『韃靼の馬』第13話の記事でちょっと触れた、「聖徳記念絵画館」の前にあるヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)を見てきました。
近くで撮った写真
角度を変えて、ちょっと離れて撮った写真
どうせ写真を撮るなら、花が咲く5月に撮ればよかったのですが、久しぶりに「聖徳記念絵画館」の絵が見たくなったので、11月に行ってしまいました。
「聖徳記念絵画館」については別の記事で紹介するとして、今回はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)について。
この木の側にある看板には、以下のような説明が書かれていました。
ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)
この木は、和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ昔からこの地内にあった名木です。五月初めの頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見えます。
この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
明治18年にこのあたりは青山練習場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
明治36年、白井光太郎博士(元 帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々努力したため大正13年12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年枯死した。
練習場に枝を広げて立つ明治39年頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾)の中に描かれており、またその遺木の一部は絵画館内に飾られている。
ここにあるひとつばたごは、二代目六道木で、明治38年頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。
この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。
ひとつばたごの名称は、江戸時代に植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名付けたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。
昭和53年12月 明治神宮外苑
小林万吾・画の『凱旋観兵式』は、こういう絵です。
日露戦争で成果をあげた陸軍の凱旋観兵式の様子を描いた絵だそうで、元満州軍ほか全国各部隊の代表三万一千余名が参列したそうです。
どうせ写真を撮るなら、花が咲く5月に撮ればよかったのですが、久しぶりに「聖徳記念絵画館」の絵が見たくなったので、11月に行ってしまいました。
「聖徳記念絵画館」については別の記事で紹介するとして、今回はヒトツバタゴ(ナンジャモンジャ)について。
この木の側にある看板には、以下のような説明が書かれていました。
ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)
この木は、和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ昔からこの地内にあった名木です。五月初めの頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見えます。
この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
明治18年にこのあたりは青山練習場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
明治36年、白井光太郎博士(元 帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々努力したため大正13年12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年枯死した。
練習場に枝を広げて立つ明治39年頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾)の中に描かれており、またその遺木の一部は絵画館内に飾られている。
ここにあるひとつばたごは、二代目六道木で、明治38年頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。
この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。
ひとつばたごの名称は、江戸時代に植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名付けたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。
昭和53年12月 明治神宮外苑
小林万吾・画の『凱旋観兵式』は、こういう絵です。
日露戦争で成果をあげた陸軍の凱旋観兵式の様子を描いた絵だそうで、元満州軍ほか全国各部隊の代表三万一千余名が参列したそうです。