円空が蝦夷を訪れる3年前の寛文3(1663)年、7〜8千年間活動を休止していた有珠山が大噴火を起こし、これが山岳修験像円空が寛文6年に蝦夷に渡る背景になったと考えられる。
その有珠山噴火を23年遡る寛永17(1640)年には、約5千年活動を休止していた内浦岳(北海道駒ケ岳)が7月31日(旧暦6月13日)突如山体崩壊を起こし、それに続いて3日間大噴火した。
南斜面での山体崩壊による岩屑は、折戸川をせき止め、大沼・小沼が形成された。
東斜面の山体崩壊による岩屑なだれは、出来澗崎(できまざき)を形成し、土砂はそのまま内浦湾へ流れ込み大津波が発生、アイヌ人を中心に700名あまりが犠牲となっている。
北海道では長い間火山活動がなかったので、松前藩の和人にとっても、またアイヌ人にとっても、これらの噴火の驚きとダメージは格別のものだったろう。そして、有珠山の次にどの山が噴火するのかという恐れにも包まれていたはず。
寿都郡寿都町の海神社の御神体として伝わる円空作の観音菩薩坐像の背中には、「いそや乃たけ 寛文六年丙午八月十一日 初登内浦山 圓空(花押)」と刻まれているので、円空が内浦岳に登ったことは確実である。
ただし、これと別に有珠善光寺にあった三体の仏の一体に「内浦の嶽に必百年の後あらはれ給」と記していると、菅江真澄が『蝦夷廻手布利』の寛政3(1791)年9月7日の項に記していることから、有珠善光寺に着いた時点では内浦岳には登れておらず、松前への帰路に登ったと考えられる。
そして、先行記事「『円空の冒険』第2回北海道踏査に行ってました」に記した通り、円空は砂原(現在の森町砂原)から船で恵山汐首とたどったと想定すると、内浦山には砂原から登ったのではないかと推察。
ということで、8月4日、『円空の冒険』蝦夷地調査のスタートとして、内浦山を砂原側から登ることに。
(↓地図クリックで拡大)
今は大沼駒ケ岳、または北海道駒ケ岳という名の方が一般的な内浦山は、かつて富士山や羊蹄山のような姿をしていたと考えられている。
そして山体崩壊の後は崩れ残った部分が、剣ヶ峯(1,131m)と砂原岳(さわらだけ:1,112m)と呼ばれるようになった。
大沼駒ケ岳というと、大沼側から見た剣ヶ峯の鋭く印象的な姿が主に登山の対象とされるが、火山活動によって長い間入山禁止となっていた。
ぼっちは12年ぶりに登山解禁となった、2010年の7月25日に登山可能となった剣ヶ峯の鞍部馬の背まで登っている。
それにしても、こんな荒ぶる活火山を、円空は、何と山体崩壊から25年後に、初登頂しているというのはものすごい。
内浦湾側からみる砂原岳(左)も剣ヶ峯(右)。両山ほぼ同じスケールを持っていることが分かる。
森町砂原の望洋の森の登山口を9:45出発。
いまだに、登山は「自粛」とされているけれど、「円空の冒険」追跡にリスクなしとはいかない。
ヒグマ対策も兼ねてヘルメットを着用し、熊鈴にホイッスルを吹きつつ進む。
望洋の森の遊歩道から登山道に入る。柵は倒れているし、入口の標識もなくなっているが、草刈りはされているのでありがたい。
たんたんと林間を進む。円空がたどった頃は、まだ樹木など生えていなかったのではないだろうか。
立派なあずま屋のある踊り場から、西円山(544m)が眺められる。
あずま屋からしばらく巻いて、10:50西丸山と砂原岳との分岐に出る。
草刈りは西丸山まで、ここから先は草をかき分け、踏み跡を確認しつつ進む。
斜面は大きく崩れており西円山から山頂に至る尾根だけが崩壊を免れている。
350年余りのうちに何度も噴火はあったが、この地形は大きくは変わっていないはずなので、円空もこの尾根を登ったのではないだろうか。。
五合目あたりでようやく草むらを抜け、火山のザラザラした礫地の斜面を登高する。
ルートには、鉄の棒が差してある。
振り返ると、内浦湾が見下ろせる。視界が良好なら有珠山も見えるはず。
七合目あたりから望む砂原岳山頂。
地形図で見ると全体が岩壁で覆われ、地図もなしに初登した円空は、どこからピークに取り付いていいか、しっかり観察したのだろう。
今はひと筋ロープが下ろされ、迷うことはない。しばらくよじ登ると、岩稜の上に出る。あとは長細い山上を左(東)へたどる。
岩の間は銀緑色のコケに覆われ、イワギキョウやイワブクロが咲いている。
溶岩の間に洞穴状の部分もある。
山麓の砂原にある、円空仏のある権現山内浦神社の縁起には「創祀は詳らかではありませんが、内浦岳中腹岩窟内に内浦三所大権現として素盞嗚尊・稲田姫命・事代主命を祀られたことが始まりで、永禄年間(1558年〜)と伝えられております。後に文化3年4月22日(1806年)内浦権現社として現在の地に遷座され箱館六箇場所(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追)の松前藩祈願所として崇敬されます。」とある。
円空も、このような窟屋で、山よ鎮まれと祈ったのだろうか。
山上をさらにたどると砂原岳のピークに至る。右手の斜面の底が火口原。
13:10砂原岳山頂に到着。立派な一等三角点であります。
砂原岳から剣ヶ峰は、一本の稜線でつながっている。円空は剣ヶ峯まで行ったのでは。
今も踏み跡が付いており、時間さえ許せば往復したいところだけれど、時間切れとして断念。
往路を戻りかけ、岩稜部を降り立ったあたりからは雨混じりの突風にあおられ、剣ヶ峯まで行かなくてよかったみたい。
無事15:45望洋の森登山口に帰着。
今回、砂原岳からは、円空がどのような山を遥拝したのか確認することも目的だった。
画像は登りで撮影した北西方面の山並み。
円空が像の背銘に記した「ゆうらつふみたらしのたけ」(遊楽部岳?)、「しまこまき山」(島牧村の最高峰狩場山?)などは、この山から遥拝したのではないかと推測していたのだけれど、はてさて、同定は難しかった。
<登山記録> (―:車、…:徒歩)
2023年8月4日(金) 曇下山時にわか雨と突風 単独行
函館8:00―砂原岳(内浦山)登山口9:45…▲砂原岳(1,112m)13:10…登山口15:45―礼文華トンネル入口(駐車)18:40 …礼文華岩屋観音19:30(岩屋泊)
・上記のとおり砂原岳は「登山自粛」となっており自己責任の山、西円山から上は登山道の整備がされていない。