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  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 6 静岡県 浜松市 6

    蜆塚遺跡浜松市中央区蜆塚人口は78万を超え、静岡県最大の都市の浜松市。約3000年から4000年前、浜松城の西には縄文時代の集落がありました。蜆塚遺跡は、市中心部と比べると30メートル程度高い三方原台地の西の外れにあたる地域で、西には佐鳴湖が広がり、蜆【しじみ】塚の名が示す通り、この地域の縄文人は佐鳴湖周辺に小集落を形成し、蜆などの貝や魚を穫り、森の木の実などを日々の食料としていました。貝塚跡遺跡周辺からは住居跡、貝塚、墓地が発掘され、居住地域を移動しながら生活していた形跡が確認されました。歴史めぐり街物語5‐6静岡県浜松市6

  • 今日いち-2024年8月30日

    雨漏りし始めました…。今日いち-2024年8月30日

  • 歴史 今日の出来事 8月29日 759年8月29日(天平宝字3年8月3日) 鑑真和上が唐律招提(後の唐招提寺)を建立

    759年8月29日(天平宝字3年8月3日)鑑真和上が唐律招提(後の唐招提寺)を建立唐招提寺鑑真和上開山御廟奈良県奈良市五条町奈良時代になり、日本に仏教かがもたらされて約200年の年月が流れました。仏教の教えにおいて、守らなければならない掟が戒律です。戒とは内面性の道徳規範のことで、悪事を働いたりしない、善行を行い、他者に尽くす。といったもので、律とは、教団で守らなければならない内部の規則のようなものです。仏教伝来後、遣隋使、遣唐使による断片的な教えは伝わっていたものの、日本では、僧侶達への戒律を授ける権威ある戒律師を招く気運が高まりました。733年天平5年、遣唐使船で唐へ渡った栄叡と普照の二人の僧は、日本へ優れた戒匠を連れてくることを朝廷から託され、唐の国内を探しまわりました。この人こそ。という戒匠に巡り...歴史今日の出来事8月29日759年8月29日(天平宝字3年8月3日)鑑真和上が唐律招提(後の唐招提寺)を建立

  • 歴史 今日の出来事 8月28日 嘉永6年 8月28日 御台場 造営開始

    品川御台場(第三台場跡)東京都港区台場1-10嘉永6年8月28日(1853年9月30日)御台場造営開始1853年嘉永6年6月3日、黒船〜(米国東インド艦隊)を率いたペリーの来航により、江戸幕府は外圧により泰平の世の眠りを覚まされました。ペリーは脅しの様な開国の要求を残して翌年の来航を予告して去りました。江川太郎左衛門英龍像と韮山反射炉この事態に慌てた幕府は、以前から海防について意見を出していた伊豆国韮山代官の江川太郎左衛門英龍を召し出し、江戸湾内の防衛対策に当たらせます。江川英龍は、江戸湾内を巡視し、品川から対岸の有明にかけて入り江にあたる部分に砲台を設置する御台場の築造を計画します。西洋砲術と西洋の築城術を独自に学んでいた江川英龍は、入り江から侵入してくる艦船に砲撃を加えて江戸市中を守るというもので、こ...歴史今日の出来事8月28日嘉永6年8月28日御台場造営開始

  • 今日いち-2024年8月27日

    明日は御台場造営開始の日になります。今日いち-2024年8月27日

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 5 静岡県 浜松市 5

    頭陀寺山門頭陀寺本堂頭陀寺静岡県浜松市南区頭陀寺町頭陀寺は遠州でも有数の古刹で、創建は飛鳥時代と伝わります。地侍松下氏かこの一帯を治めました。戦国時代後期の天文20年、1551年には、14歳の日吉丸(後の豊臣秀吉)が浜松周辺に放浪中に当時の頭陀寺城主松下加兵衛之綱に気に入られ、仕えました。三公像左から豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政豊臣秀吉(日吉丸)像生まれ故郷の尾張を飛び出し、駿河を目指した日吉丸(豊臣秀吉)は、曳馬城下(現在の浜松城下)で、松下加兵衛之綱に声をかけられ仕えました。持ち前の愛嬌と機転の効く日吉丸でしたが、彼の存在を快く思わない古参の家臣らの妬みを生んでしまったため、松下嘉兵衛は仕方なく日吉丸に暇を出しました。後年、大出世した秀吉は、この頃の恩を忘れず、松下家を大名へと引き立てます。徳川家康(...歴史めぐり街物語5‐5静岡県浜松市5

  • 歴史めぐり 街物語 5‐4 静岡県 浜松市 4

    中田島砂丘浜松市南区中田島町地図上で見ると、ほぼ横に一直線の遠州灘。こうした地形の構造から、風避けの入り江に乏しく、古くから船乗りに海の難所として恐れられてきました。その遠州灘の中央に位置する中田島砂丘は、浜松市内を流れる馬込川の河口より西側の南北約600メートル、東西約4キロに渡って広がる地区のことで、昔から遠州の大河、天竜川の上流から大量に流れてくる砂により形成されたといわれます。冬は遠州の空っ風と名高い海風により砂浜に美しい風紋が作られ、障害物の少ない砂浜は撮影スポットとしてメディアから重宝され、初夏には日本一と言われる浜松祭りの勇壮な凧上げが繰り広げられて賑わいます。また、天然記念物のアカウミガメが産卵にくるスポットとして知られ、初夏から秋にかけて産卵されると囲いのゲージによって保護され、卵が孵化...歴史めぐり街物語5‐4静岡県浜松市4

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐3 静岡県 浜松市 3

    ヤマハミュージック浜松ビル浜松市中区鍛冶町世界一の音楽楽器メーカーYAMAHAヤマハは、歴史を辿ると明治時代にさかのぼります。ヤマハの創業者、山葉寅楠は江戸時代末期の1851年5月20日、(嘉永4年4月20日)、紀伊国〜現在の和歌山県で生まれました。ペリー来航の2年前です。時代は明治を迎え、修理工となった山葉は、各地に赴いて機械等を修理する日々、浜松へは、病院の医療器具の修理のため、大阪の医療器具会社から浜松へ来た修理工山葉寅楠が浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)のオルガンを修理したことが、今日の世界一の楽器メーカーYAMAHAの原点でした。その後、山葉寅楠は楽器への興味が湧き浜松市に移住し、やがて楽器製造の道へ進みます。今や知らぬ人はいない楽器メーカー、ヤマハをはじめ、河合楽器やローランドといっ...歴史めぐり街物語5‐3静岡県浜松市3

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 2 静岡県 浜松市 2

    天竜翁〜金原明善生家静岡県浜松市東区安間町金原明善記念館今年のお盆休み…、多くの人がそうだったかも知れませんが、ぼくのお盆休みは台風に右往左往させられた休みでした。特に帰省の復路で予定していた東北地方の史跡探索の多くをキャンセルしなければなりませんでした。昔も現代も、人は自然災害には弱いです。静岡県(厳密には駿河国と遠江国)には、生まれは共に江戸時代後期。育った環境は全く違うものの、時代が明治の幕開けを迎えると、利を求めることは二の次で、公共のために生涯を費やした二人の偉人がおりました。1人は世に知られた東海一の大親分と恐れられた侠客〜清水の次郎長こと、山本長五郎。次郎長は、多くの子分を持ち、賭博、喧嘩に明け暮れ、ある意味やさぐれた人生を送っていましたが、戊辰戦争の戦火が住まいの清水の町に飛び火した際、惨...歴史めぐり街物語5‐2静岡県浜松市2

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 1 静岡県 浜松市 1

    浜松城静岡県浜松市中央区元城町浜松城公園浜松市は今年8月時点での居住人口が78万人を超え、県庁所在地である静岡市を押さえる県内最大の都市です。室町時代初期、現在の浜松城の東の台地に曳馬(引間)城を築城したのが、徳川家康の正室瀬名姫の先祖にあたる今川貞相で、後の家康による遠州進出と両家に縁のある土地と言えるでしょう。1569年、永禄12年に家康が曳馬城を攻略すると、曳馬の地が(〜馬を引く〜)武家にとって戦に敗れることを暗示させる様で縁起が悪いとされ、この地の南の海岸が湊の機能に乏しい砂丘が広がり、松が広がることから〜浜松と名を改めました。1570年元亀元年、遠州を征した徳川家康が浜松城を築城すると、重臣達を城下に配置し、姉川、三方ヶ原、長篠、武田討伐、伊賀越え、小牧・長久手の戦いと戦いぬき、駿府城移転までの...歴史めぐり街物語5‐1静岡県浜松市1

  • 和歌 短歌 俳句 紀行 21 松尾芭蕉 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡 〜奥の細道

    夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡)松尾芭蕉句碑岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所1689年6月29日(元禄2年5月16日)、俳聖として現代にも優れた俳人として名高い松尾芭蕉が奥州、平泉の高舘義経堂を訪れ、詠んだ句です。江戸から陸奥(東北)を目指し、越後、越中、越前、加賀、近江、結びの地〜美濃大垣へと歩いた距離はおよそ600里(距離にして2400km)にも及びました。芭蕉が訪れた平泉は、かつて黄金の王国として栄えた藤原氏三代が築いた夢の国でしたが、鎌倉武士により滅ぼされました。藤原氏滅亡から500年の節目の年に訪れた芭蕉は、藤原三代の栄華の儚さと兄と破局した末の義経の最期を偲び、この有名な句を詠みました。【夏草や兵どもが夢の跡】(なつくさやつわものどもがゆめのあと)源義経の終焉の地となった高館(たかだち)から周...和歌短歌俳句紀行21松尾芭蕉夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡〜奥の細道

  • 歴史 今日の出来事 1864年8月20日 (元治元年7月19日) 禁門の変(蛤御門の変) 勃発

    ペリー来航以来、かつてない外圧にさらされた日本。国内では、帝を尊び外圧の尖兵である外国人(夷狄)を排除すべしという尊皇攘夷運動が激化し、幕末動乱の発端となりました。中でも、長州藩は朝廷内の攘夷急進派と結び、攘夷運動を推し進める中、1863年、文久3年の八月十八日の政変で長州藩と急進派公家は政争に敗れます。公武合体で朝廷の貴族と幕府、外様有力諸藩の協力により難局を乗り切ろうとする幕府、幕府親藩で京都守護職の会津藩、そして先代の島津斉彬から幕府に協調していた薩摩藩は京都御所を護衛に当たっていました。1864年8月20日、元治元年7月19日、この局面を打開しようと長州藩は穏健派と急進派の二派に分裂する中、新選組による池田屋襲撃による藩士が無惨に斬られる等で藩是は急進派に傾き、吉田松陰の義弟〜久坂玄瑞らが京都御所...歴史今日の出来事1864年8月20日(元治元年7月19日)禁門の変(蛤御門の変)勃発

  • 歴史 今日の出来事 8月19日 明治元年8月19日(1868年10月4日) - 江戸幕府海軍副総裁・榎本武揚が幕府艦隊8隻を率いて箱館に向けて出航

    歴史今日の出来事明治元年8月19日(1868年10月4日)江戸幕府海軍副総裁〜榎本武揚が幕府艦隊を率いて箱館に向けて出航榎本武揚像北海道小樽市稲穂龍宮神社明治元年8月19日(1868年10月4日)江戸幕府海軍副総裁・榎本武揚が開陽丸を含む幕府艦隊8隻を率いて江戸から箱館に向けて出航し、途中仙台で新選組副長土方歳三らを乗せ、蝦夷地(北海道)箱館で蝦夷共和国樹立を宣言し、明治新政府軍と戊辰戦争最後の戦いを繰り広げます。歴史今日の出来事8月19日明治元年8月19日(1868年10月4日)-江戸幕府海軍副総裁・榎本武揚が幕府艦隊8隻を率いて箱館に向けて出航

  • 歴史 今日の出来事 110年 8月18日(景行天皇40年7月16日) 日本武尊(やまとたける) 東征の旅に出る

    歴史今日の出来事110年8月18日(景行天皇40年7月16日)日本武尊(やまとたける)東征の旅に出る日本武尊像静岡県静岡市清水区日本平日本武尊【倭建命】は、今から1900年以上昔の第12代景行天皇の皇子で、110年8月18日、(景行天皇40年7月16日)父、景行天皇の命により東征を命じられ、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河さらには関東、陸奥と平定を為し遂げました。日本武尊は、かつてスサノオがヤマタノオロチを退治し、天照大神に奉献した天叢雲剣【あまのむらくものつるぎ】を景行天皇より賜り、東国平定の旅で使用しました。この天叢雲剣が武尊の数々の危機を救う神剣、草薙の剣です。日本武尊命像静岡県焼津市焼津焼津神社焼津市は、日本武尊が賊に襲われ、草原に火をかけられた際に天叢雲剣を凪いで危急を脱した伝承の地で、古事記や日本...歴史今日の出来事110年8月18日(景行天皇40年7月16日)日本武尊(やまとたける)東征の旅に出る

  • 歴史紀行 81 ‐ 2 平家終焉の地 平宗盛公胴塚 2

    平宗盛公胴塚滋賀県野洲市大篠原1181年治承5年閏2月4日、平安時代不世出の傑物〜平清盛と、謀略の帝後白河法皇は、長い蜜月の時期もあったものの、最後は自らを手足を縛る如く幽閉した清盛を許さず、忌の際(いまわのぎわ〜臨終前)に清盛が今後は宗盛と協調の政務を望み奏上したものの、法皇は一蹴してみせたため、宗盛に平家独裁の継続を託し、世を去りました。剛腕と地道に築いた財力、それに類い稀な交渉術を武器に、朝廷を向こうに一地方国守の立場から、官位最高位である太政大臣にまで昇り詰めた父、清盛と、父が全盛期を敷いたレールの上を歩んできた宗盛では、比べるまでもありません。宗盛は平清盛の三男として、清盛と後妻、時子(二位尼)との間に生まれました。生年は1147年、久安3年に生まれます。同じ年に源頼朝が生まれています。平家が頂...歴史紀行81‐2平家終焉の地平宗盛公胴塚2

  • 歴史 今日の出来事 8月17日 798年8月17日 征夷大将軍 坂上田村麻呂、清水寺を創建

    清水寺京都市東山区清水一丁目798年8月17日(延暦17年7月2日)征夷大将軍坂上田村麻呂、清水寺を創建京都市内一の景観は?と問われた場合、多くの人が思い浮かべるのが、金閣、銀閣、そして清水寺ではないでしょうか。京都市内を一望できる東山の景勝地でもある清水寺の開創は、794年の平安遷都前の778年宝亀9年の奈良時代末期、奈良の小島寺の住持、延鎮上人が見た霊夢をうけ、清泉の流れる音羽の滝を探しあてました。さらに延鎮は、練行中の行叡居士と出会い、居士から観音の祈りを込めた霊木を授かり、その霊木で十一面千手観音を刻み、居士の庵に祀ったのが清水寺の草創とされています。780年宝亀11年、後の征夷大将軍坂上田村麻呂がお産に望む妻の滋養にと、鹿狩りに音羽山に入った際、音羽の滝で修行中の居士に出会い、生類殺生の非を諭さ...歴史今日の出来事8月17日798年8月17日征夷大将軍坂上田村麻呂、清水寺を創建

  • 歴史 今日の出来事 8月17日 1180年 治承4年8月17日 源頼朝、伊豆で挙兵

    源頼朝、北条政子夫婦の像、頼朝配流の地〜蛭ヶ小島静岡県伊豆の国市四日町治承三年(1179年)11月、後白河法皇を幽閉して院政を停止させた平清盛は天皇家を凌ぐ最高権力者として君臨し、頼朝の暮らす伊豆国には、〜平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず〜と豪語したことで知られる清盛の義弟の平時忠が伊豆国主となり、さらに自らの息のかかる伊勢平氏の家人である山木兼隆を派遣して支配を進めます。平家家人による圧迫がより苛烈になり始めたことで、頼朝が身を寄せる北条氏といった伊豆の小豪族達にも危機感がもたらされます。治承4年(1180年)6月19日、後白河法皇の皇子である以仁王によって全国の源氏に平家追討を命じる令旨が発せられ、当初は令旨を黙殺した頼朝達ですが、法皇の皇子たる以仁王が敗れ討たれ、従って挙兵した源氏同族の従三位...歴史今日の出来事8月17日1180年治承4年8月17日源頼朝、伊豆で挙兵

  • 今日いち-2024年8月16日

    出先でも学べます。今日いち-2024年8月16日

  • 葵 夜話 48 台風に振り回される

    JR新橋駅の井川遥さんのサントリーウイスキーの看板ゆりかもめ新橋駅からの眺め東京へ行くと、新橋、台場、品川へよく行きます。新橋〜台場は無人運転交通車両【ゆりかもめ】にて。台風が無ければ、新橋〜台場〜を遊び歩き、りんかい線に乗って東京テレポート〜大崎。そこから歩いて北品川の菩提寺で墓参りして品川から新幹線で静岡行きにて、ゆっくり帰るつもりでしたが、今日〜明日の予定で発表された東海道新幹線の東京〜名古屋間の計画運休により、帰りのスピードを早めることとなりました。昨日の夜、小樽から一泊二日をかけ…静岡にたどり着きました。駅最寄りのスーパーまでようやく来てホッとしました。台風よ、はやく去っておしまい。葵夜話48台風に振り回される

  • 歴史紀行 81 平家終焉の地 平宗盛公胴塚 1

    平家終焉の地平宗盛公胴塚滋賀県野洲市大篠原1185年、元暦2年3月24日源平が雌雄を決した戦い〜壇ノ浦の戦いにより、敗れた平家は清盛以来の多くの一門を失ないましたが、嫡男の宗盛と子の清宗は海に沈むことも出来ず、漂い泳いでいる処を源氏武者に引き揚げられ、源氏の虜囚の身となりました。武者鑑〜〜内大臣宗盛(一名人相合南伝二著者〜歌川芳虎(一猛斎芳虎〜【武者鑑】)国立国会図書館データコレクションより引用)幕末から明治の人相浮世絵師、歌川芳虎は自身の作、武者鑑に描いた平宗盛について…内大臣宗盛宗盛は、清盛の三男也り。実は、至って下賤の者の子也り共ともいう。実(まこと)なるかな。勇無く、智も無く、仁も無けれど、其の相貌は眉長く、眼大きく、鼻圓(まる)く、口耳共ともに大きく、額高く、極めて貴うとき高(好)運の相ありしが...歴史紀行81平家終焉の地平宗盛公胴塚1

  • 東京見物

    東京までたどり着きました。台場で腹ごしらえ…大量の汗をかいたので、塩分補給を兼ねてラーメンをと思いましたが、あまりの行列に断念しました。台場は元気な土地です。たえずイベントが開催されてます。台場のシンボル〜自由の女神像新橋のタミヤのアンテナショップがリニューアルしました。【TAMIYAPLAMODELFACTORYTOKYO】と生まれ変わりました。いつもの井川遥さんのお誘いにも関わらず、泣く泣く新橋をあとにします。東京見物

  • 歴史紀行リバイバル 26 (特別編) 靖国神社

    靖国神社拝殿終戦の日を迎えました。正午から黙祷、戦没者追悼式典となりますが、英霊の御霊が集うとされる靖国神社についてまとめました。靖国神社の前身東京招魂社江戸時代末期の1853年嘉永6年ペリー来航が引き金となり、外国人排斥と外敵の排除を掲げて尊王攘夷運動が始まり、これらの動きはやがて江戸幕府打倒へと変節し、薩摩、長洲の西国外様諸藩出身の志士らが中心となり、倒幕運動を起こし、やがて戊辰戦争が勃発します。この倒幕を目的とした戦争は、江戸幕府開府時における関ヶ原の戦い、大坂の陣といった美濃地方、大坂といった局所の武士、大名同士の戦いとは違い、尊王攘夷運動は主に京都、戊辰戦争に至っては、これらが発端となったといえる京都、江戸、中国、さらに会津藩のある東北、長岡のある北陸地方の越後、さらに戊辰戦争最後の戦い箱館戦争...歴史紀行リバイバル26(特別編)靖国神社

  • 東北縦断の顛末

    実家最寄りの駅から札幌へ向かったのが13日の午後9時過ぎでした。何かの事件の後だったのですが、ニュースで騒がれた形跡もないので、軽犯罪でしょうか。新函館北斗駅札幌から夜行バスで新幹線のある道南〜新函館北斗駅へ歌手三橋美智也の碑三橋美智也はこの地が北斗市となる前の旧上磯町出身の人気歌手でした。北海道から本州へ渡るには、津軽海峡を越えねばなりません。空路か陸路。航路での移動は台風接近もあり、選択肢にならず。岩手県盛岡市県都盛岡は今回は乗り換えのためスルー平安の世に黄金の王国を築いた藤原氏三代の都、平泉世界遺産中尊寺などを訪ねました。一ノ関駅ようやく関東、小山までたどり着きました。今日も何か所か訪ね歩き、次の台風上陸までに静岡へ戻りたいと思います。東北縦断の顛末

  • 歴史紀行 リバイバル 25 (特別編) 終戦の日 昭和天皇 大東亜戦争終結ノ詔書

    8月15日を迎えました。本日は大東亜戦争終戦の日です。1945年昭和20年8月15日正午、ポツダム宣言による降伏勧告を受け、昭和天皇は終戦を決意したことを国民に知らせるラジオ放送を流しました。~耐え難きを耐え~忍び難きを忍び~に代表される玉音放送による大東亜戦争終結ノ詔書、原文と現代釈文を書きました。昭和天皇大東亜戦争終結ノ詔書原文朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニア...歴史紀行リバイバル25(特別編)終戦の日昭和天皇大東亜戦争終結ノ詔書

  • 今日いち-2024年8月14日

    帰省の復路。北海道新幹線と東北新幹線を利用しての東北縦断を敢行しました。今日いち-2024年8月14日

  • 葵 夜話 47 事件?

    台風接近のため、帰省の復路を早めました。駅前まで来るとパトカーがロータリーに3台点在して停まってました。何かあったかな…なんて思いながら駅に入ると、改札付近を警察官が何人も行ったり来たり…。おまけに鑑識係らしき人も2名。事件でしょうね。ただ、駅員と談笑?する警察官も居たりと、あまり緊張感は漂いませんでした。改札を抜けてホームからロータリーのパトカーの方の様子を見ていると、今度は何かの容疑者らしき若い男が取り囲む警察官達から身体検査を受けてました。そんな流れを見守ってるうちに電車が来ます。これから静岡へ向けて戻ります。天気次第ですが、少し寄り道をしながら…葵夜話47事件?

  • 今日いち-2024年8月13日

    事件。今日いち-2024年8月13日

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 8 北海道 小樽市 8

    カトリック小樽教会富岡聖堂北海道小樽市富岡1丁目ひと際美しい聖堂のカトリック教会が小樽にあります。小樽の街にキリスト系の教会が布教を本格的に開始されたのは、1880年、明治13年頃のことで、これは江戸時代末期にアメリカとの日米和親条約締結による下田、箱館(函館)の開港以来、北海道では函館に次ぐものと言われてます。カトリック系の教会は明治15年に数度、東の住ノ江地区に教会を献堂した後に現在の富岡聖堂が1929年、(昭和4年)に献堂されました。赤いトンガリ屋根に白の八角堂の鐘楼を備える独特な建物は、10世紀から12世紀にヨーロッパで広まった石材を利用した重厚なロマネスク様式(ローマ式)と、富岡聖堂を象徴するステンドグラスと高さを追求したゴシック様式が混在するとても美しい設計がなされました。なお、富岡聖堂は小樽...歴史めぐり街物語4‐8北海道小樽市8

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 7 北海道 小樽市 7

    小樽港(写真は小樽勝納(かつない)埠頭新日本海フェリー、フェリーターミナル)小樽運河オタルナイ運上屋跡小樽運河周辺の堺町商店街小樽の町としての始まりは、上方の豊臣政権終末期から(1596年~慶長元年)関ヶ原の戦い(1600年〜慶長五年)を経て、徳川家康が江戸に幕府を開いて江戸時代を迎えた間に、(1610年〜慶長15年)松前藩の大名〜蠣崎氏(後に松前氏と改名)が家臣に与える土地として入植を試み、開拓し始めところから本格化されました。当時は僅かばかりのアイヌの集落が点在するばかりで、松前藩に仕える〜八木勘右衛門が小樽の東、銭函まで漁場を設けその後、ニシンを求めて松前、江差、歌棄(うたすつ〜現在の寿都町)と、商機を見込んだ近江商人らの来道や南から移住してくる人たちが増え、元治2年(1865年)年に漁業を営む人た...歴史めぐり街物語4‐7北海道小樽市7

  • 歴史 今日の出来事 昭和60年 8月12日 日航機123便 墜落事故

    墜落した日航機123便墜落前年の機体昭和60年8月12日、国内最悪の航空機事故が起きました。日本航空午後6時丁度東京羽田発~大阪伊丹行きの123便が離陸から約24分後に機体後部の圧力隔壁が破損したことにより垂直尾翼を損壊して油圧コントロールが不能となり、機長以下副操縦士による30分にも及ぶ必死の回復作業もむなしく、離陸から約1時間後の午後6時56分、群馬県上野村、御巣鷹山の尾根の斜面に墜落しました。乗員乗客520名が死亡、奇跡的に4名が生存する日本航空史上最悪の事故となりました。歴史今日の出来事昭和60年8月12日日航機123便墜落事故

  • 今日いち-2024年8月11日

    剣士の晩年の足跡を訪ねました。今日いち-2024年8月11日

  • お題〜猫

    実家のネコです。名前はモモ。雑種こちらはミミ。三毛猫のメスです。母以外には懐きません。庭で遊んでいたら、庭に収穫に出たぼくと目が合うと、母の部屋にダイブします。自宅の庭から外へは出しません。お題〜猫

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 6 北海道 小樽市 6

    小林多喜二文学碑北海道小樽市旭展望台小林多喜二。彼の生み出した最高傑作【蟹工船】。今や働く現代人にとって当たり前の権利ともいえる労働者としての人権を、逃げ場の無い密室とも例えられる洋上の工船で命懸けで問う内容は、資本主義の危うさと、やがて多喜二本人が傾倒して行くことになる暴利、搾取、の無い平等な世界といった共産主義の理想を見事に描かれました。多喜二が生まれたのは、蟹工船のほとんどの労働者の出身である東北地方のひとつ、秋田県大館市で、多喜二が4歳のとき、一家で伯父の招きもあって北海道小樽市に移住しました。小林多喜二住宅跡小樽市若竹町小樽築港駅前近年の小樽築港界隈は、新日本海フェリーターミナルや、グランドパーク小樽(旧ヒルトン小樽)、イオン、ビバホーム、ニトリ、イオンシネマを併設した巨大複合ショッピングモール...歴史めぐり街物語4‐6北海道小樽市6

  • 実家のある町

    札幌駅正午札幌駅前の気温は29.8℃静岡で連日の35℃超えに慣れていたせいか、涼しく感じます。ぼくの実家は小樽市、札幌から電車で40分ほどの海沿いの町ですが、風が心地よいです。エアコンも必要ないです。実家庭のトマト。前日まで姪っ子が夏休みで泊まりに来ていて、ほとんど収穫していったそうです。実家のある町

  • 帰省道中

    昨日の東京駅丸ノ内口おはようございます現在、帰省の途中です。今回は東北、北海道新幹線〜【はやぶさ】と北海道函館から札幌を結ぶ特急【北斗】で帰省する鉄路の道中です。東北、北海道新幹線はやぶさ今作は函館が舞台の大人気アニメ〜名探偵コナン中継の地、函館で夜の観光を考えましたが、予想以上に疲労困憊なので、宿で大人しくしました。新函館北斗駅駅、休憩所には市の名前にちなみ、漫画【北斗の拳】の主人公ケンシロウの像が!妖怪?エイリアン?奇抜な容姿の北斗市マスコットキャラクター【ずーしーほっきー】昨日の駅周辺の気温はご覧の通り本州では考えられない30℃以下!帰省道中

  • 歴史紀行 80 ‐ 3 腰越状 満福寺 3

    満福寺神奈川県鎌倉市腰越満福寺は正式名称を〜龍護山医王院満福寺といい、真言宗大覚寺派の寺院です。創建は奈良時代の774年、天平16年、時の帝〜聖武天皇の勅命で行基菩薩が建立したと伝わります。鎌倉、西の出入り口として栄える腰越の門前として崇敬を受けました。源義経が鎌倉入りを兄、頼朝から拒絶され、思いの丈を吐露した腰越状。義経にとっては、一の谷以来の平家を滅ぼした戦いは、一の谷は断崖絶壁から背後を衝いての奇襲。屋島の戦いは民家を焼き払い大軍に見せかけての襲撃で平家を海へ追い遣り。そして壇ノ浦の戦いは、海戦において、水夫、漕ぎ手といった戦いに直接関わらない者を弓で射るという禁じ手を使い形勢を逆転し、ついに平家を滅ぼしました。父は同じとも、朝廷の表裏一体の権謀術数の恐ろしさ、人と世間の醜さ、浅ましさを伊豆の地にて...歴史紀行80‐3腰越状満福寺3

  • 歴史 今日の出来事 8月9日 昭和20年 8月9日 長崎市に原爆投下

    カトリック清水教会静岡市清水区太平洋戦争の終結の6日前、連合国側の降伏通告~ポツダム宣言を日本が黙殺する中、昭和20年8月9日午前11時2分広島に続く原子爆弾が長崎市に投下されました。爆心地に近いカトリック浦上天主堂は熱線と爆風により破壊されました。様々な思惑が絡み、被曝の悲惨さを後世に残すべき遺産を長崎市は撤去、平和公園には芸術家がデザインした平和の像が替わりに建立されました。なお、長崎市のキリシタン関連施設が世界遺産に認定されましたが、浦上天主堂は選考から外れました。写真のカトリック清水教会は、静岡空襲を奇跡的に免れたものの、現在の耐震基準を満たしていないことから撤去されています。ただ、この美しかった教会の再建への動きが広がりを見せています。歴史今日の出来事8月9日昭和20年8月9日長崎市に原爆投下

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 5 北海道 小樽市 5

    消防犬ぶん公像北海道小樽市は、江戸時代にはニシン、鮭の漁場として栄え、また明治時代に入ると、北海道内陸部で産出される石炭の搬出港として、小樽港が使われたことで大いに繁栄し、輸入港としても活用され、人、物、金が集まる夢の街として知られました。それに伴い、小樽の街は、人が集まるに連れて火災も頻繁に起こります。そんな火災のよく発生する小樽の街で、大正3年の春、住宅街の火災で消火活動していた消防士が、焼け跡現場で鳴いていた一匹の仔犬を救助しました。仔犬は白と茶色のぶち模様で、明らかに雑種犬でした。火災現場の指揮をしていた小樽市消防組(現在の小樽市消防局)の神山消防部長に救助された仔犬は神山部長に懐いてしまい、そのうち消防組の車倉庫に住み着きました。犬が住み着いて消防士たちに懐いてくると、人は犬に情が湧くもので、自...歴史めぐり街物語4‐5北海道小樽市5

  • 歴史紀行 80 ‐ 2 腰越状 満福寺 2

    腰越状文を認(したた)める弁慶と見守る義経の像神奈川県鎌倉市腰越満福寺源義経が兄、頼朝と共に父の仇敵である平家を壇ノ浦で滅ぼし、なお、鎌倉凱旋の手土産として平家嫡男〜平宗盛を生け捕りにして鎌倉近くまで連れ戻ったのは、壇ノ浦の戦いからひと月あまりが過ぎた1185年、元暦二年5月24日のことでした。義経主従が平宗盛父子を連行し、いよいよ鎌倉という目前で、西の玄関口である腰越の地で足止めをくらいます。使者が訪れ、平宗盛父子を早々に鎌倉へと護送していったものの、義経には頼朝から鎌倉入りの許しが出ないため、満福寺で逗留を余儀なくされます。自身に対する頼朝からの疑念が尋常ではないと悟った時、義経は無二の郎党である武蔵坊弁慶に頼朝へ取り次ぎを求める一通の文を、頼朝の腹心ともいえる吏僚、大江広元に宛てて書かせます。3に続...歴史紀行80‐2腰越状満福寺2

  • 歴史紀行 80‐1 腰越状 満福寺 1

    満福寺山門神奈川県鎌倉市腰越足かけ4年余りに及んだ源平合戦は、20年来の平家政権による奢りに対し、平治の乱以降源氏と平家に屈した全国の武士が積年の恨みを爆発させ、ついに壇ノ浦の戦いにおいて滅亡へと追いやり、終わりを迎えました。圧倒的な軍事力を持っていた平家を様々な奇策と戦略で打ち破り、滅亡させた一番の要因は、稀代の英雄〜源義経の存在でしょう。上洛を目指した宇治川の戦いによる先陣争いに始まり、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと、奇襲や放火、それに戦いに加わらない水夫、舵取りを狙って勝利を決定付けた壇ノ浦の戦いの戦法は、互いに名乗り合い雌雄を決する従来の坂東武者達の考えの及ばないゲリラ戦の様なものでした。ただ、英雄の如く働きをもって源氏と坂東武者に勝利をもたらした義経ですが、戦後、主君たる兄の頼朝と破局...歴史紀行80‐1腰越状満福寺1

  • 歴史 今日の出来事 昭和20年 8月6日 午前8時15分 広島に原爆が投下される

    広島原爆ドーム世界遺産原爆ドーム広島県広島市中区大手町太平洋戦争終結【日本の無条件降伏】の10日前となる1945年〜昭和20年8月6日、午前8時15分、人類史上初の原子爆弾(原爆)が広島市に投下されました。原爆ドームは、明治時代後期に日清戦争で大本営が置かれた広島市か軍都として発展目まぐるしい中で、さらに海外向けに広島産の製品を紹介する拠点施設~広島県物産陳列館として、大正時代の1915年4月5日、チェコ人建築家のヤン・レッツェルにより設計され、竣工しました。ヤン・レッツェルの起用は、広島県知事の寺田祐之が前職の宮城県知事当時に、レッツェルの手掛けた宮城県の松島パークホテルの姿を見ていたことから決めたもので、バロック様式(芸術的な彫刻、絵画を加える建築物)の斬新なデザインで竣工した陳列館は、軍都とはいえ、...歴史今日の出来事昭和20年8月6日午前8時15分広島に原爆が投下される

  • 歴史紀行 79 ‐ 12 安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)

    安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)山口県下関市阿弥陀寺町赤間神宮壇ノ浦の戦い1185年寿永4年3月24日1184年寿永3年2月に一ノ谷の戦いで本拠地の福原(現在の神戸市)、翌年2月には安徳天皇の内裏を含め、四国の屋島(現在の香川県高松市)に移した本拠地を源義経の軍勢に襲われ、海上に追われた平家軍は、平清盛の四男、知盛が守る長門国の彦島(現在の山口県下関市)を目指しました。というよりも、一ノ谷を追われて以降、本拠地として勢力回復を計った屋島を追われた時点で時勢は源氏にありました。源範頼は幾度も兵糧の危機に悩まされながらも持ちこたえ、軍勢を周防(すおうの)国(山口県東部)から二手に分けて一隊を海路、九州の豊後国、国府(大分県)に上陸して九州で味方を増やしながら筑前国の最東端、門司を目指し、本隊は、九州源範頼が率いた軍...歴史紀行79‐12安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 5 北海道 小樽市 5

    永倉新八、近藤勇娘山田音羽対面の地北海道小樽市花園町小樽市役所の敷地は、かつて新選組の永倉新八が終の棲家とした杉村薬舗という薬局がありました。明治維新後、永倉新八は松前藩医の杉村介庵の娘婿として帰参、小樽で余生を送ります。以前は市役所正面の駐車場敷地内に永倉新八邸宅跡という看板がありましたが、今はなく、市役所より北の国道5号の地下歩道横に永倉新八が晩年に出会う山田音羽との対面の地を標す看板があるのみです。~新選組~幕末に将軍徳川家茂上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立する芹澤鴨ら一派を粛清して組織が一本化され、京都守護職を司る会津藩主松平容保の下で京都治安維持を名目に不逞浪士の多くを討ち取りました。~近藤勇~新選組局長として京都...歴史めぐり街物語4‐5北海道小樽市5

  • 歴史紀行 79 ‐ 11 安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵) 11

    安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)山口県下関市阿弥陀寺町赤間神宮1183年寿永2年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を壊滅させた木曽義仲。破竹の勢いで連戦連勝を重ねて軍勢を京へ向けます。もはや、打つ手を無くした平家は京を脱出、西へと逃れます。朝日将軍木曽義仲討伐に押し寄せた平家軍を北陸道、俱利伽羅峠の戦いで打ち破った義仲はその勢いを駆って京に入ります。木曽義仲が京へ入った1183年、寿永2年の夏、この年は全国で大飢饉に見舞われ、義仲が平家を追うために徴発した大軍勢は数で平家を圧倒して都落ちさせたものの、その次は惨憺たる有様を招きます。勝ちに乗じた義仲の兵は飢饉に苦しむ京の民から食料を簒奪し、また乱暴狼藉で苦しめ、人心は急速に離れ、それに加えて義仲は以仁王の遺児、北陸宮を次の帝へと分不相応の要求をして後白河法皇にし...歴史紀行79‐11安徳天皇御陵(阿彌陀寺陵)11

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 3 北海道小樽市 3

    北海道鉄道開通起点標北海道小樽市手宮小樽市総合博物館敷地内北海道における鉄道の始まりは、首都圏の東京新橋ー横浜間、関西圏の大津ー神戸間に次ぐ国内3番目の鉄道網として、明治政府により計画されました。この鉄道網施設の計画の優先度の早さは、北海道内の豊富な埋蔵量を誇る石炭にありました。1879年(明治12年)北海道の内陸部にあたる空知地方の幌内炭鉱が稼働を開始し、空知地方で産出される石炭を、当初は北海道最大の大河、石狩川を利用しての船による輸送を計画しましたが、冬季は川が氷結することから見直しされ、蒸気機関車、貨車、客車の輸入と、御雇い外国人、クロフォードを招聘しての技術指導のもと、鉄道網による輸送が決定します。鉄道敷設指導を行ったジョゼフ・クロフォード像1880年(明治13年)1月8日、まず、小樽港に近い小樽...歴史めぐり街物語4‐3北海道小樽市3

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 2 北海道 小樽市 2

    奥沢水源地階段式溢流路~水すだれ~北海道小樽市天神2丁目北海道にお住まいの方。または旅行で訪れた方は、小樽市の老舗蒲鉾メーカー(かま栄)のテレビコマーシャルで、写真のような階段から水が流れ落ちる清涼感のある場面をご覧になったことがあるかと思います。写真の施設は、奥沢水源地階段式溢流路【かいだんしきいつりゅうろ】と言い、~水すだれ~の通称で呼ばれています。小樽市民の貴重な水瓶として活用されてきた奥沢水源地は、市内東部を流れる勝納川(かつないがわ)を水源としていて、階段式溢流路~通称水すだれ~は、奥沢ダムから勝納川の水を放流するために、1914年大正3年に造られた施設です。階段式溢流路は、放流後に約21メートルの落差から落ちる水の激しい流れにより護岸が削り取られることを防ぐ目的もあり、ダムから溢れた水を、約1...歴史めぐり街物語4‐2北海道小樽市2

  • 歴史めぐり 街物語 4 ‐ 1 北海道 小樽市 1

    小樽運河北海道小樽市色内1丁目〜3丁目小樽港は江戸時代からニシン漁をはじめ、アイヌとの交易港として栄え、明治時代となってからも、函館港と共に北海道開拓の玄関口として発展しました。旧日本郵船小樽支店1904年〜1905年(明治37年〜明治38年)の日露戦争の戦勝後、樺太国境画定会議が竣工間もない日本郵船小樽支店でロシア政府代表団との間で行なわれ、数少ない日露戦争での戦利が獲られ、その祝宴が小樽で開かれました。祝宴が開かれた旧魁陽亭国境画定が成って日本海、オホーツク海の海上輸送が安定化すると、樺太、沿海州方面への物資を流通させる小樽港の重要性は更に増大し、それまでの官営幌内鉄道、手宮線を利用しての石炭、穀物類を中心とした農産物といった小樽港に停泊する船舶への運び出しは逼迫し始めました。小樽港の機能を更に高める...歴史めぐり街物語4‐1北海道小樽市1

  • 歴史めぐり 街物語 3 ‐ 8 静岡市清水区 8

    清見寺山門跡静岡市清水区興津清見寺町清見寺朝鮮通信使遺跡静岡市清水の中心市街地から東にある清見寺のある興津(おきつ)の地は、飛鳥時代の昔、東北の異人(蝦夷〜えみし)に備えて設けられた清見関【きよみがせき】があった地で、関所の傍らに仏堂が建立され、この仏堂が清見寺の起源とされています。やがて時代の流れとともに清見関寺となり、荒廃と再興を繰り返してしまいますが、室町時代には、駿河今川氏の庇護を受け、軍師太原雪斎が清見寺の一世として臨済宗寺院として再興しました。家康手習いの間本堂裏には、人質時代の徳川家康が雪斎について手習いに来ていました。江戸時代に幕府を開いた徳川家康は、豊臣政権下の朝鮮出兵により大陸より連れてこられた捕虜の返還と、断絶した朝鮮との関係を見直し、文化的交流と貿易、李氏朝鮮王朝による徳川将軍家の...歴史めぐり街物語3‐8静岡市清水区8

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