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韓国代表の新監督ホン・ミョンボ決定の裏側に迫る。「5カ月の迷走」の実態と「急転直下の48時間」

慎武宏ライター/スポーツソウル日本版編集長
ホン・ミョンボ監督(写真:西村尚己/アフロスポーツ)

韓国サッカー協会(KFA)が代表新監督の最終的な内定を下すまで、48時間もかからなかった。

KFAは7月7日14時9分、韓国国内のサッカー担当記者に携帯メッセージを通じて、A代表の新監督として蔚山(ウルサン)HD FC現指揮官のホン・ミョンボ監督を内定したことを発表した。

(参考記事:なぜホン・ミョンボが韓国代表新監督に?KFA幹部明かす“適任”のワケ【一問一答全文】

2013~2014年にA代表を率い、2014年ブラジルW杯を経験したホン・ミョンボ監督は、約10年ぶりに再び代表監督を務めることになった。

そして、韓国代表はアジアカップ終了直後の今年2月にユルゲン・クリンスマン前監督を解任後、約5カ月ぶりに正式な監督が就任することになった。

クリンスマン解任から5か月。どんな監督が候補だったのか

“闇のトンネル”を抜け出すまで長い時間がかかった。

代表監督を選任するため、KFAの国家代表戦力強化委員会はチョン・ヘソン委員長を中心に今年2月に初めて招集し、新監督候補のリストを作成した。

当時もホン・ミョンボ監督は韓国人監督の間で最有力候補に挙がっていたが、戦力強化委員会は外国人監督と優先的に接触する方針だった。

ただ、予想よりも交渉作業が難航した。

戦力強化委員会は4月、最有力候補のジェシー・マーシュ監督と接触を図ったが、年俸などの基本条件で折り合わず交渉が決裂。結局、マーシュ監督はカナダ代表の新指揮官に就任した。

このほか、イラク代表指揮官のヘスス・カサス監督、元ボタフォゴ指揮官のブルーノ・ラージ監督なども候補に挙がったが、具体的な交渉には至らなかった。

正監督が決まらない間、韓国代表は2度のAマッチ期間でそれぞれ暫定監督を据えた。

3月の北中米W杯アジア2次予選では当時U-23代表を率いたファン・ソンホン監督、6月のW杯予選ではキム・ドフン監督が暫定的に代表を率いた。

A代表の暫定体制が続くなか、戦力強化委員会は原点に立ち返り、再び候補リストを作成した。

6月末で4人に絞られ、ホン監督で決まりかけたが…

マーシュ監督らとの交渉失敗を踏まえて、今度は現実的に交渉可能な人物を選別することにした。指揮官としてのネームバリューや実績を持つ外国人監督を招へいするには、KFAの財力による後押しがなかった。

また、FWソン・フンミン(トッテナム)やMFイ・ガンイン(パリ・サンジェルマン)など欧州で活躍する選手が以前より増えただけに、代表監督としての実績が劣る外国人監督だけに目を向けず、韓国人監督も再検討しようという点で意見が一致した。

そして、6月3日の第8回会議で12人の候補を整理し、18日の第9回、21日の第10回会議を経て4人に絞られた。

4人の候補にはホン・ミョンボ監督をはじめ、イラク代表を率いるカサス監督、前ギリシャ代表指揮官のグスタボ・ポジェ監督、前ノリッジ・シティ指揮官のデイヴィッド・ワグナー監督が名を連ねた。

フース・ヒディンク元韓国代表監督が推したという現オーストラリア代表指揮官のグラハム・アーノルド監督やA代表での暫定指揮経験のあるキム・ドフン監督は、戦力強化委員会内で高い評価を得られず、最終面接の対象者に含まれなかった。

戦力強化委員会ではさまざまな見解が交わされた。

チョン・ヘソン委員長が総合的な最終順位を付けた際、ホン・ミョンボ監督が最も高い点数を獲得した。

世代別代表からA代表まですべて指導を経験し、成功と失敗いずれも味わった点、近年はより成熟した指導力で蔚山をKリーグ1(1部)2連覇に導いた点などが高く評価された。

また、KFAの現実的な条件も一定部分受け入れられるという点も肯定的だった。

候補者選んだ強化委とKFA首脳部で相違も

ところが、チョン・ヘソン委員長がホン・ミョンボ監督を最優先の交渉対象者として報告する過程でKFA幹部と不協和音が発生した。

当時は、元韓国代表監督フース・ヒディンク氏がKFA関係者に推薦したとされるアーノルド監督の招へいを支持する層が一定数存在するという話もあり、協会内部が騒がしい状況だった。

すると、チョン・ヘソン委員長は6月28日に辞任の意思を突如伝えた。これを受け、KFAはイ・イムセン委員長に監督選任の業務を任せた。

ただ、チョン・ヘソン委員長の辞任によって戦力強化委員会の“無用論”が広がると、一部の委員も辞任の意思を伝えた。

結局、これ以上選任作業を遅らせることができなかったKFAは、イ・イムセン委員長に7月2~4日でポジェ監督、ワグナー監督と現地で対面し、面接をすることを指示した。指示を受けたイ・イムセン委員長は、すぐに欧州行きの飛行機に乗った。

この際、最終決定権者であるKFAのチョン・モンギュ会長は、最優先交渉対象者の選定など、監督選任に関する“事実上の全権”をイ・イムセン委員長に与えた。選任過程をめぐる国内の批判を謙虚に受け止め、イ・イムセン委員長に力を与えたのだ。

この過程で予期せず再び候補に取り上げられたホン・ミョンボ監督は、公の場でKFAの監督選任システムを批判した。欧州出張を終え、帰国したイ・イムセン委員長との会合の提案も断った。

自宅に電撃訪問。固辞したホン・ミョンボをどう説得したか

ただ、イ・イムセン委員長は5日の帰国直後、ホン・ミョンボ監督の家を訪ねることにした。

当時、ホン・ミョンボ監督は同日にアウェイで行われた水原(スウォン)FCとKリーグ1第21節を終えた後、翌日の休息日を考慮してソウル近郊の自宅に移動する日程を組んでいた。

そこで指揮官のもとを訪ねたイ・イムセン委員長は、KFAがこれまで継続して抱えてきた問題を認め、協会内部としてもホン・ミョンボ監督が必要だという意見を伝えた。そこにはチョン・モンギュ会長の意思も含まれていた。

提案を受けたホン・ミョンボ監督は夜を徹して悩んだ。この際、イ・イムセン委員長は蔚山のキム・グァングク代表にもKFAの立場を伝えたという。

代表監督のオファーをめぐり、蔚山とホン・ミョンボ監督は緊密な相談を行った。

この過程で、ホン・ミョンボ監督はある瞬間に“逆らえない運命”であることを直感した。

KFAの選択には、蔚山のオーナーを兼任する韓国プロサッカー連盟のクォン・オガプ総裁も大局的な決断を下した。

ホン・ミョンボ監督が7日午前にKFA関係者と最終的な調整を行ったなか、クォン・オガプ総裁も同日13時40分頃、ホン・ミョンボ監督に電話を通じてA代表監督復帰を応援する言葉を伝えた。

結局、イ・イムセン委員長の帰国から2日も経たないうちにホン・ミョンボ監督の説得に成功したKFAは、7日14時9分、国内の記者に内定の事実を知らせた。

五輪で栄光、14年W杯で挫折、Kリーグ連覇を経て…

選手時代はベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)や柏レイソルでもプレーし、韓国代表では2002年日韓W杯“4強神話”の主役として活躍するなど、華やかな現役生活を送ったホン・ミョンボ監督。韓国ではベストセラーのタイトルにもなった“永遠のキャプテン”とも呼ばれている。

引退後は指導者に転身し、2009年U-20W杯ベスト8、2012年ロンドン五輪銅メダル獲得と世代別代表で結果を残し、順調な監督生活を送った。

ただ、2013年6月にはブラジルW杯最終予選後に退任したチェ・ガンヒ監督の後任としてA代表監督に就任するも、1年未満の準備期間で迎えたW杯本大会ではグループステージ敗退。指導者として初の失敗を味わった。

以降は中国の杭州緑城(現・浙江FC)での指導を経て、2017~2020年にKFA専務理事を務め“行政家”として視野を広げた。

そして、2022年シーズンより蔚山の指揮官に就任し、現場復帰を果たした。

多くの成功と失敗を経て熟練した指導力を蓄えたホン・ミョンボ監督は、蔚山をクラブ初のリーグ2連覇に導き、指導者としての再起に成功した。

現役時代から“アジアサッカーのアイコン”として活動してきたホン・ミョンボ監督は、数回にわたる代表監督オファーに対し固辞を伝えてきた。

だが、崖っぷちに立たされたKFAの切実なメッセージをこれ以上無視することはできなかった。

結局、熟慮の末に“火消し役”として再びA代表の指揮を担ったホン・ミョンボ監督は、指導者として事実上最後の航海に出ることになった。

韓国サッカーの運命は、再び“永遠のキャプテン”に託された。

ライター/スポーツソウル日本版編集長

1971年4月16日東京都生まれの在日コリアン3世。早稲田大学・大学院スポーツ科学科修了。著書『ヒディンク・コリアの真実』で02年度ミズノ・スポーツライター賞最優秀賞受賞。著書・訳書に『祖国と母国とフットボール』『パク・チソン自伝』『韓流スターたちの真実』など多数。KFA(韓国サッカー協会)、KLPGA(韓国女子プロゴルフ協会)、Kリーグなどの登録メディア。韓国のスポーツ新聞『スポーツソウル』日本版編集長も務めている。

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