ではないのだが、僕も若いときには、瀬戸内寂聴さんの名言のかずかずに感銘を受けたことがあった。その影響で、「寂聴仏教塾」という本を読み、仏教の教学に以前から弱かった僕も、さまざまな仏教の知識を教わることができた。舎利堂を作って、一緒に葬られる人を募るという、とても人間的なこともして、少なくとも人々に親しみの持たれる僧侶作家だったと思う。 作家と僧侶を兼ねることについて、僕は本来の仏教における僧の役割ではないと思っている。僧侶..

  • 日々の文学活動。

    薬をロナセン単剤にしてしばらく、しだいに無気力や虚無感が募ってきて、なにごともどうでも良くなってきた。そこで、すこしまえから医者と相談してラツーダを処方して貰った。その所為か、むなしさが和らいで、日々の文学活動ができるようになった。 文学活動と言っても、そんなに名だたる文学者のような高尚なものでもなくて、民主文学の人に誘われて、芥川賞作品の合評会に参加したり、文学フリマ東京の準備として、手製のハードカバーを作成したり、同人誌空華の合評のために作品を読んだり、同人の方の主催するドイツ語勉強会の予習として、ドイツ語の小説を読んだり、そのような雑多なことばかりで、本業の執筆に行き着くことは、最..

  • 最近の雑感。

    どうも陰性症状が繁くある。何をしてもこころから楽しめないし、その所為であまりなにごともやる気になれない。創作は面白いとは思うのだが、ささやかな面白さなので、上手くできないとやはり辛い。妻が優しくてこんなに幸せな暮らしもないのに、こころが陰鬱でその現実を噛み締められない。 一般の人はどう評価するかわからないが、僕はかなり満たされた生活を送っている。会社に勤務することなく、朝から晩まで大好きな妻と二人で暮らし、気が向いたら創作したり読書したり、文学に飽きたら絵を描いたり山に登ったり。そんな夢のような生活なのに、こころが不健康で実感が湧かない。ガラスケースの中に入って行動しているかの如く現実が..

  • 「彼岸花の咲く島」李琴峰著。

    縁あって芥川賞受賞作を読む機会に恵まれた。 しかし、読書中も読書後も、どうにもこころから楽しめない作品だった。 導入部の海岸の描写はとても美しい。ここは非常に引き込まれる場面なのだが、読むにつれて進んでいく一種ファンタジックな非現実的世界は、読み進めたくなる気持ちを失せさせて、途中で投げてしまおうかと僕は思った。島固有の儀式が事細かに書いてあるが、そんな架空の儀式の詳細は、旅行記にすらならないでたらめだ。その儀式に何か深遠な象徴が包含されているのならともかく、ただの物珍しげな原始民族的な風習のようで、しかも実在したものではないので、民族学的に興味深いものですらない。ただの作者の作り話..

  • 第九回文学フリマ大阪。

    コロナ禍で大阪はまだ緊急事態宣言下ではあったが、文学フリマ大阪が無事開催された。僕らも、僕は二回のモデルナワクチン、妻は一回のファイザーワクチンを打って、文フリに臨んだ。二人移動なので、車で行くことにした。第三十一回文フリ東京についで、二回目の自動車移動での参加になる。 しかし、始まってみると客数がとても少なかった。妻は文フリ金沢を思い出すとか言っていた。その実、望月代表に訊いたら800人くらいしか入場者がいなかったらしい。文フリ大阪にしては、かなり少ない数だろう。 それにも拘らず、売上は文フリ大阪の新記録の30冊。買って戴いた方々、ありがとう御座います。妻のツイッターでの宣伝..

  • 「白痴」フョードル・ドストエフスキー著(米川正夫訳)

    「白痴」は、大学時代に初めて読んで、とても感銘を受けた書物である。拙著「癲狂恋歌」にも少し書いたのだが、大学時代に読んだっきり、30年くらい読まずに、そのままの印象で書いたため、内容がいささかズレているようである。若いとき読んだのが、どの訳だったのか判らないが、よくリザベータ夫人が「薬にもしたくない」「犬にでもくれてやれ」などと話す訳で、とても印象的だった。ナスターシャも「洗濯女にだってなってやるわ」などと言って、ムイシュキンと同棲生活するのだが、そのような印象に残ったところが、今回読んだ訳では全く無かったため、まるで別の小説のように思えた。 いずれにせよ、悲運の主人公はムイシュキンであ..

  • 障害者芸術市。

    このまえまでパラリンピックが放送されていたが、それを見てオリンピックと別の感動を抱いた。オリンピックは、優れた選手に人間の可能性を投影するような面白さがあるが、パラリンピックは、苦労人の人生が報われたという同情共感の念を呼び起こしたようだ。僕も精神病なので、どれだけ頑張っても克服できない障害があって、今まで社会で痛い目にあってきた。しかし、そのような障害者も、努力することでパラリンピックのように栄光に浴することが出来るというのは、とても素晴らしいことだと思った。障害者の人権が確保されたような気がした。 そこで、このような機会を設けることに、僕も微力ながらお手伝いと言うことで、ネットで即売..

  • 文フリ逡巡。

    コロナウイルスの流行が収まらない。 緊急事態宣言は出ているが、どれだけの効果があるのかも知れず、宣言期限の9/12までに収まる見通しは少ない。僕は、9/11に二度目のワクチンを接種するので、9/26の文フリ大阪にはぎりぎり間に合うのだが、ワクチンを打てば100%罹らないわけでもないので、できればリスクは避けたい。妻は、9/19に第一回のワクチン接種なので、今回の文フリ大阪は無理だろう。行くとしても、僕一人と言うことには成るが、大阪の感染状況が今のまま収束していない状態ならば、文フリ東京同様、今回も辞退せねばならない。 文フリ東京には、「孤独な恋人」「はっちゃんがゆく」「空華第一三号」..

  • 創作いろいろ。

    僕の本業は小説だが、最近あれこれ話があって、文学論やら歌集やらまで手を付けたところ、あたまがわやわやになって何も手が着かなくなった。すこしこころを冷静にした方が良いだろう。こういうときには、座禅などすると良いのだが、最近はあまり座禅会にも顔を出していない。九月には少し顔を出してくるかな。 歌集を編んでいて思うのだが、これは小説の創作とはまるで異なる方法だと言うことだ。旧来から歌集は撰集して編む。撰ずるというのは選ぶことであり、小説のように執筆するものではない。短歌というのは、折に付け日頃歌う習慣があって初めて、撰じて歌集になりうるのであり、歌集を作るために何日も何週間も、部屋に籠って短歌..

  • 莫迦正直の小説。

    最近、以前から同人に好意的だった神さんが仲立ちしてくれて、とやま同人誌会の深井さんが同人に入会してくれた。その関係で、深井さんの主宰するドイツ語カフェに参加している。このまえも、その月一の会合だった。そのときに、神さんが妻と僕の空華第一三号掲載の作品の感想を言ってくれたのだが、僕の「好き病み」に関して、良い人間しか出てこないと言われた。更沙に関しても、四十物がそんな中年の精神障害男であったなら、どこかで幻滅したりあるいは別れようと思うはずで、そのような破綻があってのちに結ばれるようにした方が、よりリアリズムがあるのではないかという意味のことを言われた。そのときに、実際の人間というのは、妬みと..

  • 金剛堂山山行、途中で靴底が剥がれる。

    立山に妻を連れて行くというので、その足慣らしという意味で、金剛堂山を登ることになった。 8:00に登山口を出発したときには、すでに駐車場に多くの登山者がたむろしていた。それらを脇目に、橋をわたり沢のとなりの登山道を登っていく。この日は、妻は割と平気で僕の方がへばり気味だったが、なんとか一キロメートル地点と二キロメートル地点を通過し、片折岳看板に9:50くらいに到着した。小休止して、もう少しだと思いつつ頂上めざし始めるが、いきなり左足のラバーか、まえから剥がれてしまった。脚を前に出すと、地面にラバーの先端が当たって、靴底が開いてしまう。始めは、大丈夫かなとか思ったけど、すぐに安全のことを思..

  • 「ゼロの王国」鹿島田真希著。

    600ページを越える大長編だが、どうも書き始めからドストエフスキーのパロディ版のような筆致である。台詞が多くて、台詞の中に語り手の独特な価値観が語られるところや、地の文にところどころ著者の考えが書かれているところなど、どうみてもドストエフスキーだ。小森谷瞬の自殺願望は「悪霊」のキリーロフを思わせるし、エリが藤原の持って来た大金をピザ釜に入れるところなどは、「白痴」のナスターシャとロゴージンのやりとりそっくりだ。だから、癲癇持ちの吉田青年もムイシュキン男爵じみていて、読み始めは滑稽さに頬を緩めながら読むことになった。 しかし、エリと結婚する頃になると、その恋仲に感情移入してしまって、エリ..

  • 登山吟行、人形山。

    日曜日に少し天気が崩れると予報でやっていたので、その前にと思って土曜日に人形山に登ってきた。当日は、歌集の読書会の声も掛かっていたのだが、妻が全部読んでいなかった歌集なので、僕一人だけというのも少し妻が可哀想で、不参加と言うことにして、その日に山登りを結構した。 登山口7:45出発。登山口近くにはササユリが咲いており、前来たときよりも数が少なかったけども、上にニッコウキスゲが咲いているのではと期待する。 登り始めから、コロナ禍で鈍った身体に堪えて、ふたりとも重い足取りだったが、1200の休憩地点には8:50に到着した。すこし水を飲み、更に登り、1400mに9:30、宮屋敷に10..

  • 「秋の乙女たち」の表紙絵が出来る。

    母にささげる小説「秋の乙女たち」の表紙が出来上がってきて、もう一度小説を読み直していたのだけど、展開される恋愛にどうもドラマ性が足りない気がして、どうにか出来ないのかなとか悩んでしまう。主人公の恭香と町田は、クリスマスに付き合いだして、電撃的に深い仲になって、正月明けには恭香の郷に二人で行くことに成るのだが、急展開過ぎてどうも安っぽい。恭香も町田も、軽薄というか慎重さが足りないというか。でも、若者の勢いが出ていて、こういうのもありなのかな、という気もして、じつのところどうすれば良いか判らなくなっている。 しかし、母の誕生日は八月半ばなので、今からじたばたするよりも、あとは最小限の誤字修..

  • 「鞭と人参」を読んでもらう。

    最近、文藝同人無刀会に入会した同人誌小説家の大ベテランの深井了さんに、拙著「鞭と人参」を読んで戴いた。感想を聞いてみると「あまり頭の中だけで考えたものは面白くない」という意味のことを言われた。深井さんは、話を聞くと、小説には「真実」がなければならないと仰る。深井さんの小説の中には、非現実的なものが数多く描かれているのだが、氏によるとそれは自分の中では真実なのだという。 しかし、僕の「鞭と人参」についても、すこしもただの空想で終っているところはないつもりだ。あのような風変わりな描写に象徴して、深層心理的な何ものかを描いた小説である。たしかに、アンドレブルトンの行った自動筆記のように、自我の..

  • リハビリ的執筆。

    ここのところどうも精神の調子が悪い。執筆はもとより、読書も幻聴で阻害される。さきほども、すこし情緒豊かな気持ちになりたくて、源氏物語の現代語訳を読もうとしたが、幻聴がひどくて全く読めなかった。執筆も、書こうとする先に、言葉の想起を阻害され別の言葉に変えられたりするので、思うように書けない。それで、簡単な文章でブログを書いて、リハビリをしている。 したがって、ネタとして何も書くことは無いのだが、ここで僕の幻聴仮説を書いておくことにする。 幻聴というのは、現象としては実際に起っていることであるので、気のせいとかまやかしとかではない。聞こえる理由が何かある。大脳生理学的にはドーパミンの過剰..

  • 柴崎友香さんからの警告書。

    なぜ今更こんな文書をここにアップするのかと言うことに関しては、僕のこころがこれ以上持ちこたえられないからとしか言いようがない。 僕は、小説「筆と虹」を、あとがきにも書いたが、柴崎さんに捧げるつもりで書いた。しかし、そのことを知ってか知らずか、それを出版する前に、警告書でストーカー呼ばわりされて、阻止された。 僕は、彼女の書籍に感銘を受け、何度もファンレターを書いた。そして、文藝賞に出した「癲狂恋歌」に関して、出版社の評価が不公平ではないかと相談する意味で、ホームページのメールアドレスに、原稿をお送りした。そして感想を訊き、できれば「解説」を付して戴けないかと依頼した。 そのことを..

  • 「空華文学賞」を作る。

    いつの夜だったか、寝苦しい中に同人誌の誌面を埋める特集記事に思いを馳せていて、自分らで文学賞を募集したらどうだろうか? と思い付いた。今の世の中、出版社が受賞させてマスコミが囃し立てる作品が、すぐれたものとして認知される仕組みになっている。一にも二にも、出版社に認められることが、文学の価値を決めつけてしまう。しかし出版社はそれほど公平でもない。数少ない編集者の好みで、どうしても選ばれてしまう。 なんの受賞歴も無い僕がこのような賞を立ち上げたら、はっきり言って殆んど全ての人が莫迦することだろう。実力も無いのに有名になりたいだけでとうとうぶち切れやがった、ああ、情けないあんぽんたんだなあ、と..

  • コロナの猛威をまえに。

    この前までは、春の文フリ東京には新刊を出して、売り上げ新記録を出そうなどと思っていたのだが、間近になってみると、コロナウイルスの感染がかなり広まっていて、緊急事態宣言も出されかねない状況だ。ウイルスは可視的でないため、交通事故を避けるようにはできず、マスクとアルコール消毒をいくらしていても、完全に防止できるとは思われない。出店するのであれば、かなりのリスクがつきまとう。 また、我々の両親も、今の時期に上京することには反対している。感染のリスクだけではなく、もし無事に帰ってこられてとしても、そのあとの人目があまりよろしくないのではないかとも言われた。富山は田舎町なので、蔓延防止の措置が取ら..

  • 礼儀と作品。

    さいきん、縁があって富山の同人誌をいくつか読んだ。 いろいろ読んで感想を送ったりもしたのだけど、どうにも相手にされなくて何の返事もない人が多かった。それでも、いつもお世話になっている神さんに、とやま同人誌会の動静を聞いたり、同人誌をもらったりして、さらに感想を書くうちに、白川荘子さんに返事をもらった。それで、ひょっとしたら理解してもらえるかなと思って電話してみたら、あまり好意的に接してもらえなかった。とやま同人誌会には入らない方がいいと、あからさまに言われた。 だいたい、最近の小説の執筆者は、ろくに手紙の書き方を知らないのか、拝啓も書かない人が多すぎる。前略で初めてかしこで終わらす人..

  • 「六〇〇〇度の愛」鹿島田真希著。

    鹿島田さんの小説を読みたくて探していたら、三島由紀夫賞を取ったという作があったので読んでみた。 文章は、すべて地の文で構成され、台詞もカギ括弧なしに叩き付けられている。その文章自体、混沌を表しているかのようでもあるが、鹿島田作品は割合このようにカギ括弧のないものが多いので、彼女の古来からの日本文字に拘って使いたいというような、何かがあるのかも知れない。 この小説で、女は混沌の象徴である被爆地の長崎に行く。話の初めは、女の兄の頭の、「アンドロメダ星雲のように混沌と渦を巻」くと記されるつむじに象徴された、兄の生活振りのような、混沌そのものの世界が描かれている。それは、秩序と無秩序が交錯し..

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