自然あふれた長野県の町にグランピング施設の建設計画がたちあがり、該当地区の住民を集めた説明会が開かれる。会はコロナ助成金を当てにして事業に参入してきた芸能事務所の男女によって進められるが、土地の水源を汚染する可能性のある杜撰な計画を、理解もなしに読み上げるだけのお粗末な内容に、話し合いは当然のように物別れに終わる。逃げ帰るように東京に戻ったものの、活動資金獲得のために異業種に飛び込んだ事務所の立場上、なんとしても住民を説得せよとはっぱをかけられた担当の二人は、説明会での態度から地域で一目を置かれる存在にみえた、巧という男をキャンプ場の管理人として取り込もうと画策、再び彼の元を訪ねる。
自分の実家の街で最近とある騒動が持ち上がったとき、ふとこの映画を思い出した。古くから残る町並みと傍を流れる川景色が街歩きの名所に紹介されてきた地域に、都会のディベロッパーによって高層マンションを建てる計画が突然発表され、付近の住民は追って何度か開かれた説明会で建設の計画を見直すよう再三要望を出すけれど、相手はのらりくらりとかわすばかり。それから数ヶ月、いよいよ販売受付開始と大々的に告知配布したチラシに、地元の山の眺望満点を謳いながら使用されていた写真が隣県の山で、局地的に大炎上したという例のアレである。「単なる写真の取り違え」として謝罪するディベロッパーだけど問題はそこじゃなくて、街の景観やら地域の先住者の意向を無視してず話を進めるやり方がどうなのよと皆さんいっているわけで、写真が違ってたとかは正直大した話じゃないのに。
だから、まだここに出てくる助成金ほしさに、なんの関連もない別のハタケから乗り込んできた芸能事務所の二人が、巧さんの背中で見せる態度に気持ちを揺さぶられて「やっぱこういう自然に還れみたいな暮らしっていいっすね」とかコロっとほだされてしまうあたり、甘いよねと思いだしたりしたのだった。
というのは大いなる脱線話だけれど、
ゴダールみたいなオープニングに、自然と調和した暮らしを送っているように見えて実はなにをしている人なのかよくわからない巧さんという存在の不穏さ。加えて足を踏み入れたら出てこられないような樹海だったり、「ピクニック・アット・ハンギングロック」のような露骨に不吉さを放っているような場所もあれど、人の気配がない山林とは多かれ少なかれなにかしら漂うものがあるものだ。今どきならクマとか目に見える形の怖さもあるけれど、やっぱり自然ってどのような規模でもひとりその只中にいると畏怖のようなものを感じる。
巧さんが最後に及ぶ行為は、娘の花ちゃんを見つけた衝撃になにかに憑かれたかのようなとっさの凶行で真意は正直わからない。けれど生き物としての自然な、とまではいわなくともありえる「反応」だったのかもしれない。そこで考えるタイトルの意味だけれど「悪は表立って存在はしない、けれど、存在してしまう」ということなのかしら、とも思えたり。普段は人を怖がって近づいてこないはずの鹿が傷を負ったことで攻撃に出たりするのは、動物の本能・生態として「悪意」とは無関係だろうし。また東京組の二人もひょっとして最初は「うちらの土地開発で地元にカネが落ちるようになるんだから、計画のんでくれないなんてありえない」みたいなスタンスであったとしても、ひとつのきっかけで心が動いたりするのだから絶対的な「悪」とは言えないだろうし。
そんなことを考えると、どういうことなのだろうと観る人それぞれが想像を巡らせることができそうだけれど、もう少し考えてみたくなる
英語タイトル:Evil Does Not Exist 監督:濱口竜介 2023年製作
出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁、菊池葉月、三浦博之
2024.5.24鑑賞 @Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下
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