2024年07月31日
土佐久礼 ヨット泊地
土佐久礼 周辺図
土佐佐賀より土佐久礼に向かった。 凪の日であったが南東の大きなウネリが港内に入り、この風の時化の時にはここの停泊は不適であろう。
赤丸は停泊地 青丸は候補地
矢印の岸壁側に係留できる
2024-8-3
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2024年07月30日
お遍路20 37番岩本寺
土佐清水を離れ、足摺岬を廻ると、いよいよ太平洋だ。 土佐佐賀にヨットを停泊した。
37番 岩本寺
土佐佐賀駅より窪川駅まで中村発の高知行の特急に乗った。 ここらあたりは本数が少ないので一つ逃すと2時間待ちということが生じる。 岩本寺までは徒歩10分である。
天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が開創したのが起源であるという。その後空海が増築した。 本堂には全国の有志が描いた天井ががある。
仁王門
左は大師堂、中央は歓喜天堂
本堂 天井絵
2024-7-30
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2024年07月29日
土佐佐賀 ヨット泊地
高知県南東部
赤丸は停泊地 青丸は候補地
土佐湾の諸港は凪の時でもウネリが入る時が多く、風向とウネリの方向に注意が必要である。 ここは台風でもやってこなければ安心できる港のようである。 ここの南には避難港の土佐上川口がある。
スーパーとガソリンスタンドはある。
土佐佐賀 係留地
上川口港、 湾内に避難用ブイが設置されている
2024-7-30
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2024年07月28日
お遍路19 38番 金剛福寺
足摺 周辺図
38番 金剛福寺
38番金剛福寺は足摺岬灯台のごく近くにあり、ヨットでその岬を廻った時には四国最南端とはこのことだ、すぐに確認できる。
弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。
仁王門
本堂
愛染堂
2024-7-28
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2024年07月26日
ジョン万次郎資料館
土佐清水 周辺図
愛南かわうそ海の駅より停泊地に不安があった宿毛を避けて土佐清水越にヨットを廻した。そこから38番金剛福寺とジョン万次郎資料館を訪れる。 資料館は廃止になった長距離フェリーのターミナルを改装して使われている。
資料館
展示の内容はジョン万次郎の生涯をたどっていけるようになっている。 貧しい片親の家に生まれた万次郎が寺子屋にも行かずに漁師になり、遭難して米国捕鯨船に助けられて船長の援助を受けて学び、日本に帰国して龍馬などに影響を与えて、士分に取り上げられて和親条約締結に向けて活躍し、教育者になり航海術や英語などを教えた。
土佐清水越 ヨット泊地
2024-7-26
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2024年07月24日
佐田岬 三崎 ヨット泊地
伊予長浜より佐田岬近くの三崎に停泊した。宇和島や「かわうそ海の駅」に行くには八幡浜などの湾奥に行きたくないのでここを選んだ。
実際に中に入ってみると港内に海草が海面近くまで育っており、プロペラに巻き付く恐れが大きく、心配であった。
買い物するお店もないような小さい漁港であるので、翌朝には早々に出港した。
佐田岬・三崎
赤丸は停泊地
停泊位置
湾内に繁る背の高い海草
2024-7-22
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2024年07月22日
紫電改記念館
かわうそ村海の駅にて天候待ちで時間ができたので、紫電改記念館に行って来ました。 山の中あるので南レク公園からタクシーで往復することになる。
愛媛県・愛南町 マップ
ここの紫電改戦闘機は1978年に漁師さんにより久良湾海底から見つかったものである。 なぜこの近くに着水事故を起こしたのかと云えば、先の大戦末期に優秀な搭乗員を集めて本土防空戦を戦うための部隊第343海軍航空隊が松山にあったからである。
紫電改は水上戦闘機・強風を陸上型に再設計されたものである。ゼロ戦は1000馬力ほどのエンジンであるが、紫電改は場合の2000馬力のエンジンを持っている。大戦末期では米国戦闘機に負けていたが、紫電改は性能的には敵と同等の能力で最優秀の戦闘機であったとされる。
燃料タンクの防弾処理がされたもの、ゼロ戦にはこれは無い、初めて実物を見た
2024-7-22
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2024年07月20日
お遍路18 40番観自在寺、39番延光寺
かわうそ村海の駅に停泊して40番観自在寺と39番延光寺を訪れる。 観自在寺には地元の漁師さんが連れていってくれました。 そこからバスで宿毛へ行き、タクシーにて延光寺をお遍路した。
愛南町・宿毛 お遍路図
40番 観自在寺
平安時代初期の大同2年(807年)平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇持の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられている。
送ってもらいうことが出来てバスで行くより1時間も早く着いた。 納経所が開く時間8時まで境内で待つことになる。
仁王門
本堂、 薬師如来が本尊
大師堂
寺の宝物を収納展示する宝聚殿八角堂
39番 延光寺
聖武天皇の勅命によって神亀元年(724年)に行基が薬師如来を刻んで本尊とし、本坊ほか12坊を建立、当初は亀鶴山施薬院宝光寺と称したとされる。その後桓武天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)が来錫して再興、脇侍の日光・月光菩薩を刻んで安置、本堂脇に眼病に霊験のある「目洗い井戸」を掘ったとされる。
本堂
中庭
2024-7-20
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2024年07月19日
伊予長浜 ヨット泊地
長浜新港に停泊した。 青丸の空いているポンツーンは停泊中の3日間には使用されていない。 漁協は良い返事をくれないようだ。 北東の風の荒天であったけれど、ウネリもあったが耐えることができた。 赤丸停泊地は漁協の許可をもらったけれど、ビットの設備が無く、何とか工夫して悪天候をしのいだ。 ポンツーンに停泊できれば良かったけれども。 使っている気配が無いので、云われるまでそこに置いておくのもひとつの手かも?
旧港もひろいようだけれど適当なところは見つからなかった。
赤丸は停泊地、 青丸は候補地
植え込みを利用したりした もやいロープ
ドラム缶を利用してもやいを植木で支えた
停泊候補地
伊予長浜散歩
日本最古の可動橋と龍馬の宿を訪ねる。
2024-7-19
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2024年07月18日
お遍路17 43番明石寺、42番佛木寺、41番龍光寺
御遍路17 地図
43番 明石寺
伊予長浜よりJR特急で卯之町に着き、そこから歩いて43番明石を訪ねた。街はずれからお遍路道を行くことになった、石畳の登り山道で木立の日差しが少ない道を歩いた。途中で歩き遍路の方とすれ違う。 ほとんど歩きの人は少ないので見かけずらい。 ひょっとして逆打ちだと会えると云われる弘法大使様ではなかったとさえ後から考えると思われた。 その後もヨットで廻っているせいか、最後までその気配を感じることはなかったので。 本当は遍路まがいのことをしている小生にはその機会が無いということであろう。
6世紀に欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建し、天平6年(734年)役行者より5代あとの寿元行者が熊野より十二社権現の勧請と十二坊の建立をし修験道の中心道場として、その後、荒廃した堂宇を弘法大師が大師御筆紺紙金泥の経を納め再興したとある。
お遍路道
仁王門
本堂
ここでタクシーを呼び、42番 佛木寺と41番龍光寺を訪ねた。
42番 佛木寺 ・ ぶつもくじ
大同2年(807年)空海(弘法大師)がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている。
本堂と大師堂
41番 龍光寺
空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられてる。
稲荷神社
この赤い鳥居は稲荷神社のもので、そこから40段ほど上がった先に、稲荷神社の社殿があります。 社殿が龍光寺の本堂でしたが、神仏分離令により、旧本堂を稲荷神社とし、新たに龍光寺は本堂を建築することになった
本堂
2024-7-18
posted by 終活・克ヨット at 09:51| Comment(0)
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