増上寺の黒本尊は、特別な御利益があるという阿弥陀様 | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を公開中。

『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。
増上寺で、香川県にゆかりのある人物を訪れ、ゲームに登場させたことの事後承諾を得ようと思います。

 

 

 大門(浜松町)('23.9.25)

 


引き続き、増上寺。


大殿(本堂)の隣に建つ「安国殿」へ。
2011年(平成23年)に建て替えられた、比較的新しい建物です。
以前の建物は、戦後に仮本堂として使われていたものだったそうで、現在の大殿が竣工した1974年(昭和49年)、ここに移転して「安国殿」が造られました。

 

もともとは江戸時代初期の1617年(元和3年)に、徳川家康(安国院)をまつった霊廟が、安国殿と呼ばれていました。
明治時代の神仏分離で、安国殿は東照宮となって増上寺から独立。第二次世界大戦の空襲で社殿は焼失しましたが、戦後に再建。現在の芝東照宮です。
芝東照宮

 

一方、現在の安国殿では、徳川家康の念持仏だった「黒本尊」をまつっています。この黒本尊が、かなり特殊な仏様なのです。

 

「黒本尊」は、『往生要集』を著し、浄土宗に大きな影響を与えた、恵心僧都(えしんそうず)源信の作と伝えられています。
2尺6寸(約78センチ)の阿弥陀如来立像で、もともと金色だったのが、永年にわたり香煙に薫じられて黒くなったため、家康が「黒本尊」と呼んでいたそうです。

 

伝説では、清和源氏に守り本尊として伝わっており、源義朝が平治の乱で敗れるといったん平家の手に渡りましたが、もともと源氏のものだったことを知った平清盛が常盤御前に譲り、常盤御前が鞍馬にいた牛若丸(源義経)の守り本尊とし、義経が陸奥に下る途中で、三河の矢作の長者に託したとされています。

三河では明眼寺という寺を建立してこの像を本尊とし、目の病を治す仏様として信仰されていました。
後に三河の領主となった家康は、一向一揆の平定をこの仏様に祈願。成就したため家康は、住職に頼んで像を譲り受け、厨子に納めて常に身近に置き、よく念仏を唱えていたそうです。

 

「黒本尊」は家康に数々の御加護を与えたと伝えられています。
阿弥陀如来は西方の極楽浄土の教主であり、衆生を救うため四十八願を立て、特にその第十八願で衆生を極楽に往生させると誓ったことから、人々を極楽浄土に導く仏様とされています。
浄土宗では阿弥陀如来を称える「南無阿弥陀仏」の称名念仏を行なうことで、人々は救われて極楽浄土に行けると説いています。

 

しかし黒本尊が家康に与えたと伝わる御加護は、阿弥陀如来のイメージとはちょっと違う、かなり具体的な現世利益でした。
先ほど触れた一揆の平定もそうですし、そのほか数々の戦いに勝利したのも、黒本尊の御利益とされています。

あるとき、家康の寝室に刺客が侵入して命を狙おうとしましたが、たまたまそのとき家康が、仏間で黒本尊に念仏を唱えていたため、難を逃れたということもあったそうです。

それこそ『どうする家康』というタイトルの大河ドラマが作られるくらい、徳川家康は生涯で数多くのピンチに見舞われました。それらを潜り抜けて天下人となり、その後も徳川家の幕府が約260年も続いたのですから、家康の念持仏である黒本尊が“霊験あらたか”だと人々が感じるのも当然でしょう。

なお、黒本尊は基本的に秘仏ですが、1月15日、5月15日、9月15日の、年に3日だけ御開帳されます。

 

黒本尊の御利益が、「勝運」「厄除け」「諸願成就」といった現世利益であることから、浄土宗のお寺では珍しいんじゃないかと思いますが、ここ安国殿では各種祈願を受けつけています。
さらに、さまざまな種類のお守りもあります。葵の御紋が輝く、立派なお守りです。
例によって、勝運御守と、良縁成就御守をお受けしました。

(※浄土宗でも「南無阿弥陀仏」と唱えることで、来世のみならず、現世でも心が豊かになって、平和に暮らせると説いているので、阿弥陀如来の御利益は来世に限定されたものではないようです)

増上寺

 

徳川将軍家墓所が拝観できるようなので、せっかくだからお参りすることにしました。
安国殿の右側からさらに奥へ。西向聖観世音菩薩(鎌倉時代、北条時頼が今の東京タワーの場所に安置した観音様の石像で、安産・子育ての御利益があるらしい)と、小さなお地蔵様(千躰子育地蔵)と風車がずらーっと並ぶ道を通ります。

 


徳川将軍家墓所の門は、かつて6代将軍・家宣公の宝塔前にあった中門でした。
この門は開きませんが、横にある出入口から入ることができます(拝観料¥500)。
拝観記念に小さなクリアファイルを頂きました。

 

増上寺は、上野の寛永寺とともに徳川家の菩提寺であり、かつては歴代将軍やその正室、側室、子女の壮麗な霊廟が、現在の増上寺の左右にある東京プリンスホテルと、ザ・プリンス パークタワー東京の位置に並んでいたらしいです。
しかし1945年(昭和20年)、空襲に遭ってほとんどが焼失してしまいました。
戦後、学術調査が行なわれた後、御遺体は火葬され、現在の場所に改葬されました。

 

現在の徳川将軍家墓所には、8基の宝塔が並んでいます。
2代将軍・徳川秀忠公と、正室・崇源院(浅井三姉妹の江)の墓。(秀忠公の宝塔は焼失したため、現存するのは崇源院の宝塔です)
6代将軍・家宣公と正室・天英院。7代将軍・家継公。9代将軍・家重公。12代将軍・家慶公。
14代将軍・家茂公。家茂公正室・静寛院(和宮)。和宮様は皇女だからか、家茂公とは合祀されず、それぞれ独立した宝塔が隣り合っています。
もう1基の宝塔は家宣公側室・月光院のものですが、ここには月光院のほか、家宣公の実父・綱重公、5代綱吉公の生母・桂昌院、11代家斉公正室・広大院らが合祀されています。

 

歴史の本や時代劇などで知っている歴代将軍はじめ徳川家の方々が、眠っている場所に自分がいるということは、感慨深いものがあります。
さっき、浅野内匠頭や赤穂四十七士のお墓にもお参りしたばかりですが、歴史上の人物のお墓を訪れると、その人が実在の人物だったんだということを、あらためて実感します。
(そもそもこの旅自体、歴史上の人物のお墓を巡る旅なので、前にも一度か二度、同じことを書いていたかもしれませんが)

 

2代将軍・秀忠公の霊廟の模型「台徳院殿霊廟模型」が、大殿の地下の「増上寺宝物展示室」にあります。まだ霊廟が存在していた明治時代に、イギリスで開催された博覧会で展示するために作られました。
長らく英国王室が保有していたのですが、これは日本で一般公開した方がいいという英国からの申し出で、2015年(平成27年)より増上寺で展示されることになりました。

残念ながら、大殿の耐震補強工事のため、宝物展示室が休館中で、私は見られませんでしたが、工事は12月末で終了する予定なので、このブログがアップされてから間もなく、宝物展示室は再び開館となるでしょう。


増上寺
 

 

鉄道コム

 

 

「増上寺・圓光大師堂で法然上人にお願いとご報告」へ続く)

 


※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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