Nスペ「”一億特攻”への道」〜特攻は軍だけの責任でない
*この記事は追加があって長くなったので、2分割に再編集しました
先日「よみがえる新日本紀行」で鹿児島県知覧の篇がありました。本篇は郷氏として武家屋敷群を形成した知覧町の話が中心でしたが、「よみがえる」ではこの知覧にある特攻隊記念館の紹介もありました。知覧は一度訪れたことがあります。知覧には旧日本海軍の特攻隊基地があり、ここから南方に向けて出撃しました。数々の遺品や遺書を見て、無念の死を遂げた隊員たちの冥福を祈りました。しかし、今回のNHKスペシャルを見るまで、第二次世界大戦末期の特攻隊の編成に軍だけでなく教育界を含め、日本全体が深く関わっていたことを知りませんでした。
最初の特攻は1944年10月にフィリピン沖の空母を撃破するために始まりました。この前の7月にサイパン島が陥落しています。サイパン島を占拠されたらB29の飛行距離を考えると、日本本土の制空権は完全に奪われており、敗戦はもはや決定的でした。それなのになぜ特攻に拘ったのか?そこに「一撃講和」の発想があったのだと知りました。「最後に一撃を加えて講和条件を有利にしよう」という発想です。一撃のための「捨て石」とされたのが特攻隊です。この考え方、そして特攻隊の出撃は昭和天皇にも報告され、それに賛同していたと今回の番組で知りました。物量で日本を圧倒するアメリカが、なぜ「最後の一撃」で譲歩すると思ったのか?結果論で言うのは易いことと言われても、昭和天皇の第二次世界大戦に関わる戦争責任はきわめて重いと私は思います。
特攻隊の隊員はどういう出身だったのか?最初は予科練出身者が中心でした。予科練とは「海軍飛行予科練習生」で 旧日本海軍に置かれていました。航空機搭乗員を養成するための教育制度のひとつで、 本来は海軍の下士官・兵が「飛行術」を学ぶための教育課程「飛行練習生課程」の初期段階の事を指していました。しかし、戦争中から変わりました。wikiから引きます。
1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。甲飛1期生-11期生の採用数は各期200名-1000名程度であったが、12期生4000名、13期生以降は、各期3万人以上の大量採用となる。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊・三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。
1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。また、1944年(昭和19年)10月頃に、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵・台湾人日本兵を対象にした特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)が新設され、特丙飛1期が乙飛24期と同じ12月1日に鹿児島空へ配属された。
戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核となり、多くが命を落としている。
1944年(昭和19年)夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。
予科練には旧制中学を中退して入隊する者も多かったです。wikiから引きます。
1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12年)、更なる幹部搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は満16歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。
予科練の生徒が中堅将校として活躍できるのは10年以上後です。それを特攻隊員として駆り出したのは、もはや「使い捨ての戦力」としてしか認識してなかったことになります。しかしそれをもってしても日本軍の劣勢は覆いがたく、1945年1月にはマニラをアメリカに占領され、「一撃講和」はまったくの幻となりました。ここで一旦特攻隊の出撃は減少していきます。
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