思い出のプロ野球選手、今回は井原慎一朗投手です。 

 

1970年代から80年代前半までヤクルト一筋15年間在籍し、昭和50年代を中心に先発でもリリーフでも活躍し、1978年のヤクルト初優勝&日本一にリリーフを主に10勝を挙げて大いに優勝に貢献した投手です。

 

【井原 慎一朗(いはら・しんいちろう)】

生年月日:1952(昭和27)年1月2日
入団:ヤクルト('69・ドラフト5位) 
経歴:丸亀商高-ヤクルト('70~'84)

通算成績:314試合 42勝45敗15S 852投球回 8完投 3完封 536奪三振 防御率4.02

位置:投手 投打:右右 現役生活:15年

規定投球回到達:3回('75、’78、'81)

表彰:月間MVP 1回(1978年6月)

オールスター出場:2回('78、'81)

 

 

 

個人的印象

ヤクルトの主力投手として活躍していた印象がありました。

当時のヤクルトには松岡弘という大エースがいましたが、これに安田猛会田照夫、梶間健一、そして若手の尾花高夫といった投手陣がいましたが、彼らと並ぶような先発ローテの一角を占めていた印象があります。自分が野球中継を見ていた時期から考えて、これはだいぶ記憶違いのようでした。

 

ヤクルト優勝時含めてリリーフエースの立場であったといいますが、その印象はあまりありません。当時の江夏豊投手のような絶対的守護神のいた球団はあまりなく、特にヤクルトは先発投手が合間に後ろに回ってセーブをあげる事も頻繁にあり、2ケタセーブをあげる投手がいなかったので抑え投手のいたイメージがないですね。

ただロングリリーフをしてセーブより勝ちも多く、また中継が試合開始からではなかったので、途中から投げていたのを見て「先発していた」と勘違いしたのかもしれません。

 

1984年に見た頃は序盤にはいましたが急に姿が見られなくなり、その年のオフにひっそりと引退していて、故障がキッカケの引退と後に知りました。

 

プロ入りまで

愛媛県の現・四国中央市(当時・川之江市)の出身ですが、高校は香川県の丸亀商業高校へ進み「甲子園を目指すため親元を離れた」と本人談がありました。

その丸亀商では、3年春の選抜大会にエースとして甲子園に初出場し1勝を挙げましたが、この時の相手が島根・大田高校で、エースは福間納投手でした。夏の選手権は残念ながら出場できませんでした。

1969(昭和44)年のドラフト会議で当時のヤクルトアトムズから5位指名を受け入団しています。

この時のドラフト会議でヤクルトは実に「14位」まで大量の指名をしていますが、多くの拒否を受けつつも後に戦力となる選手を多く獲得しています。

1位:八重樫幸雄、2位:西井哲夫、7位:大矢明彦、8位:内田順三

といった具合でした。

 

初期キャリア

1952(昭和27)年生まれですが早生まれの為、高卒新人として入団したルーキーイヤーは1970(昭和45)年でした。背番号は「26」と一軍クラスの番号を与えられ、これを引退まで15年間つける事となります。

高卒1年目から一軍登板機会を得て、5試合に登板し10㌄を投げ0勝1敗防御率4.50の記録が残っています。終盤に1試合だけ先発機会を得て敗戦投手になっています。

その後も毎年一軍には上がりますが、初期はあまり登板機会がなく3年目の1972(昭和47)年は17試合で1勝2敗防御率2.63で41㌄を投げるなど、プロ入り初勝利も挙げて台頭を感じさせる好成績を残しますがその後が続きませんでした。

球団名がヤクルト「スワローズ」になった4年目1973(昭和48)年は1試合で⅔イニングを投げただけで、5年目1974(昭和49)年は2勝0敗防御率2.81の記録こそ残りましたが5試合で15⅔イニングを投げただけでした。

高卒なのでまだ22歳と若かったですが、ここまでの5年間で36試合3勝2敗、68㌄程度の投球回でした。

 

主力として台頭

1975(昭和50)年、当時の荒川博監督に見いだされて先発陣の一角に起用され34試合に登板し、うち22試合に先発し7勝7敗防御率3.39として145⅔イニングを投げて初の規定投球回到達も果たしました。初完投・完封もこの年に記録し、完投は3回でしたが、完封はこのうち2回記録しています。

 

さぁこれから一本立ち!という1976(昭和51)年のシーズンでしたが、前年の成績に本人曰く「あぐらをかいて」しまい、シーズン途中で荒川監督が休養し広岡達朗監督が就任すると先発ローテーションからも外れ、リリーフに回るようになりました。

結局この年は22試合で2勝9敗防御率4.50で82㌄の投球に終わりました。この年1完封を挙げましたが当時24歳、早くもこれが最後の完封となりました。

この年オフには外部道場での特訓を受け「足が地面に吸いつく」感覚を指導されたといいますが、翌年にはまだ咀嚼しきれなかったようで、1977(昭和52)年は41試合に登板こそしますがほとんどリリーフで70⅔イニングを投げ0勝2敗1S防御率3.80の成績に終わり、1975年をピークに年々成績が下降していく状況でした。

 

ヤクルト日本一

1976年オフの特訓の成果が翌年成績には反映されませんでしたが、段々とこの成果が感じられるようになる中、広岡氏が監督になってからは猛練習が続き、特に1978(昭和53)年の開幕前の自主トレからはすさまじく「練習メニューを見るのも嫌だった」と語っています。

この自主トレのハードさは、後のユマキャンプの選考会でもあり、そこはパスしますがユマヘ行っても地獄のような練習が続き、ここではバント処理の膨大な反復練習をしたおかげで「絶対的な自信がついた」ともコメントしていました。

 

そんな中で開幕した1978年のシーズン、当時セ・リーグで優勝経験がなかったのはヤクルトだけでしたが、前年2位に躍進した事もあり、初優勝への気運は高まっていたといえます。

井原投手は先発ローテには起用されず「前年0勝だったので外された」と思っていたそうですがリリーフでは起用され、今では考えられませんが開幕第3戦は5回1失点のロングリリーフで勝利投手になり、幸先良いスタートを切りました。

そして6月には9試合に登板して4勝1Sを挙げる絶好調ぶりを見せ、自身唯一の表彰となる「月間MVP」を受賞しました。

そんな絶好調ぶりでしたが当時本人は「肩が痛くて上がらず最悪の状況で、投げていながら何度も"代えてくれ"と何度もアピールした」といいます。

当時の選手にはよくありましたが、明日雨だと思って飲んでいたら翌日快晴で…、と前日の酒が抜けないまま登板した事もあり、鈴木康二朗投手などとは酒席でよく一緒したといいます。広岡管理野球の体制下でこんな事があった、というのが逆にすごい逸話ですね。

 

翌7月には疲労困憊の中投げてやっとの勝利を収めた試合の後、広岡監督から「投手に値しない」的な発言をされ、登板機会をはく奪される憂き目に遭います。ただしこれは彼だけでなく絶対的エースの松岡投手も同様の制裁を受けたといいます。そしてそんな辛すぎる状況の中で初めて「オールスター出場」を果たしています。

8月は登板機会が少なく、先に制裁を受けた松岡投手が復帰し先発に抑えにフル回転していたといいます。9月には復調の手ごたえを感じ取り、10月にはヤクルトが遂に球団創設史上初のセ・リーグ優勝を成し遂げ、この試合では松岡投手が投げていましたが、井原投手もブルペンで待機していたといい、状況次第では胴上げ投手になる可能性もありました。これについては「エースとして活躍を続けた松岡さんが胴上げ投手で良かった」と述懐しています。

シーズン成績は58試合に登板し10勝4敗4S防御率3.38で133㌄を投げました。ほとんどがリリーフで先発はわずか2試合という状況で現役生活唯一の2ケタ10勝を挙げ、規定投球回数にも3年ぶりに到達し防御率5位にランクインした訳で、先発陣は3名(松岡、安田、鈴木康)が規定投球回到達していますがすべて4点前後と高く、井原投手がチーム内では防御率1位でした。

 

この当時のリリーフ投手の使われ方がよく分かる成績ですが、今でいう「回跨ぎ」は当たり前で、リリーフ投手の方が先発投手より長い回を投げたり、セーブより救援勝利の方が多い事もしばしばでした。この年でもヤクルトは井原投手以外にも安田猛投手や巨人から来た倉田誠投手もチーム最多の4Sを挙げていて、絶対的守護神がいない、そのような位置づけが当時のヤクルトにはなかったように思います。

 

そして阪急との日本シリーズは「疑惑のホームラン」による阪急・上田利治監督の1時間以上猛抗議があった因縁のシリーズとなりました。

ここではすべてリリーフで4試合に登板していますが、本人も絶好調だったといい、なかでも第4戦で3⅓イニングを投げ、翌日の第5戦でも3㌄を投げたのが圧巻でした。中継ぎ投手で2日連続3㌄以上投げるか?というものですが、第5戦では処理投手となり、ヤクルト日本一に大いに貢献しました。この時の事を広岡氏が「先発投手から梶間、井原につなぐのが勝ちパターン」的な事を語っていたといいます。

 

抑えとして

翌1979(昭和54)年、前年の勢いをそのままに、といきたいところでしたがチームは絶不調となり、広岡監督も途中解任となるという、日本一の翌年とは思えない事態となりました。

日本一に大いに貢献した赤鬼・マニエル選手が近鉄へ放出され、また広岡氏の容赦ない練習漬けなどで選手のフラストレーションが爆発したのでは、と井原氏が述懐しています。

この年は現在に近い「8、9回限定」の抑えに起用されたといいますが、35試合で6勝4敗4S防御率4.39で80㌄の投球でした。ほぼ1試合あたり2㌄となりますが、抑え投手としてスタンバイしていても、それまでに先発投手が序盤から崩れたら出番すらなく、という状況でセーブが上がらなかったともいわれます。

ただしこの年はエースの松岡投手がナント13Sも挙げており9勝11敗13Sと不思議な成績を残しています。松岡投手は通算で41Sも挙げてはいますが、2ケタセーブはこの年だけでした。

またこの年松岡投手、井原投手以外にセーブを記録した投手は全くいませんでした。

 

1980(昭和55)年は19試合で2勝3敗6S防御率4.65でわずか30⅔イニングを投げたのみでした。

セーブはこの年挙げた6Sがキャリアハイでした。

 

1981(昭和56)年は序盤に先発へ再転向し32試合で9勝9敗防御率4.58、166⅔㌄はキャリアハイで先発として久々に実績を残しました。この年3年ぶり2度目のオールスター出場を果たしこれが最後となりましたが、彼のキャリアは3年周期で実りあるものとなっている事を感じました。

1972年は初勝利と初の2ケタ試合登板で少し飛躍し、75年は先発に起用されて開花し、78年はリリーフでフル回転し日本一に貢献、81年は先発メインで9勝と、この75、78、81年と規定投球回到達は3回でしたが3年ごとに到達しています。

 

晩年、引退

その後は以前からの肩痛との苦闘が続き目立った成績が残せなくなり、30歳になった1982(昭和57)年は19試合で1勝3敗防御率4.20で30㌄あまり投げただけで段々と出番が減っていきます。

最後の勝利が1983(昭和58)年で13試合2勝1敗防御率4.39で26⅔㌄で、この2年間は先発で3試合ずつ登板していますが、いずれも5回持たず先発での勝利も完投も81年限りとなりました。

 

1984(昭和59)年は4月こそ一軍にいて4試合登板していますが、その後二軍落ちし8月に戻ってきて1試合投げたのみで、結局5試合で0勝0敗防御率10.57と跳ね上がり、7⅔㌄のみの登板をもってこの年限り32歳で引退しました。

 

優勝時の26歳には既に肩痛があり、30歳を過ぎたあたりから顕著になり満足のいく成績が残せなくなりましたが、78年に広岡監督の信頼を受け投げまくって勝ち取った日本一が最大の栄誉だったと思います。

 

 

引退後は球界から離れ長らくサラリーマン生活を送っていましたが、現在は野球振興会の理事長を務めていたり、またヤクルトOB会の会長も務めているという事です。引退後すぐ球界から離れた選手が球団OB会長を務めるのは稀有な例かと思います。

 

 

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