西洋芸術のモダニズムの影響を受け、日本の生け花は大きく変わっていきました。その影響は現在まで続いています。昭和初めの生け花改革運動は、従来の生け花の何を改革しようとしていたのでしょう?
15世紀、立て花の成立から始まった生け花、そのすべてを否定し、まったく新しい生け花を提唱しようとしたのではありません。では、何を否定したのか?この運動に関わっていた人々の間でもこの点で合意があったのか、よく分かりません。抜本的な改革を意図していた方もあったかもしれませんが、この改革運動の中心人物の一人、草月流初代家元勅使河原蒼風などは、どうもそうではないようです。
「かつていけばなの世界では『まねぶ』ことの方に重きを置きすぎて、悪いことがはやった。決められた形をそっくりまねるのでなければいけてはいけない、この流儀にはこの形しかない、この形を皆でいけるのだというような。非常に非芸術的な時代があった。これが江戸末期のいけばなの悪弊だった。(略)これは明治になっても大正になってもその停滞から抜け出ることができなかった」(「蒼風講義録から 4 平凡を非凡にする」)
つまり、蒼風が批判しているのは江戸末期から大正までの生け花のある側面。生け花の全てを批判しているわけではないのです。批判の対象は、模倣させるという指導のあり方、制作態度。小さな点です。重要ですが。別の観点から見れば、これはモダニズムの「いいとこ取り」なのです。ここは後に詳述します。
さて、江戸末から大正までの期間とは、生け花史上重要な時期。そのあたりに大きな生け花ブームが2回起こっているのです。江戸後期、明治期の2回。ともに流派の数が爆発的に増加した時期。3回目はもちろん戦後の最大のブーム。草月流、小原流などがリードしました。大手の池坊も様々な改変を経てブームを担い、今日に至っています。
さて、次回は、過去3回の生け花ブームについて、特徴を簡単に述べておきましょうか。それで日本華道史の要点も蒼風の立場もよりよく理解できるでしょう。
今回は1年前の正月花を紹介します。クラウンの此処に活けたもの。今年もクリスマスから新年にかけて展示しますのでご覧下さい。
今年は3月にローン彫刻展、9月にビエナーレ・オブ・オーストラリアン・アートに参加予定です。昨年度、イェーリング・ステーション彫刻展で入賞した作品を最初の作品とし、「公共芸術としての環境芸術」シリーズの続編をこれらの芸術祭で発表予定です。お楽しみに。