【木科雄登〈中〉】岡山から関大へ 表彰台までの0.1点を追い求めた日々

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第35弾は、今春関大の大学院に進学した木科雄登が登場します。3回連載の中編では、無良隆志のもとでトップスケーターに成長した後、関大に拠点を移すまでの課程を描きます。(敬称略)

フィギュア

◆木科雄登(きしな・ゆうと) 2001年(平13)10月15日、岡山・浅口市生まれ。5歳でフィギュアスケートの短期教室に参加したことをきっかけに競技を開始。全日本選手権8年連続出場中。今春、関大社会安全学部を卒業し、現在は同大大学院1年生。

関大と木科をつないだもの

胸元でひときわ存在感を放つのは、羽飾りのついたかぶとをかぶる皇帝(KAISERS)。所属する関大体育会のロゴだ。野球部も、サッカー部も、関大所属のアスリート全員が背負うKAISERS。岡山の自然の中でのびのびと育った木科をその仲間に引き入れたのは、やはりフィギュアスケートだった。

これまでの競技生活などを、振り返って語ってくれた木科雄登(撮影・加藤哉)

これまでの競技生活などを、振り返って語ってくれた木科雄登(撮影・加藤哉)

小学校入学のタイミングで、自らからこぼれた「スケートがしたい」という意志。「そこで大きく人生が変わったなと思います」

幼稚園から小学校にかけての遠い過去を、ひとつずつ、タイムカプセルを開けるように丁寧に目の前に広げてきた木科は、故郷から約200キロ離れた大阪にたどり着くまでの道のりが刻まれた、次の記憶箱に手をかけていた。

「1番、嫌いじゃない」

ノービスB1年目で全日本ノービス選手権を経験したからか、その年、木科は選手として一回り大きくなっていた。

「ノービスBの1年目から2年目がすごい(成長した)。1年目はダブルアクセル(2回転半)がまだ跳べなくて。で、2年目で跳べるようになって、プログラムに2本入れて。野辺山(合宿)でも確かシードを頂いて、結構自信がつきました」

ノービス時代は常に表彰台争いを繰り広げ、ノービスA2年目の年には自身最高位の3位に到達。目標だった表彰台に、“岡山三銃士”と評された三宅星南、島田高志郎とともに立つことができた。

「ずっと表彰台を目指してたんですけど、0.1点差とかで毎回届かなくて。最後にやっと表彰台に乗れて、そこからうまくいき出しました」

全日本選手権男子SPで演技を見せる木科雄登(2016年12月23日撮影)

全日本選手権男子SPで演技を見せる木科雄登(2016年12月23日撮影)

高い身長を生かしたクールなスケートで魅了。自分の武器も分かり始め、自信が確立し出していた。

そうして、ノービス時代を懐かしむ木科は「あ、思い出しました」と大きな目をさらに見開き、ノービスB2年目の全国舞台で得た「1番」の裏側を語り始めた。

それは、日本が当時史上最多38個のメダルに沸き立った2012年ロンドンオリンピックが閉幕し、秋風が吹き始めたころ。日が落ちて夜を迎える京都のまちに、木科の歓喜の叫びが響いた。「よっしゃー!」

自信ありげな木科に、たじろぐ一同。嫌われることの多い滑走順「1番」にも、動じないどころか無垢(むく)笑みを見せる木科は、ライバルの注目の的となっていた。

「なんか、1番を引きたくないみたいな話を親としていたんですよね。でも、逆に『緊張するから、あなたは1番の方がいい』みたいなことを母に言われて」

母親とのやりとりの中で「じゃあ、僕1番引くわ」と宣言して前に出た。いわば、狙って引いた1番だった。

「昔は(ナーバスに)なることはあんまりなかったですね。1番もみんなが嫌って言うから嫌なだけなんですよね。実際は1番の方がほかの選手の結果とかわからないので、のびのびできるし」

無邪気な子供時代を思い返し「結構僕1番引くこと多かったんですよね」と話す木科は、「1番、嫌いじゃないです」と笑みを浮かべた。

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スポーツ

竹本穂乃加Honoka Takemoto

Osaka

大阪府泉大津市出身。2022年4月入社。
マスコミ就職を目指して大学で上京するも、卒業後、大阪に舞い戻る。同年5月からスポーツ、芸能などを取材。