私は実母の実家であり養父の実家であった、埼玉県熊谷市で出生し、数週間滞在したようです。その後は、神奈川県小田原市国府津の国鉄官舎に住んでおりました。国鉄時代、国府津は重要な拠点となっており、養父は、保線技師として国府津、鴨宮、小田原、熱海の保線区に在職していました。官舎は明治時代に建てられたような古い木造、ご飯を食べる部屋、寝る部屋、炊事場、便所、風呂がありました。写真の記録によると、手の届く障子、ふすま類は、すべて私が破ったそうです。乱暴な子供で集会所のガラスを割ったりのいたずら好きだったようです。官舎の子供向けの遊び場でよく遊んでいたとのこと。子供用乗用自動車、プラレールで遊ぶのが好きだったようです。時刻表もこの頃に見ていたのを覚えています。(業務用の時刻表で廃棄するやつを養父は持って帰ったようです。)
この頃の鮮明な記憶は、養母の運転する自転車が、たんぼ道の交差点で他の自転車と衝突。後ろに乗っていた私に怪我はなかったものの、養母はことさら痛がっていました。国府津駅の購買(国鉄職員向けの売店)に良く行っていたのを覚えています。一度、養父が自転車から私を降ろさず買い物に行ってしまい、不安定になり、自転車が横転。私は大泣きして痛がりました。養父はこの頃としては珍しく、トヨタの自動車を所有していました。写真では、熊谷まで行った記録が残っています。カメラは、私が産まれてから買ったようで、白黒の写真があります。車でみかんを買い出しに行ったような記憶があります。湘南地域はみかんの産地です。官舎では、老人が道端で囲碁大会を毎日やっていたようです。小田原市内の記憶は、守谷のパンをよく買ってくれました。名物は、甘食パンなのですが、遅い時間に行くと売り切れで、代わりにクリームのたくさん入ったパンを買ってもらい、帰りのバスで食べました。小田原城の公園では、大きな象をいつも見て、ミニ列車に乗りました。遠くに行った記憶は、急行列車で、養母の実家の千葉に行った際、養母がカバンを忘れていたが、私がしっかりと持っていてえらくほめられ利口な子だと言われました。この頃養父母は、千葉方面に盛んに不動産探しをしていたようですした。様々な家を見たような気がします。静岡県の戸田(へだ、現在沼津市の一部)に、養父母と、養祖父母で旅行(ドライブ)に行ったのですが、国鉄官舎よりもオンボロの民宿に泊まることになり、私が嫌だと泣き出したので宿泊は中止になりました。予約なしで旅行してしまう養父母の無計画さは、ずいぶんあったようです。
養母は、私が産まれる前、養父が、国鉄の首都圏管理局分割で東京南鉄道管理局所属になり、西千葉(轟町)の材修場から転勤になった時に、千葉市立小学校の先生を辞めたようです。国府津では、ポーラ化粧品の外交員、かまぼこ工場でパートをした後、小田原市の臨時職員の募集があり、競輪場の発券 、換金の仕事に入り、定年まで続けました。月6日程度の勤務と重賞レースの時の他の競輪場への応援です。かなり給与が良かったようで、後に千葉から通っている時期もありました。養母がパートの時、私は保育園に預けられていたようです。
赤ん坊からこの頃は、とにかく可愛がられて育ちました。