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  • 竹は竹、草でも木でもなく、120年目の花。神奈川県足柄上郡。

    東名高速道路、大井松田インターを降りて、6分ばかりところ、江戸時代から続いた、瀬戸家敷。垣根に束ねた竹に、花が咲いたと、飛んでいきました。👇気を静めるために、12時半の朝食は、こんがり焼いたトーストとコーヒー。座ったところから、パラソルの瀬戸家。11月21日の、小春日和です。笹の花は60年に一度、竹は花は120年に一度、咲いて地下茎で結ばれた竹は、共々、みんな枯れてしまう、運命共同体。一度も改良されたことのない竹。野生のまま、茶色くなって大往生するまで、あと数か月。👇稲穂に似ている花、竹はイネ目イネ科。竹は竹、草でも木でもなく、120年目の花。神奈川県足柄上郡。

  • なんか、学校も変わっちゃってね ‼ 岩科学校。伊豆松崎町

    今日の朝は、風邪が身体から居なくなって、ムクッと目覚めたら、アレもこれもと、動きが早く、やはり健康がいい。9月初めに出かけた松崎町の風景、岩科学校。明治13年9月に竣工した校舎は、1992年(平成4年)にほとんど竣工当時の姿に、戻したといいます。当時149名の生徒がいたといい、向学心と学校に行けば、友達が出来て、雨の日も風の日も、喜んで登校したのでしょうね。玄関は女性と男性は別々であっても、教室に入れば一緒。このころの先生は、何事にも鷹揚だったでしょう。いいですよね・・・・‼私なんか、うるさくて廊下に立たされ、休み時間には、廊下に居なくても、先生もケロリ忘れ、悪さにゲンコツ喰らっても、次の日は、けろりと学校に行ったものです。ここで昭和12年、ドイツ大使館の夫人が、オルガンを弾いて、賛美歌、キリスト教の布教...なんか、学校も変わっちゃってね‼岩科学校。伊豆松崎町

  • 松崎岩科学校。伊豆松崎町。

    風邪で寝ていた4日間から、今日は床上げ、朝から夜まで、夜中もよく寝て、テレビも照明もそのまま、良く寝ていたものです。コロナもインフルエンザでもなく、幸いでした。岩科学校の沿革の看板、建築設計、施工は地元大工棟梁で、松本市の国宝、旧開智学校に次ぐ古さだとのことでした。👇松本市、旧開智学校。岩科学校展示物からの転写です。👇岩科学校👇扁額の上の彫刻は、松崎町の左官棟梁、入江長八さんの作です👇洋館に似せたバルコニーと漆喰の壁と瓦が程よく内部の様子も撮ってますが、鬼の霍乱、ひやかしの来客からの一報、部屋の掃除に掛ります、続きは後程。松崎岩科学校。伊豆松崎町。

  • 医師と医師へ渡り鳥、と伊豆松崎町。

    小さな港町、町は観光客が何人か・・。「フランスの最も美しい村」運動にあやかり、2005年に発足した「日本で最も美しい村」の連合に、参加した、伊豆・賀茂郡松崎町を散歩。大分前の写真ですが、仕舞っておくよりいいかと・・‼上の酸漿の写真は、なまこ通りに在って、観光客や地元の人たちの休み処になった、明治43年に建てられた、呉服商の伊豆文邸で、明治の歴史的建造物としてを保存してる。今日の通院で、小さな町医者の診断から紹介され、近代的な検査設備を持つ病院までの、約4か月間。膵臓、胆嚢、肝臓、腎臓と専門家に見てもらいましたが、どの先生も、自己免疫が原因ではと、云い、はっきりするまで、処方箋は出さない、出せないと、ステロイドを口元から、漏れてた・・。何人もの医師に、云われると、だるさや、痛み、気力減退などの症状は、自己免...医師と医師へ渡り鳥、と伊豆松崎町。

  • 伊豆長七美術館。石山修武氏、40歳の技。

    1995年、阪神淡路大震災で都市の建物が破壊され、機能を失った現状は、無残な都市の廃墟こそ、日本建築の現状を指す・・と被災に直接遭った瓦礫20トンを、15人のボランティアが神戸から、ヴェネチアに運び、積み上げ、その瓦礫に中に、コンピーターを使った、数体の装置し、震災直後に放送された、テレビやラジオの音声を流し、簡単に混乱に陥った都市の、利潤と効率性を求めた、現代社会の脆さを表現して、イタリア1996年、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展金獅子賞に輝いた、「瓦礫の散乱する廃墟」製作者は、全権を磯崎新、写真家・宮本隆司、建築家・石山修武の3名。建築家、石山修武(おさむ)さん、1944年生まれ。建築家にして、2004年の銅板家としても名をあげ、孤高の人、社会に対峙し傷つきながら、のほほんと図面を引く人間には、...伊豆長七美術館。石山修武氏、40歳の技。

  • 紅葉狩りができるか、今日の検査。

    今日は定期検査のMRI検査で、すきっ腹が耐えられず、早めに手続きを済ませ、早めの磁器機から解放されて、売店で、サンドウィッチ・・‼食事できた至福の10分間。どんぐり眼先生の診察室への声が、明るいのは嬉しいシグナルで、画像を見ながら、♪ウン、胆嚢の腫れはあっても悪くはなってない♬と。腹を抑えると痛い時があると、つい漏らして、どんぐり眼先生の椅子、ジェットコースターのような速さで、滑らして、初めての触診、これが嬉しかった。で、♬おしっこの出は悪くない?♫こんな触診での技を見せるとは、思わなかった。すかさず、明日は泌尿器科への予約を入れますよ・・と。今のうちに検査と、迫るどんぐり眼先生。今度は、月曜日に替えてもらって、腎臓検査・・。今回も云う。どうして膵臓癌細胞が消えたか、不思議、宇宙人?今朝、小さい鼠を捕獲。...紅葉狩りができるか、今日の検査。

  • 瑞祥庵。石川雲蝶また逢う日まで・・。新潟県南魚沼郡湯沢町。

    時間があれば、彫り物師・石川雲蝶が30歳代から移り住んだ、三条市に足を延ばしたかったのですが、限られた3日間の休日だったので、南魚沼市、魚沼市を拠点に、近在の社寺を撮り終え、最後の訪問地は、雪国の南魚沼郡湯沢町土樽の瑞祥庵です。本堂での参拝を・撮影もご自由にと、快く承知くださって、どこでもいい、山に登りたいなァ~なんて、山を眺めて、一旦、軽く腹ごしらえ。👇1847年落成の桜門。ここに数年たってからの彫った、石川雲蝶さんの仁王がいる。👇堂内外陣の欄間は、雲蝶の彫り物ではありませんのでと、住職に念を押されましたが、誰もいないのをいい事に、優しい鑿裁きを撮ります。👇本堂側から楼門を。👆👇冬になれば、雪囲いで見ることができない、石川雲蝶の仁王・2体。継承する宗教然を切り離しながらも、オマージュを捧げた、雲蝶独特な...瑞祥庵。石川雲蝶また逢う日まで・・。新潟県南魚沼郡湯沢町。

  • 八海山尊神。新潟県南魚沼市。

    手を叩くと石段が鳴り響く龍鳴の前、88段の真ん中で、3度の柏手に、龍が鳴かなかった。耳が遠くなったと、納得して、南魚沼市、最後の訪問地、八海山神社。飲んべぇ~の頃、居酒屋の座敷に座って、いの一番の注文は、八海山か高清水。板前は、今日はどっちという位、飲む銘柄は変えませんでした。私には、それほどうまい酒でした。👇八海山2合目半に湧く清冷は、霊水の愛好家が、浄財を出し合って神社まで引き、登山者の喉を潤しているという。👇和楽殿縁結びの神様、大国主尊が祀られ、参拝者が歩を休め、暫しの歓談をする無料休憩所。👇霊風殿霊風殿(六角堂)八海山頂上の大日ヶ嶽に鎮座する、八海山大神像と同じ御姿を安置し、神徳が麓の里宮に居ながらにして沢山の光がいきわたることを、願って建てたと・・・。滞在中、いつ雨が降ってもおかしくない南魚沼市...八海山尊神。新潟県南魚沼市。

  • 越後浦佐、普光寺・毘沙門堂、雪国の灯り。新潟県南魚沼市。

    昭和6年、瞬く間に燃え尽きたという、室町時代前期の建築と云われた、浦佐毘沙門天堂、地元民の喪失感を埋めるように、再建の意欲高揚を垣間見る、写真1葉。昭和12年、地元民は堂再建の寄付金集めに奔走し、足りなくなれば亦、寄付金集めに駆け回り、焼失後、6年の歳月で、山形県米沢市に生まれた、すでに帝国大学を定年になっていた、建築史家の巨匠、伊東忠太(1867~1954)博士の設計、毘沙門天の完成を見た。参拝者は後を絶たなかったという。👇毘沙門天の回廊から・・当時の地元民の、意気込みを心鎮め・・眺め・・・‼👇宝仏殿住職の代が変わった時だけ開く扉。この中に、運慶作と伝わる、大日如来像が祀られ、四隅には、持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門)が、祀られているという。余談ですが、日本の製鋼・鋼管技術の先駆者とされ、群馬県...越後浦佐、普光寺・毘沙門堂、雪国の灯り。新潟県南魚沼市。

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