世界の科学者100人の業績や面白いエピソードをイラスト付きで紹介しています。
王立研究所の化学講師ハンフリー・デービーは、容姿の良さと話の上手さから公開講演会でも女性たちに人気だ。自らの研究テーマとして取り組んだのが電気分解で、ナトリウムとカリウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、マグネシウムを発見した。一人の科学者による6元素の発見は最多だ。炭鉱事故防止のために安全ランプ(デービー灯)も発明した。生涯で最大の発見は弟子のマイケル・ファラデーだとも言われた。
物質の「波と粒子」の二面性 大胆仮説にアインシュタインは高評価
フランスの名門貴族の家に生まれたド・ブロイは、兄の影響で物理学に興味をもった。第一次世界大戦での兵役後、大学に復学して物理学を専攻し、博士号の学位論文で、物質のもつ波動性と粒子性の二面性についての仮説を提唱した。間もなく、外国の研究者らによる実験でそれが確認され、1929年にノーベル物理学賞を受賞した。その業績は、後の量子力学の発展にも寄与した。
貧しい家に生まれたジョージ・スチーブンソンは、小さい頃から父と同じ炭鉱で働いた。無学ながらも炭鉱の技術職人としての腕を磨き、一流の技師が直せなかった水揚げポンプを修理し、爆発事故のない坑内安全灯を発明した。レール上の石炭台車を引いて運ぶ「馬車鉄道」の代わりに、導入を考えたのが蒸気機関車だった。1804年には他の技術者が最初の蒸気機関車を作っていたが、実用化には至らなかった。スチーブンソンは機関車やレールなどのさまざまな技術的問題を解決して1814年に実用的な蒸気機関車を製作し、1825年に40㎞区間で営業運転を開始した。これにより世界中で本格的な鉄道輸送時代が到来することになった。
東京帝国大学(現東京大学)理学部の池田菊苗教授は、昆布から「うま味」成分のグルタミン酸ナトリウムを発見した。それが化学調味料「味の素」となり、今や世界中で市販されるまでになった。また助教授時代のドイツ・英国に留学し、ロンドンでの約2カ月間、文豪の夏目漱石と同じ下宿に滞在し、ともに親交を深めた。
吸引ポンプでは、深さが約10m以上の井戸から、水をくみ上げることはできない。庭園に造った噴水の水が出ないことで、イタリアのトスカーナ大公はガリレオ・ガリレイに調査を依頼した。ガリレイも答えを出せずに亡くなったが、その弟子のトリチェリが1664年に水銀柱の実験を行い、空気の1気圧が高さ76㎝の水銀柱の重さと釣り合っていることが分かった。これは、比重が水銀の14分の1と軽い水では、高さ約10mまで吸い上げることはできるが、それ以上は無理なことを説明するものだ。また水銀柱の実験では、一端を閉じたガラス管に人類初となる真空を作り「トリチェリの真空」とも呼ばれている。このほか実験では、日によって水銀柱の高さ(気圧)が変動することも分かり、トリチェリが水銀気圧計の発明者となった。実験後トリチェリは大公付きの数学者となったが、間もなく腸チフスのため39歳で亡くなった。
テニス後に見えた「緯度変化の周期性」 画期的「Z項」の発見に
地軸の極運動を調べるための国際共同緯度観測事業に取り組む「水沢臨時緯度観測所」の木村栄(ひさし)所長は、観測開始から1年あまり過ぎた1901年初め、世界6地点の観測データを集め解析しているドイツ中央局から「データに誤差があり観測がずさんだ」との批判を受けた。観測方法や手順、器具などを点検したが、原因は不明だ。スポーツ後のスッキリした頭脳でデータを見直してみて、ある鉛直方向の周期的な変化に気づいた。それを「Z項」として緯度変異を求める計算式に付け加えることで、観測精度が高まり、データのバラつきも修正された。1902年に論文で「Z項」を提案し、それが認められたことで木村や水沢観測所の評価は高まった。第一次世界大戦後はドイツの代わりに水沢が1922年から1935年まで中央局を担当し、木村が局長を務めた。しかし「Z項」の起源については不明で、木村は地盤や地震、大気や気象などの新たな観測を開始して解明に乗り出したが、謎のまま木村は生涯を閉じた。「Z項」が解明されたのは1970年、観測所後輩の若生康二郎による地球内部の流体モデルによってだった。
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