国家総動員報桜

1: 名無し三等兵 02/06/27 19:43 ID:???

>泣かない人間を非難する前に、自らの涙に恥じぬ振る舞いをせよ。
初代スレ756氏

未だ見ぬ誰かの為に、その尊い命を捧げた英霊達に捧ぐ
7: 名無し政治士官 ◆jfJDqXec 02/06/27 20:01 ID:???

「平成日本のよふけ」瀬島龍三氏出演の時の
アッツ島玉砕についての話(うろ覚えだが)。

瀬島氏曰く、アッツ島が最期の突撃を敢行した時に受け取った電文、
彼の上官はその旨を昭和天皇に報告しに行ったそうだ。
その報告を聞いた昭和天皇は、
アッツ島に電文を打つように御命じになった。
「よく戦ってくれた」と…。 

勿論最期の突撃をしてしまった後だ、
無線機などは守秘の為に破壊されている。
昭和天皇とてその位解っていた筈である。
にも拘らず、昭和天皇は最早この世には居ない、
名も知らない将兵たちに電文を打てと御命じになられた。
「よく戦ってくれた」と…。

彼の上官はこの命を受けて帰って来た。
瀬島氏の役目は、彼の上官が受けて来た命令を
筆記して記録する事が使命の為、
上官にどのような命令が告げられたのかを聞く。
だが上官は何も答えてくれない、散々聞き返した結果、
やっと彼の上官はどのような命令が下されたのか教えてくれたそうだ。
そして、瀬島氏は涙した。
涙が止まらなかったそうだ。

後日、命を果たすべく、ちゃんと無線局で電文を打ったそうだ。
通常ならば、遅くとも30分以内に受信を報告する返信が有る筈なのだが、
この日は1時間待っても、二時間待っても、返信は来なかった。

と、以上なのだが、
恐らく軍板の同志諸兄は殆ど知っているようなエピソードだろう。
だが、無知な私は瀬島氏の話で初めてこの話を知った。
涙が止まらなかったよ…。
生来の話下手故に、あの時の瀬島氏の話の、
彼の込めた感情の半分も伝わっていないだろうが、ここに記しておく。

8: 名無し三等兵 02/06/27 21:39 ID:???

>>7
「平成日本のよふけ」って
今時の深夜番組には珍しく内容が濃いですよね

実際に歴史を体験した人
(しかも大物ばかり)を呼んで生の体験とか聞けるから
できるだけ見るようにしてる
下手な歴史書より余程役に立つよ

ということで感謝を兼ねて御土産です
前スレ249

最近買ったのですが、土井全次郎ー兵士の沈黙はいいです。 
元朝日の記者ってのは気に入らないが、泣ける話の宝庫ですよ。 
ただあまり売ってないし、買えない人の為 要約して書きます、
皆さんは陸軍が潜水艦を持っていたのを知ってましたか?

補給用に急造した300トンクラスのものです。 
ただ陸軍が海軍に内緒で作った為 司令塔に目立つ日の丸。
昼間堂々と浮上航行し、船尾には日章旗を掲げて、目立つ事この上なし、
米潜がコレを発見して、あまりの無防備ぶりに困惑し
とうとう攻撃をしかけられなかった代物でした、

海軍の艦艇から、
潜行可能ナリヤとからかわれたり、砲撃されたりと散々でした。 
ある日瀬戸内海で訓練航行中に
前方より山のような巨大な物が接近してきた戦艦大和である。 

陸兵と言えどもその艦名は知っていた、
岡田さんは以前から一度登舷令をやってみたくてしょうがなかったので、
これは良い機会と思い、手空きの者を総員上甲板にあげて、
軍刀を抜き、頭右ーを号令した。 岡田さんはしてやったりと満足だった

しかし、大和を見てもっと驚いた、
向こうも甲板に100名位が整列して頭右をやっている
しかも最上級のラッパの演奏つきである。
高々300トンのオモチャのような潜水艦に7万トンの
巨艦が最上級の令を尽くして去っていた。 
岡田も感激のあまりに涙がてできた。

時は昭和20年4月6日。くしく大和最後の出撃の日でもありました。  

10: 名無し三等兵 02/06/27 21:45 ID:???

前スレ186

インパール作戦時、ただ一人、部下将兵を餓死させずに、
しかも全軍総崩れの中を最後尾を守りつつ、
部隊の建制を維持して戻って来た部隊があった。
宮崎繁三郎少将率いる、歩兵第58連隊を基幹とする宮崎支隊だった。

続いて宮崎少将は第53師団長となるが、
ここで末期のビルマ戦線を支える矢面に立った。
かくして第53師団を含む第15軍は敵中に孤立し、
方面軍に置き去りにされる格好になったが、
軍は突破を試み、雨季のチンドウィン川を渡河する。

ここでも宮崎師団長は、
インパールのように味方の最後を守って激流を渡った。
そして、最後の中隊を掌握してようやく河畔を離れた。

だが、その宮崎師団長を軍司令官桜井省三中将は、
近くの村で待っていたのである。
軍司令官は師団長を信頼し、師団長は中隊長を信頼していた。
だからこそ、敵中突破も成功したのである。

不敗の最前線指揮官、宮崎中将は、
戦後は都内で雑貨店を営み、つつましい余生を送った。
多くの犠牲者から出したにも関らず、戦後も「支隊長殿」「師団長閣下」と
懐かしそうに訪ねて来る部下が絶えなかったという。

引用元:泣ける話@軍事板・暫定スレ