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2012年10月15日 (月)

田原総一朗氏の戦争観と満州事変/満州「国」論(6)

田原総一朗といえば、当代の代表的ジャーナリストといっていいだろう。
最近はTVでも露出が少ないような気がするが、一時期は頻繁に登場していた。
Wikipediaによる紹介の一部を引用する。

1977年1月に東京12チャンネルを退社して、フリーとなり、ジャーナリストの道へ進む。東京12チャンネル時代の後輩には小倉智昭がいた。『文藝春秋』での田中角栄インタビュー(1974年に同誌に掲載された立花隆の『田中角栄・金脈と人脈』に対する反論)や『トゥナイト』の三浦インタビューなどで徐々に知名度を上げる。
政治、ビジネス、科学技術と幅広い執筆活動を続けるが、次第に政治関係に執筆活動のスタンスを移し、テレビでは1987年より「朝まで生テレビ!」、1989年4月より「サンデープロジェクト」(2010年3月終了)討論コーナーの司会・出演を務める。また、ラジオでは2007年10月から「田原総一朗 オフレコ!」(2011年3月以降は週1回放送から月1回放送の「田原総一朗 オフレコ!スペシャル」)のパーソナリティを務めている。「サンデープロジェクト」終了後は、2010年4月から始まったBS朝日の「激論!クロスファイア」に出演。青春出版社の月刊誌「BIG TOMORROW」で連載を持つ。また、1989年からテレビ朝日系の選挙特別番組「選挙ステーション」第2部(討論コーナー)で司会を務めている。

田原氏は執筆活動も旺盛であるが、力の入った作品として『日本の戦争―なぜ、戦いに踏み切ったか? 』小学館(0010)がある。
「力の入った」というは、著者自身が「55年来の大きな疑問」に5年に及ぶ作業により答を出した、という作品だからである。
55年というのは、1945年の終戦-田原氏は国民学校(今の小学校)5年だった-からこの書を上梓した2000年までの期間である。
田原氏が55年間抱き続けた疑問とは、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」である。

なぜ、明治の時代から西欧を懸命に追いかけてきて、その果ての結果として、失敗するに決まっており、世界から糾弾されることも想定される「侵略」に突っ走ったのか。
真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入する時点で、少なくとも指導者たちにとっては、日米の国力の差から判断して日本が勝つ可能性がないことは自明のことであったのではないか。
それは決して今の時点で振り返っての後知恵ということではなく、開戦の意思決定をした時点において、既に「日本が負ける」と考えることの方が妥当であったはずである。

日米戦争辞せずの決定は、1941(昭和16)年9月6日の御前会議で決まった。
時の首相は近衛文麿であり、近衛自身は非戦派であったが、東条英機らの強硬論を抑え切れなかった。
昭和天皇も日米開戦には反対であったが、立憲君主としての立場から、自身の意思を貫くよりも内閣もしくは御前会議の決定を尊重するというスタイルを通してきた。
それが独裁を避けるための明治維新以来の知恵であったのであろうが、肝心なところで裏目に出たということになる。

田原氏は、日本の近代史において、人々を統合してきたスローガンを跡づけることのよって、「なぜ、日本は負けることが分かっていた戦争を始めたのか?」を明らかにしようと試みる。
「富国強兵」「和魂洋才」「自由民権」「帝国主義」「昭和維新」「五族協和」「八紘一宇」。
結局、田原氏の辿り着いた結論は、開戦は軍部の独走ではなく、熱病に罹患したマスコミや世論および一部軍人に迎合した結果ということのようである。
たとえば、東条が1941年10月に首相になってから開戦までの50日あまりに、3000通以上の開戦を促す郵便が来た、という事実を紹介している。

当時の状況は、強引に戦争回避に動いたら、無秩序な内乱状態に陥ることが必至だった。
であれば、自分たちが主導権を持てる戦争の方がベターだ。
東条も昭和天皇も木戸幸一内大臣も、さらには統帥部もそう考えていた、というのが田原氏の結論である。

そして、やはり田原氏は、東条は何としてでも日米交渉をずるずると引き延ばすべきであった、とする。
情けない戦争は、こうして始まり、情けない結果となったのは必然的である。

しかし、熱病は何時、何を契機に発生したか?
そのカギは「維新」という言葉にあるようである。

佐々木二郎という軍人は、『一革新将校の半生と磯部浅一』という手記で、大正から昭和初年は軍の閉塞時代で、軍の発言権が強まったのは、「満州事変」によってだった、と書いている。
また北岡伸一東大教授は、軍の発言力に火が点いたのは「張作霖爆殺事件」だとする。

張作霖爆殺事件が1928(昭和3)年、満州事変の勃発が1931(昭和6)年で3年の開きがあるが、両事件は関東軍の佐官たちの謀略・暴走という点で共通性がある。
前者の首謀者が河本大作大佐、後者が石原莞爾たちである。
田原氏は、満州事変が石原らによるものであることを、疑ってはいない。

この両事件ともに、本来ならば、河本、石原らの関係者は軍紀違反の懲罰を受けるべきところであるが、処分らしいものはなかった。
代わりに前者では田中義一内閣が、後者では若槻礼次郎内閣が責任をとって崩壊している。
つまり、政治に対して軍が優勢であったということになる。

そして、佐々木二郎は、これを以て「維新」であるとする。
原敬、浜口雄幸の内閣時代は、政友会、民政党の二大政党時代で、軍部を押さえていた。
しかし、共に東京駅でテロに仆れる。
満州事変が起きたのは、浜口が狙撃された翌年である。

とすれば、「昭和維新」のスローガンが実体を持ち始めたのは、河本か石原か他の何某かは別として、満州における関東軍佐官の策謀によるところが大きいということになる。
政党が国民の信頼を失い、将校たちの唱える「昭和維新」への期待感が高まっていった。
なんとなく、現在の政治状況に通じるものがあるような気もする。

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