アメリカに渡った金塊類
安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)によれば、1947年8月13日の国会で、当時の石橋湛山蔵相は、次のように述べている。
連合軍総司令部は、日本政府に千数百億円の物資を引渡しておる。
……
二、三千万くらいのものが内務省の手を経たようでありますが、千数百億円のものがどこへ行っておるのか、わからない。
石橋湛山は、東洋経済新報社の主幹、社長を務めたエコノミストで、戦後1946年の総選挙に自由党から出馬した。
選挙は落選だったが、第1次吉田茂内閣に大蔵大臣として入閣したのだった。
大蔵大臣として、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用などを軸とする「石橋財政」を推進したが、戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍の経費問題などで、GHQと対立した。
1947年の総選挙では中選挙区制における静岡2区(東部地域)から当選を果たしたが、GHQとの軋轢がもとで公職を追放される結果となった。
後に、鳩山一郎が、日ソ共同宣言によってソ連との国交回復を果たして引退すると、岸信介と共に、総裁選に出馬した。
熾烈な争いで、1回目の投票では岸が1位だったが、石井光次郎と2・3位連合を組んで、決選投票で逆転し、第55代内閣総理大臣に就任した。
しかし、風邪をこじらせた肺炎に罹患、「政治的良心に従う」として辞職した。
後任に、副総理格で入閣していた岸信介が就き、60年安保を迎えることになる(07年10月6日の項、10月7日の項、10月8日の項、10月9日の項、10月11日の項)。
上記でみるように、石橋湛山は、清廉で気骨があり、見識の高い人物だった。
その湛山が、大蔵大臣という職にある時に、「千数百億円のものがどこへ行っておるのか、わからない」と言っているのである。
現在価値にすれば、どれくらいの金額になるのだろうか。
その一部だけでも、「M資金」の原資となり得るだろう。もちろん、「M資金」の存在が確認されたことはないのであるが。
50年2月16日の第7回国会の予算委員会で世耕弘一が追及すると、当時の池田勇人蔵相は次のように答えて、説明を拒否している。
日本銀行は大体一億二千万円程度の金を持っているが、戦争中に南方諸国より持って来たものとは断言できない。東京湾の金塊については聞いていない。
なお、大蔵省の伊原理財局長は、次のように答弁し、それが以後の政府の公式見解となった。
(東京湾から引揚げられた銀塊について)世上いろいろ噂はあっても真相は終戦後、陸軍から臨時貴金属数量等報告令というのに基づきました。政府に銀塊約三十トンが東京湾にあるとの申告が出ております。この銀塊は司令部に接収された後、民間財産管理局で略奪物資であると認定されています。
「M資金」の「M」は、GHQ経済科学局のマーカット少将の名前に由来する、というのが定説である。
マーカットは、第一次世界大戦にも参戦した職業軍人で、マッカーサーの信任があつく、腹心として活躍した。
そのマーカットの片腕といわれたキャピー原田という二世がいた。
キャピー原田は、東条内閣の商工大臣として統制経済政策を推進した岸信介の才能を認め、日本の経済復興に必要な人物であるとして、早期釈放をマッカーサーに具申した。
その後押しをしたのがダレス国務長官で、彼はロックフェラー家と親密だった。
東京湾から引揚げられた金塊類は、極秘にアメリカに運ばれた。
アイゼンハワーによって、CIAの長官に、ジョン・フォスター・ダレス国務長官の実弟のアレン・ダレスが選任された。
CIAは、予算額や使途明細が公表されない組織であったが、国家予算を費消しにくい使途があったことは想像に難くない。
そのような使途に対して、東京湾から引揚げられた金塊類が使われたのではないか、という説がある。
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