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2015年10月 2日 (金)

光治良と戦争展@芹沢光治良記念館/人物記念館(2)

沼津市我入道というところに芹沢光治良記念館がある。
松林の中の閑静な場所で、菊竹清訓氏の初期の作品である。
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菊竹清訓は、メタボリズム運動の旗手として、「か・かた・かたちの三段階論」を提唱して大きな影響を与えたが、2011年12月に亡くなった。
⇒2013年8月13日 (火):三段階論という方法②菊竹清訓の設計の論理/知的生産の方法(72)
⇒2012年1月 6日 (金):菊竹清訓氏と設計の論理/追悼(19)

光治良は、明治29(1896)年5月4日、静岡県駿東郡楊原村我入道一番地(現在の沼津市我入道)に生まれた。
小学校入学以前から孔子の『論語』を暗唱できるほどの頭の良さから神童といわれ、県立沼津中学校(現在の県立沼津東高等学校)時代に、文芸雑誌『白樺』を読み、フランス文化に憧れるようになった。
旧制第一高等学校をへて、東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部経済学科に入学、卒業後、農商務省(現在の農林水産省、経済産業省)に入省した。
29歳のときに結婚、貨幣論の研究のため、新妻を伴ってフランスのパリ大学に留学した。
フランス滞在3年間に、三木清、佐伯祐三、ジュール・ロマン、ケッセル、ルイ・ジューベ、マリー・ベル、デュラン、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー等、多くの学者、作家、俳優や画家といった文化人と広く交流し、帰国後、作家としてデビューした。
代表作に、結核罹患体験を基にした『巴里に死す』(昭和17年)、天理教教祖に関する『教祖様』(昭和34年)、自身の生い立ちにそって時代背景を描いた大河小説『人間の運命』(昭和37年~昭和43年)などがある。

現在、1階展示室で戦後70年連動企画展として、「光治良と戦争展(第1回)」をやっている。
光治良の戦時体験を基に書いた作品等を紹介し、併せて初出資料となる当時の日記等を展示している。
第1回は、主に太平洋戦争前から戦中までである。
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配付資料の中に『私の憲法観』という文章があった。
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次のような文章で始まっている。

憲法の條文が公に問題になる時は、國家に、不幸な暗雲がおそいかかる前兆のような気がしてならない

現在のことのように錯覚しそうだが、「世界」の昭和29年8月号に載ったものだ。
昭和29(1954)年は、以下のような出来事があった年である。
3月 第五福竜丸事件
6月 ソ連で史上初の原子力発電所が稼働
9月 洞爺丸事故
11月 「ゴジラ」第1作劇場公開

光治良の文章は、7月1日に発足した自衛隊が憲法で許されるのかどうか、という議論があったことを踏まえている。
自衛隊は、以下のような任務を行う実力組織である。

自衛隊法第3条第1項により「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たる」ものとされ、人命救助などの災害派遣や国連PKOへの派遣などの国際平和協力活動を副次的任務とする。
Wikipedia

憲法第9条第2項にいう「戦力」に該当するか否かが問題とされたが、政府見解は「戦力」にあたらない組織とされてきた。
この解釈が定着してきたわけであるが、集団的自衛権(つまり他衛)の行使ということになると、事情は異なるのではないだろうか。

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