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  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』⑤

    【最終校】私の余命を心配しての編集の人たちが行程を早めてくれ、8月のお盆前に出版がきまりました。それは私への要求も早まることになり、内容も厳しいもので資料や引用した本に当たることが多く、書庫にいる時間が多くなりました。本探しはカミさんに頼みましたがこちらの体力が持たず、休みながらの作業です。こうして7月中旬に最終校のチェック、その後のメールによる疑問点のやり取りもすませ、なんとか出版に漕ぎ着けそうです。その様ななか、WFのルータが壊れ、ネットがつながらない状態になってしました。復旧まで数日。私の命より我が家の通信手段が尽きてしまったことは、何とも皮肉なこと。もう少し頑張ります。※PCに残っていた原稿です。『東国里山奥山の石神・石仏風土記』⑤

  • 里山の石神端書 山梨県富士川町平林

    里山の石神端書305石段(富士川町平林の氷室神社)里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)里山の石神端書307丸石道祖神(富士川町平林集落内)里山の石神端書308日蓮宗(富士川町平林集落内)里山の石神端書309木彫神仏像(富士川町平林の栃窪)里山の石神端書山梨県富士川町平林

  • 屋上菜園2024-08 闘病日誌31

    カミさんの屋上菜園は閉鎖中です。*食道がんも発症してから2年になります。抗がん剤も使う薬がなくなり、緩和ケア治療になりました。今は自宅療養中。週一の訪問診察で病院通いはなくなり、楽になりました。しかし毎日が痛みとの戦いです。いま4種類の痛み止めを食後・時間を決めて飲んでいますが、即効性はありません。そのなかで副作用がある薬(麻薬系)は、当初心配があって使用しなかったのですが使ってみると効果があり、今では頼りにしている薬になってしまいました。この様な感じで、痛みはどんどんエスカレートするのでしょう。それでも、薬により痛みがすこしでも和らいで、パソコンでブログの原稿が書け、発信できれば日々の励みになります。屋上菜園2024-08闘病日誌31

  • 里山の石神端書309木彫神仏像(山梨県富士川町平林)

    富士川町平林・栃窪の木彫神仏像稀なことですが、里山の寺社境内に古びた木祠が残っていることあります。そのほとんどは朽ち果てていますが、中にはしっかりした木祠もあり、神仏が納められていることがあるので祠内を確認します。ところが木祠の扉を開けるとき、奇妙な虫が飛び出すことがあります。私は子供のころからこの虫が苦手で、いまでも見るだけで飛びあがります。それは足の長い羽根のない茶色の虫で名前は「カマドウマ」。体長は2センチほどですが、子供のころ風呂場で出会い、長い足ジャンプでするので飛びつかれるような恐怖がありました。それから湿った暗い場所が棲家のカマドウマが苦手になってしまいました。栃窪の寺の隅の木祠でカマドウマに出合ってしまい、久々に飛びあがってしました。それでも木内には木彫の神仏が納められていたので、カマドウ...里山の石神端書309木彫神仏像(山梨県富士川町平林)

  • 里山の石神端書309日蓮宗(山梨県富士川町平林)

    富士川町平林・日蓮宗平林は富士山が見える棚田の集落。日蓮宗寺院の多いところで、かつての平林は8つの地区(組)があり、今も5つの地区に日蓮宗の寺があります。それは石造物をみてもあきらかで、髭題目の題目塔をはじめ、日蓮裕ならではの発見があったので紹介します。初めは寺紋(家紋)の「井桁に橘」です。日蓮宗すべてがこの紋ということではありませんが、聖人の家系の先祖が伊江家に繋がること。また聖人が生まれたとき泉が湧き出したことから、泉にちなんで井桁を。また聖人が好んだ橘を組み合わせて、「井桁に橘」ができたとの伝承があります。「七面山」も日蓮宗の境内に見られる御堂です。七面山は日蓮宗の総本山である身延山(標高1153メートル)の南西、標高1983メートルの南アルプスの一角にある高山です。この山の住んだのが七面の神。伝承...里山の石神端書309日蓮宗(山梨県富士川町平林)

  • 里山の石神端書307丸石道祖神(山梨県富士川町平林)

    富士川町平林・集落内の丸石道祖神平林は富士山が見える棚田の集落。集落内には丸石道祖神が集落の字ごとに祀られていました。上の写真は平林郵便局先の道祖神です。丸石道祖神は山梨県の中央部(国中)に集中的に見られる道祖神で、多くは丸くなった自然石や人工的に丸くした石。その起源については平安時代末期の『信貴山縁起絵巻第三巻』に描かれた、京都下京区の松原道祖神社に描かれた丸石を引いて、丸石信仰は古くからこの国にあったものとされています。同じように丸石は古くからあった信仰としているのが山梨の道祖神研究科の中沢厚氏で、石棒などと同じ縄文時代からあったとしています。丸石が多い山梨県の国中でも、北東部の『山梨県の道祖神』、生命復活のシンボルだったのではと推測しています。そして丸石には丸い石、丸いが偏平な石、単独の石、複数の石...里山の石神端書307丸石道祖神(山梨県富士川町平林)

  • 里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

    富士川町平林・氷室神社の五色の幡平林は富士山が見える棚田の広がる集落。集落の奥に氷室神社が建っています。神社の今年の祭日は4月21日。訪ねた20日は祭礼の準備で、すでに集落内には、五色の幡がはためいていました。幡の五色は黒(紫)・黄・赤・白・青で、青は木、赤は火、黄は土、白は金、黒は水を差し、仁・礼・信・儀・智の陰陽五行の五行を表す色。これを仏教では黒(釈迦の袈裟)、黄(身体)、赤(血)、白(歯)、青(髪)とする解釈もあります。いずれにしても、陰陽五行の根本となる思想からでたものです。富士山を背景にはためく五色の幡は平和そのものでした。祭りの準備は集落の人たち総出の仕事。氷室神社の名物である石段入口の鳥居では注連縄の準備、境内では提灯の飾りつけなどが行われていました。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書306五色の幡(山梨県富士川町平林)

  • 里山の石神端書305石段(山梨県富士川町平林)

    富士川町平林・氷室神社の石段平林は大きな富士山と美しい棚田の広が山間の集落。集落の奥に鷹尾山氷室神社が建っています。氷室神社に登る石段は519段。杉林のなかに広い石段が延々と続きます。このような立派な石段があるのは、この神社が古くは真言宗の鷹尾寺で、鷹尾山権現の別当寺で武田・徳川期に保護されてきたためでした。本尊は文殊菩薩・不動明王・降三世明王。これが氷室神社になったのは明治の初めの神仏分離。いま境内に仏教の形跡は薄く、境内奥の卵塔が見られるぐらいです。本尊の文殊・不動・降三世明は集落内の平林公民館脇の文珠堂に移されました。木彫の素朴な仏たちが鎮座しています。次にその立派な石段を写真で案内します。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書305石段(山梨県富士川町平林)

  • 里山の石神端書 山梨県上野原市秋山

    里山の石神端書298心印塔(上野原市秋山桜井・真福寺)里山の石神端書299石垣(上野原市秋山桜井・諏訪神社)里山の石神端書300道標(上野原市秋山古福志・天神社)里山の石神端書301三十番神(上野原市秋山小和田・山ノ神宮)里山の石神端書302馬頭観音(上野原市秋山)里山の石神端書303地蔵菩薩(上野原市秋山寺下・吉祥寺)里山の石神端書304雛鶴媛(上野原市秋山無生野・雛鶴神社)里山の石神端書山梨県上野原市秋山

  • 里山の石神端書304雛鶴媛(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山無生野・雛鶴神社の雛鶴媛鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。村の西外れは無生野集落に雛鶴神社が建つ。祭神は大塔宮護良親王・雛鶴媛・葛城綴連王の三柱。大塔宮護良親王(1308~1335)は後醍醐天皇の皇子。南北時代に足利尊氏により鎌倉に幽閉殺害されました。雛鶴媛は護良親王の侍姫。侍女とともに護良親王の首をもって鎌倉を逃れたが秋山の無生野で産気つき、不運にも母子ともに亡くなられこの地に埋葬、首は都留方面に運ばれたと伝わっています。葛城綴連王については諸説あって、一つは雛鶴媛が生んだ護良親王の王子、これとは別の護良親王の王子で、たまたまこの地に逃れてきて親王と雛鶴の経緯を知り、その不思議な縁によりここに住んだそうです。この三人を弔うために始まったのが無生の大念仏で、今に続いています。再...里山の石神端書304雛鶴媛(山梨県上野原市秋山)

  • 里山の石神端書303 地蔵菩薩(山梨県上野原市秋山)

    山梨県上野原市秋山寺下・吉祥寺の地蔵菩薩鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。集落ごとに寺社がありますが、なかでも寺下の吉祥寺は真言宗の古刹で、山間部にしては大きな構えのお寺です。女将さんにお茶の接待を受けながら石仏の話をしていると、本堂に中世の地蔵石仏があるというので拝見させていただきました。地蔵は須弥壇裏に隠れるように置かれていました。大事に扱われているのは、この地蔵が中世に造られた貴重な石仏だからで、秋山の石仏を紹介した『ふれあい村の晨光』(注1)では南北朝時代のものと案内されていました。地蔵には年号があるはずと寺の女将さんに聞いたので、懐中電灯を借りて探してみましたが、それはありませんでした。この貴重な地蔵菩薩、女将さんからいただいた坂本美夫氏の「山梨県の中世石仏」(注2)にまとめられ...里山の石神端書303地蔵菩薩(山梨県上野原市秋山)

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』④

    【仮製本】(写真は仮製本された『東国里山奥山の石神・石仏風土記』。出版は8月の予定)6月末、待望の仮製本された本を編集者が持参してくれました。博物館の図録のような本にしてほしいとうこちらの希望どおり、A4版のずっしりとした写真集といった感じの本になりました。同時に多くの確認事項の一覧表で、これが最後の校正になります。この一覧は私の体力を考慮していただいた○×式の返答しやすい内容。しかしもう体力は限界で確認作業は一向に進みません。これが遅れれば出版も遅れるので、少しオーバーな表現ですが命を削っての作業になっています。とにかく寿命と出版のどちらが早いか競争になってきました。それから再提出の写真は、すでに出してある写真を修整していただくとういことで、勘弁してもらいました。『東国里山奥山の石神・石仏風土記』④

  • 山小屋日記43終了

    【終了】30近く前に建てた手作りの山小屋からは今、眼下に高速道路、その奥に阿武隈の山々、さらに奥には那須の山脈が見えるのどかな風景が広がっています。部屋の壁には、20から30代に使用した登攀道具やスキーを飾って、過ぎし日の思いに入れるようにしました。私の趣味は焚火。仕事の合間にこの風景と壁を見ながら、囲炉裏の薪をかき回してのんびり過ごした日もありました。しかし定年しても雑用で忙しすぎ、山小屋は思ったほど利用していません。ところが、これから山小屋をもっと活用しなければと思った矢先のがんの告知でした。告知から約2年、いまでは歩くこともママなりません。さらに山小屋の環境を見ると、山道は雑草で覆いつくされ、小屋前の牛の牧場だった草原にはソーラーパネルが並び、小屋脇の清水も枯れ、パラグライダー場はだいぶ昔に消滅して...山小屋日記43終了

  • 里山の石神端書302 馬頭観音(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山・秋山の馬頭観音鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。石仏は秋山18の集落を中心に造立されてきました。その中で多いのが馬頭観音です。その数、秋山村の信仰をまとめた『ふれあい村の晨光』(注)には48基とあります。ちなみに庚申塔が7基、地蔵菩薩が23基ですから、馬頭観音の多さが際立っています。同書の馬頭観音の項には「農村における農用としての馬が、各家に家族の一員とも考えられるほど重要視されて生活の一方を担ってたいたために馬の不慮の死や、病死に供養塔が建立されるようになった」とあります。馬頭観音のほとんどは文字塔で、像容のある馬頭はわずか。石仏の造立そのものが少なかったという印象です。これは集落内に寺社が多かったこと、寺としては質素を旨とする臨済宗が多かったことなどに関係があるのかもしれ...里山の石神端書302馬頭観音(山梨県上野原市秋山)

  • 屋上菜園2024-07闘病日誌30

    カミさんの屋上菜園は休園中です。*6月下旬、アメリカ留学中の高3の孫が帰ってきました。闘病中の私を支えてくれた一つが孫の帰国。11か月のアメリカ生活から帰った孫の顔を見るのが楽しみでした。今年初め担当医に私の寿命は6月まで持ちますかと尋ねたら、何ともいえませんとの返事でしたから、嬉しさはひとしおです。それで緩和ケアに移った食道がんですが、一般的に緩和ケアに移るとがんは元気づき、体力は一気に衰えて終焉をむかえるそうです。それを裏付けるように急に手足は細り、食欲は無く、頭もぼんやりし、背中や腹に痛みも出てきました。ですから、体のあちこちから出る痛みは我慢するのでなく痛み止めを飲むようにして、少しでも一日を快適にすごせるように心がけています。痛み止めは、食後に飲む薬、痛いときに飲む薬、もっと痛いときに飲む麻薬系...屋上菜園2024-07闘病日誌30

  • 里山の石神端書231 三十番神(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山小和田・山ノ神宮の三十番神鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。小和田の法泉寺入口には大きな「萬霊塔」が立っていました。法泉寺は臨済宗建長寺派の寺でただいま無住。寺の手前に建つ山ノ神宮の境内に、「奉納三十番神十羅刹女」銘の石燈籠の竿石が倒れていました。「三十番神」は法華経守護のため、30日間のそれぞれの日に当てられた日本の神々。比叡山の神が複数含まれているこうとから、最澄が比叡山に祀ったのが始まりとの説があり、中世の日蓮宗が法華経の守護として取り入れて普及した。一方「羅刹女(らせつにょ)」の羅刹は人を食うという鬼神の梵語。羅刹女は人を食う鬼女で、鬼子母神(きしもじん)もその一人です。これが十人集まったのが十羅刹女。その役目は法華経の守護で、ここに鬼子母神は含まれていません。鬼子母神...里山の石神端書231三十番神(山梨県上野原市秋山)

  • 里山の石神端書230 道標(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山古福志・天神社の道標鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。古福志集落に西外れにある古峰神社への道の峠に建つ天神社で道標を見ました。この秋山から都留一帯は天神様を祀る峠が多い地域です。古福志の天神社が建つのも峠状のところで、かつては古福志集落からこの峠を越えて小和田集落へ出たのではないでしょうか。その峠に置かれたのがこの道標。そのようなことを彷彿させる天神社と道標です。古福志の天神社社殿内に無造作に置かれた道標には「みきやむら/ひたりやま/道」銘。「やむら」は秋山の西の雛鶴峠先にある、織物で知られた城下町で現在の都留市。郡内織り、甲州織りとも呼ばれていました。郡内は山梨の甲府を中心とした国中に対し、山梨東部の都留・大月一帯を指す名称です。織物の原糸は絹で、かつての郡内では養蚕も盛んで...里山の石神端書230道標(山梨県上野原市秋山)

  • 里山の石神端書299 石垣(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山桜井・諏訪神社の石垣鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。桜井集落の諏訪神社境内の石垣に、年号や寄進者銘のある石が使われているのを見ました。この石は石造物の礎石か、仏菩薩の台座だったものか、元はどの様な石造物だったかはわかりません。それにしても年号や寄進者銘を隠そうともしないで石垣に転用したのは、何かの理輔があってのことなのでしょう。戦国期には城の構築時に、不足の石として信仰対象の仏菩薩や墓石などの石造物が転用されたという話はよく聞きます。大久保修氏は『日本の石仏』167(注)で、城の石垣に転用された石造物を報告しています。そのなかで、転用された時期は戦国期が多く、その背景として、急な築城や領主の移動や滅亡によって見捨てられた墓地が多いことを指摘しています。転用された石造物として五...里山の石神端書299石垣(山梨県上野原市秋山)

  • 里山の石神端書298 心印塔(山梨県上野原市秋山)

    上野原市秋山桜井・真福寺の心印塔鎌倉時代に鎌倉街道の裏街道が通っていたという秋山。その道の高台に建つ真福寺は臨済宗建長寺派の寺。その入口石段に「心印塔」銘の石塔が立っていまいした。「中峯国師十九世孫/當山八世大柮碩偈百拝/時宝暦八(1758)戊寅孟冬日」銘もあるこの石塔の「心印」は、仏心印の略で仏の心そのものを表す言葉。禅宗では仏の悟りを印にたとえた語と仏書にあります。どのような契機でこの塔を造立したかはわかりませんが、想像するに高僧から悟りの極意を授受されたときに立てたのではないでしょうか。石段の左には「本室浄源上座」銘の墓碑。戒名の上座(じょうざ)は、宗派や地方によりいろいろな解釈があるようです。一般的には、仏教において徳を積んだ高層につける戒名のようです。その先に地蔵菩薩が並んでいました。(地図は国...里山の石神端書298心印塔(山梨県上野原市秋山)

  • 里山の石神端書 福島県いわき市四倉町の仁井田川沿

    里山の石神端書291板碑(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書292亀趺(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書293重文・文殊菩薩(いわき市四倉町薬王の薬王寺)里山の石神端書294種字・胎蔵界大日(いわき市四倉町宮下の柳生院)里山の石神端書295庚申塔(いわき市四倉町山田の稲荷神社)里山の石神端書296薬師板碑(いわき市四倉町小湊の円満寺)里山の石神端書297伽藍場(いわき市四倉町小湊の伽藍場)里山の石神端書福島県いわき市四倉町の仁井田川沿

  • 屋上菜園2024-06闘病日誌29

    久々に屋上に上がってみたら、タマネギに花が咲いていました。これでは半年かけて成長したタマネギの栄養がすいとられてしまうのですぐに摘みましたが、菜園をまかせたカミさんはそういういうことに気付かなかったようです。*食道がんステージ4の抗がん剤治療は4月で終了しました。終わってみて、今回の抗がん剤治療は何だったのかと考えるに、わかってはいましたが完治しない延命治療、緩和治療であったことに改めて気づきました。そして抗がん剤治療によって2年近く命がのびたのは間違いないと思っています。反面抗がん剤の副作用はひどく、肺炎・腎臓障害・糖尿病なども併発し、脱毛・口内炎・鼻血・手足のしびれ・背中の筋肉痛・かゆみ・便秘などに悩まされました。このような状況でも、月1回は日帰りや一泊で里山山麓の石仏調べにも出かけ、ブログにアップ。...屋上菜園2024-06闘病日誌29

  • 里山の石神端書297 伽藍場(福島県いわき市四倉)

    いわき市四倉小湊のがらんば(伽藍場)いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。四倉小湊の川岸建つ御堂が〝がらんば〟。がらんばはこの御堂を管理する老女に教えていただいた名称。老女が言うがらんばを伽藍場の字をあてての話ですが、伽藍場は僧が住んだところのです。東北地方の南部では火葬場や墓地を〝らんば〟と呼ぶところがありました。私の田舎の福島県田村市でもらんばと呼んでいました。老女の話で、昔がらんばは馬の死体を埋めた場所で林になっていたそうです。そこを老女の叔母が整備してお堂を建て、散らばっていた馬頭観音もまとめたそうです。そのほとんどは馬頭の文字塔で、中には大正の年号があり多くは近代になってからの造立と思われます。お堂の本尊は平成になって盗難にあい、現在は石造地蔵菩薩が鎮座。これを老女はがらんば地蔵と呼...里山の石神端書297伽藍場(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書296 薬師板碑(福島県いわき市四倉)

    いわき市四倉小湊・円満寺の薬師板碑いわき市の北西部、仁井田川沿いの円満寺を訪ねました。その入口のお堂に薬師板碑が本尊として祀られていました。いわきは薬師を本尊とする寺が多く、とくに赤井・波立・八茎の三薬師が知られています。いわきと薬師の歴史は古く、天平六年(734)この地に疫病が流行した折、大和の僧源観が大和医王寺の薬師を赤井嶽岳に安置したのが始まりで、大同元年(806)年に大和の僧徳一がこの地に薬師を本尊とする寺院を建立して薬師信仰がひろまったとされています(注)。それで円満寺の薬師板碑ですが、寺の入り口に建つ小さな御堂に祀られています。祭壇に本尊として祀られているのは薬師の板碑。この土地に多い自然石の頭に二条線を入れた板碑で、中央に薬師に種字バイを入れ、その下に薬師や日光月光銘があります。お堂がいつの...里山の石神端書296薬師板碑(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書295 庚申塔(福島県いわき市四倉)

    いわき市四倉山田の稲荷神社の庚申塔いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ね、稲荷神社の境内に「庚申」と刻された二基の庚申塔に出合ました。稲荷神社は山の中で、参道入口に「鎮守稲荷神社」銘の石碑が立ち、山道をしばらく辿った先に稲荷神社が建っていました。境内の素朴な庚申塔は二基とも「万延元年(1860)」銘。いわき地方の庚申塔はほとんど見ていませんので傾向はわかりませんが、青面金剛は少なく文字塔が多い印象でした。いわき市の北隣り双葉郡では庚申塔123基のうち青面金剛などの像様のあるものは9基と佐藤俊一氏の『村の野仏たち』(注1)に報告されています。このなかで青面金剛のある庚申塔で古いのは宝暦十三年(1763)、文字塔では元禄四年(1651)が最古ですから、庚申塔の造立は関東地方より100年遅い時期になります。...里山の石神端書295庚申塔(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書294 種字・胎蔵界大日(福島県いわき市四倉)

    福島県いわき市四倉宮下の柳生院いわき市の北西部、仁井田川沿いの柳生院寺社を訪ねました。柳生院は真言宗で本尊は大日如来。その入口に石段脇に種字の胎蔵界大日如来石塔がありました。石塔は湯殿山供養塔です。この種字大日は東北地方ではよく見られる自然石の石塔で、上部に胎蔵界大日如来、その下に「湯殿山」を刻した豪快なものです。湯殿山は出羽三山の奥の院で、ぉ湯が湧き出す岩を御神体大日如来としています。「文化四年(1804)」造立。種字は密教で仏菩・菩薩などを表す梵字。梵字は梵語(サンスクリット)の字体で、インドで発達した文字とされています。また密教では真理を表す呪文としての梵語の真言があります。種字や梵語の元になるのが悉曇(母音と子音の組み合わせ)。児玉義隆氏は「現在、梵字悉曇の文字が活用されているのは、日本のみといっ...里山の石神端書294種字・胎蔵界大日(福島県いわき市四倉)

  • やないみつこのシャンソンライブ

    東京板橋の歌姫・やないみつこ6月9日(日)やないみつこのシャンソンライブ

  • 昭和の石仏写真館・終了

    伊藤介二・昭和の石仏写真館終了このブログは、日本石仏協会の元副会長・伊藤介二氏からお預かりした、ご本人が撮影した石仏写真アルバム約100冊から、抜粋して紹介してきたものです。これまで173回、約三分の二余り紹介してきました。しかし私の命も風前の灯となりました今、最後まで紹介できなのは残念でありますが、このあたりで終わりとさせていただきます。長い間ご声援いただいた皆様に、こころより御礼申し上げます。昭和の石仏写真館・終了

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』③

    【入院】(写真は案内写真の一コマです。出版は夏頃の予定)再校の途中、病院の血液検査の結果が悪すぎて、緊急入院することになってしまいました。幸いなことにパソコンと再校印刷物は持ってきていたので、早々に病室で再校作業に入りました。しかし体力・気力もなくなりはかどりません。昨年の入院時は一日中原稿作りのためベッドに横たわることはなかったのですが、今回はダメです。それに再校に必要な資料は家にあるので作業は進みません。それでも家ですませていた再校済みは、病院のコンビニでレターパックを買って編集者に返送しました。それにしても編集者の眼はするどいもので、初校を反映した再校にはことこまかな指摘が山ほどあって、時間のほとんどがその確認に費やされました。5月末、やっと退院しました。これからの仕事は再校を済ませ、不鮮明な写真の...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』③

  • 屋上菜園2024-06闘病日記28

    入院している間に、タマネギとニンニクはカミさんが掘り出しと思っていましたが、そのままでした。いつ掘るのか、その後の夏野菜は何を植えるのか。菜園はカミさんにバトンタッチしたのでおまかせです。*高血糖、高温、高血圧・白血球の低下などで、5月の入院は15日にも及びました。その間、血糖値に対するインスリンの注射、さらに雑菌の感染などもわかって、胸に仕込んだ抗がん剤注入のポート摘出手術、抗生物質の投与とすっかりベッドの人になってしまいました。それから残念なことに、退院してもインスリンを打ちながらの生活になったこと。さらにMRI検査の結果がんが背骨にも転移している可能性もあることもわかり、神経がやられるのはこまるので、これは放射線治療で対応することにしました。使う抗がん剤もなくなって余命が限られてきた今、新たな治療の...屋上菜園2024-06闘病日記28

  • 里山の石神端書293 重文・文殊菩薩(福島県いわき市四倉)

    福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の重要文化財文殊菩薩いわき市の北西部、仁井田川沿いの薬王寺を訪ねました。薬王寺の板碑や亀趺はすでに紹介しましたので、今回は木彫の文殊菩薩です。参道石段脇に「国宝文殊尊/昭和三十一年/参道構築記念」」銘の石碑がありました。この寺にある文殊菩薩は重要文化財ですが、かつては国宝だったのでしょうか。文殊菩薩は本堂裏の収蔵庫にあり、運慶作と伝わる国の重要文化財です。拝観を申し出ると、住職が開錠し案内していただきました。堂内や仏像に写真もOK、ネットへのアップもOK。住職がいうには皆さんに宣伝してもらった方がいいとのこと。堂内には他にも釈迦涅槃図や絹本色弥勒菩薩などもあります。ぜひ訪ねてみてください。(地図は国土地理院ホームページより里山の石神端書293重文・文殊菩薩(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書292 亀趺(福島県いわき市四倉)

    福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の亀趺(きふ)いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺の境内に亀趺(きふ)がありました。亀趺は亀の形をした石碑の台座。石碑を造立するにあたり〝鶴は千年亀は万年〟のことわざにあるように、長寿の亀にあやかって石碑が末永く立ち続けることを願いました。亀趺は古くから中国で造立されていたもので、この国では江戸時代に大名など大型の墓石の台座としたのが始まりとされています。薬王寺の亀趺は笠塔を支えています。笠塔正面には「重罪一時/消滅生免/災殃死生」の宝筐印陀羅尼経が刻されていますから、これは宝筐印塔です。亀の顔はしっかり造られていますが、甲羅の部分は別の台座を重ねてあって端折られたもので亀趺としては見劣りがします。その顔には、耳と牙があります。実際の亀に耳は...里山の石神端書292亀趺(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書291 板碑(福島県いわき市四倉)

    福島県いわき市四倉町薬王・薬王寺の板碑いわき市の北西部、仁井田川沿いの寺社を訪ねました。最初に訪ねた薬王寺は、大同年間(806~10)に徳一(とくいつ)によって創建されたというこの地方の名刹。徳一は法相宗の僧で、常陸から磐城そして会津に寺院を建立し仏教文化を広めたことで知られています。薬王寺には板碑が多く集められていました。参道に並ぶ板碑は関東に見られる緑泥石の薄いものではなく、自然石を利用したこの地方独特の形。寺の案内によると、板碑は参道をはじめ石段や境内に45基あるそうです。どれも頭に二条線、その下に大きな種字を刻した板碑で豪快です。いわき市の案内によると、この形の板碑はいわき市でも薬王寺を中心とした地域にだけに造立されたもので、年紀があるものは弘安八年(1285)から永和四年(1378)年の百年間だ...里山の石神端書291板碑(福島県いわき市四倉)

  • 里山の石神端書 茨城県行方市雁通川流域

    里山の石神端書284閻魔王、地蔵(行方市石橋)里山の石神端書285月待塔(行方市石橋)里山の石神端書286鳩(行方市根古屋)里山の石神端書287石祠型墓(行方市根古屋)里山の石神端書288日本武尊(行方市岡)里山の石神端書289道祖神(行方市雁通川)里山の石神端書290生祠(行方市荒宿)里山の石神端書茨城県行方市雁通川流域

  • 里山の石神端書290 生祠(茨城県行方市雁通川)

    行方市荒宿・嬪野神社の生祠行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出す雁通川周辺を訪ねました。嬪(よめ)野神社は山の上。神社を囲むようにいくつかの石祠がありました。そのなかで石祠の扉や柱に「殿様武運長久」銘が入るものが三基。もう一基は柱が欠けているが同じ銘があったとすると、「殿様武運長久」銘の石祠四基が神社を囲んでいることになります。石祠の形はいろいろで、「正徳元年(1711)」「享保十一年(1726)」銘もありますから、四基は個々に造立されたようです。ところで殿様とは誰のことでしょうか。江戸時代に行方を治めたのは麻生藩。藩主新庄氏は外様大名ながら、幕末まで代々麻生藩主を務めた一万石の家柄でした。推測ですが、嬪野神社の石祠にある殿様はこの新庄氏を指しているのではないでし...里山の石神端書290生祠(茨城県行方市雁通川)

  • 里山の石神端書289 道祖神(茨城県行方市雁通川)

    行方市雁通川一帯の道祖神行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。この地域でときどき目にするのが駒型の道祖神。石塔正面に「道祖神」銘があるだけの簡素なもので、高さは40センチ前後。石橋で会った老人は「どうろくじん」と呼んでいまいた。見た道祖神は5カ所。そのうち3カ所は神社境内やその参道で、路傍は1カ所だけでした。造立は刻された紀年銘から明治以降のようです。道祖神の役目の一つとして外からの疫病などを塞ぐことですから、集落外れの路傍に置かれるのが普通です。したがって神社に置かれているのは路傍から移動した道祖神にもみえてきます。その点は確認できませんでした。次にその道祖神を写真で紹介しておきます。(地図は国土地理院ホームページより)里山の石神端書289道祖神(茨城県行方市雁通川)

  • 屋上菜園2024-05闘病日記27

    庭木で大きくなった木を伐りました。いずれカミさんが剪定をするので、まだ余力があるうちに丈のある大きな木を切ることにし、家庭用のチェンソーをネット購入準備しました。しかし使ってみると、チェンを反対に取り付けたり、チェンのゆるみがでたりで苦労したものの、目的は達成しました。剪定は業者にまかせれば済む話ですが、年金生活者であり猫の額ほどの庭で、自分で思うように手入れをしてきた庭です。皆同じ高さにしてメリハリがなく、寂しいかぎりではありますが、これでカミさんに引き継げます。*4月末抗がん剤治療前に行う血液検査の結果、血糖値248の数値がでました。これまではいつも130ぐらいでしたから担当医師に指摘され、いろいろ尋ねられました。思い当たるのは、ここ数日体重減少を回復させるため、3食ご飯を食べるようにしたこと、胃をス...屋上菜園2024-05闘病日記27

  • 里山の石神端書288 日本武尊(茨城県行方市岡)

    行方市岡の福寿寺行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい街。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。行方を古いといったのは、古くそれも日本神話に通じる伝承が各地に残る街という意味で、ここに案内する行方市岡の寿福寺にある日本武尊もその一つです。その伝承は奈良時代に編纂された『常陸の国風土記』に基づくもので、日本武尊が常陸の国まで来ていたことに由来するものです。それによると日本武尊が相鹿の丘前に留まられたとき、大和から大橘比賣命が訪ねてきてお会いになったと記されています。この大橘比賣命、『日本書紀』では日本武尊とともに相模から上総に渡るとき、荒れ波を静めるために海に身を投じで亡くなっています。それは別として、二人の銘刻した石碑が雷神社に立っていました。石碑には「日本武尊/大橘比賣命/史蹟相...里山の石神端書288日本武尊(茨城県行方市岡)

  • 八千代新川千本桜 24-05

    ふくしま浜街道・桜プロジェクト3月下旬に「ふくしま浜街道・桜プロジェクト実行委員会」より、オーナー基金制度終了の知らせがきました。このプロジェクトは東日本大震災の翌年、被災から桜の成長と共に復興してゆく浜通りを子どもたちに残し、花咲く桜並木とともに迎えたい、この震災を忘れないための浜通りのシンボルにしたいという想いから立ち上げたものでした。目標は2万本で、国道6号線の樹木がほぼ完了したことにより、今年4月30日で解散するとのこと。目標達成お祝い申し上げます。そしてお疲れ様でした。私がこのプロジェクトに参加したきっかけは、1歳の孫の死でした。何もしてやれなかった孫のために何か残してあげたいというときにこのプロジェクトに出会ったのでした。申し込むとオーナー会員証が届き、後日桜の番号と植えた住所が届きました。数...八千代新川千本桜24-05

  • 里山の石神端書287 石祠型墓(茨城県行方市根古屋)

    行方市根小屋・龍翔寺の石祠型墓石行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。龍翔寺は真言宗の寺で、中世に寺の上にあった山城の城主・相賀氏の菩提寺として創建されたと、寺の案内にありました。寺の墓地の無縁墓の一角にあるのが石祠型墓石。行方市でこの墓石に出会ったのは驚きでした。石祠型墓石は私がそう呼んでいるもので、石殿・石室などとも呼ばれています。形は屋根と室部からなり、室部に五輪や石像を修めるように造られた墓石です。これが造立されたのは群馬・長野・山梨が中心で、埼玉・栃木・新潟・山形・神奈川・静岡・愛知の一部でも見ています。造立された時期は戦国期から江戸時代初期。室部に納められた石像は古いものでは群馬に見られる御堂とした大型のものに薬師や観音、後に墓...里山の石神端書287石祠型墓(茨城県行方市根古屋)

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』②

    (写真は仮の裏カバー表紙です。出版は夏頃の予定)【初校・再校】東国の山で見た石神石仏の本を製作中です。2月に北海道・東北の初稿が出ると、校正と写真の照合で忙しくなりました。しかし集中力が続かず、作業はなかなか進みません。3月には関東と中部の初稿も出て、本の概要が見えてきました。こうなると一日も早い出版につなげるため、体調と相談しながら校正をすすめ、3月中旬に終わらせました。この間山渓の編集担当者とのやりとりはメールで、どうしても対面での打ち合わせが必要なときは私の体調を気遣って、自宅まできていただくこともありました。ここで困ったのが写真の再提出。カラー本は写真の鮮明さが必修で、山渓の出版は写真の美しさが特徴ですから、素人写真の私の手元にはそのような写真はありません。そうこうしているうちに4月に再校が出て、...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』②

  • 屋上菜園2024-05闘病日記26

    タマネギ、ニンニクが成長し、ジャガイモの芽が出て成長中、収穫を終えキヌサヤの後には手無しインゲンを植える準備で屋上菜園はにぎやかです。仕事をまかせたカミさんも屋上に行く回数が増えましたから、ヤル気になったようです。*「現在推奨できる薬剤はありません」。これは食道がんに有効な抗がん剤がなくなってきて、何か薬がないかという段階の3月に行った「がん遺伝子パネル検査」の結果でした。パネル検査は、がん細胞に起きている遺伝子の変化を調べ今後の治療に役立つことがないか調べるための検査です。しかし検査により有効な薬が見つかる確率は数パーセント。それでも検査を受けたのは、パネル検査のデータががんゲノム情報管理センターに保存され、今後のがん治療の参考になるということなので、お役に立てればという気持ちからでした。4月中旬のCT...屋上菜園2024-05闘病日記26

  • 里山の石神端書286 鳩(茨城県行方市根古屋)

    行方市根小屋・八幡神社の鳩行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。八幡神社は雁通川が北浦の河口にある根古屋集落の北側、中世に相賀城という山城に建てられた神社。現地の案内には「寛永十六年(1639)龍翔寺九世住職の祐守法印の時に再建したと伝えられている」とありました。龍翔寺は山城の麓に建つ真言宗の寺。八幡神社の鳥居をくぐって登り出すと、手水石と道祖神が並ぶ崖に突き当たります。道祖神は駒形の石に「道祖神」銘があり、この雁通川一帯でよく目にする道祖神です。境内には勧請された石祠が並び、「淡島大明神/元文四未(1739)」銘の石祠もあり、根古屋の鎮守といった感じの八幡神社です。鳩は神社の本殿脇障子に二か所に彫られています。白い鳩です。鳩は八幡神社の使...里山の石神端書286鳩(茨城県行方市根古屋)

  • 昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市不動院(榛松)庚申塔・延宝六年(1678)不動院(榛松)庚申塔・寛保三年(1743)真浄院(石神)提頭羅神王真浄院(石神)国常立命三仏寺(戸塚)三神①三仏寺(戸塚)三神②三仏寺(戸塚)三神③三仏寺(戸塚)三神④桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)①桶ノ瓜地蔵堂(桶ノ瓜)②昭和の石仏写真館(173)川口市の寺社⑧

  • 里山の石神端書285 月待塔(茨城県行方市石橋)

    行方市石橋・熊野神社の月待塔行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。熊野神社は石神集落の中心部にある神社で、近くに観音堂や浄泉寺もあります。境内には庚申塔や月待塔が並び、この神社が集落の信仰の中心だったことがわかります。月待塔は「廿三夜供養塔」「奉待廿□」「十九夜/奉廿三夜/廿日待」の三基。いずれも風化がひどく、この場所に立て替えたような印象の月待塔です。その中の「十九夜、廿三夜、廿日待」を並べた月待塔はどういう背景があっての造立なのか、考えてしまいました。中央に「奉廿三夜」とありますからこれが主で、あわせて十九夜と廿日待を行っていたということだと思いますが、十九夜も廿日待も信仰や石造物の事例の少ない月待です。そのなかでも茨城には若干あったよ...里山の石神端書285月待塔(茨城県行方市石橋)

  • 里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)

    行方市石橋・養源寺の閻魔、地蔵行方(なめかた)市は西の霞ヶ浦と東の北浦の挟まれた古くて新しい市。西浦に流れ出し雁通川周辺を訪ねました。初めは石神集落の養源寺。養源寺は、山門に変わりに石柱を台座しその上に石仏を乗せて対にした所が入口。石仏は閻魔王と地蔵菩薩。寺の境内に閻魔と奪衣婆、あるいは六地蔵が並ぶ光景はよく見ますが、山門かわりに閻魔と地蔵が座すのは初めてです。寺に向かって左側の像は、風化のため表情はわかりませんが冥府の裁判官十王の着衣である道服(道教の道士の服装)姿なので十王であり、その中心の閻魔王としました。本来なら笏を持つのですが、これも欠けています。石柱には篆書で「禁葷酒」銘がありますからこれは結界石も兼ねています。養源寺は禅宗・曹洞宗の寺でした。右は右手に錫杖左手に宝珠を持ち、左足を踏み出そうと...里山の石神端書284閻魔王、地蔵(茨城県行方市石橋)

  • 昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市庚申塔・東本郷路傍如意輪観音・東養寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)出羽三山供養塔・金棟寺(東本郷)六地蔵1・東養寺(東本郷)六地蔵2・東養寺(東本郷)六地蔵3・東養寺(東本郷)六地蔵4・東養寺(東本郷)青面金剛・正源寺(新堀)勢至菩薩・正源寺(新堀)昭和の石仏写真館(172)川口市の寺社⑦

  • 里山の石神端書 千葉県成田市旧下総町

    里山の石神端書276十九夜塔(成田市下総町大和田・龍安寺の十九夜塔)里山の石神端書277男根(成田市下総町小野・八幡神社)里山の石神端書278道祖神(成田市下総町大和田路傍)里山の石神端書279天神(成田市下総町高・月輪神社)里山の石神端書280阿弥陀、観音(成田市下総町冬父・迎接寺)里山の石神端書281石坂供養塔(成田市下総町中里・楽満寺)里山の石神端書282道祖神石祠(成田市下総町中里)里山の石神端書283川崎大師(千成田市下総町青山・東光寺)里山の石神端書千葉県成田市旧下総町

  • 里山の石神端書283 川崎大師(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)青山・東光寺の川崎大師利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の青山を訪ねました。ここは東光寺を中心に、薬師堂や北辰神明社が建ち、そのなかに石造弘法大師を納めた小社が二社並んでいました。その一つはこの地方に組織された成田組十膳講八十八所霊場の一つ。千葉県北部と茨城県南部の下総地方には、江戸時代中期以降四国八十八霊場を移したミニ霊場が各地につくられました。ミニ霊場は大きな寺を起点としてはいますが、その多くは小さな木祠に石造弘法大師(一部に木彫もある)を祀ったものです。もう一つは川崎大師を祀った小社です。社内には川崎大師からいただいてきたお札がきれに並んでいました。川崎大師の本尊は弘法大師。青山の集落では「誠心講」という川崎大師の講をつくって、毎年川崎大師...里山の石神端書283川崎大師(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書282 道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里の道祖神石祠利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここで紹介するのは下総町で中里の道祖神としている場所です。集落外れの畑に土手を利用したこの場所には小型の石祠が山ほど積まれていて、その数の多さに驚きました。ほとんどが土手に寝かされ重ねられた異様さにも驚きです。石祠のほとんどは屋根から室部と台座が一体となった30センチ前後の高さで、室部正面に「道祖神」銘のあるものが若干あるだけ。見た目には同じような石祠ですが、詳細に調べればみな違っていて同じものは無いとも言えそう道祖神です。しかしこれほどの道祖神石祠を、石工あるいは手馴れた人が造ったのかの判断は難しいところです。推測ですが、奉納された時代が短期であれば専門の石工がいたともいえる数の多...里山の石神端書282道祖神石祠(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市赤井の寺円通寺圓通寺の六地蔵地蔵菩薩阿弥陀如来板碑群板碑・至徳元年(1386)板碑・応永五年(1408)板碑・文正二年(1467)板碑・文明十二年(1480)板碑・文明十八年(1486)僧像十三仏昭和の石仏写真館(171)川口市の円通寺

  • 里山の石神端書282 石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)中里・楽満寺の坂道供養塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯にある楽満寺を訪ねました。山門にユニークな像容の観音石仏が座していました。三十三所観音の一部で、残りは境内に並んでいます。近郷の女人講は造立したものです。三十三所といっても、像容をみると西国ではないものです。境内にはこれとは別の観音石仏もあり、こちらには西国札所二十二番のご詠歌が刻されていました。これら女性が造立した観音石仏があるのは、この寺が子授け・安産・子育ての如意輪観音を本尊としているからでしょう。寺ではこの本尊を源頼朝の妻政子の念持仏だったとしています。政子から如意輪観音を譲り受けたのはこの寺を開山・国一禅師(1233~1321)。国一は常陸生まれで鎌倉・臨済宗建長寺派の僧。もっと...里山の石神端書282石坂供養塔(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書281 阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)冬父・迎接寺の阿弥陀、観音利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の冬父にある迎接寺を訪ねました。迎接寺は平安時代末から鎌倉期にかけて造られた阿弥陀・観音・勢至の来迎阿弥陀三尊を本尊とするこの地方の名刹。来迎阿弥陀は、臨終の阿弥陀信者を西方極楽浄土へ迎えに来る姿。迎え方には生前に積んだ功徳により九つの区別があります。いわゆる上中下の三品と上下中の三生の組み合わせの九品(くほん)で、阿弥陀の手に位置と印相で現しています。絵図や石仏では迎えに来る阿弥陀の印は上品下生(じょうぽんげじょう)が多く見受けられます。迎接寺の古い墓地にそのような弥陀と観音の美しい墓石が並んでいました。写真は来迎印の阿弥陀如来、十一面観音、如意輪観音です。(地図は国土地理院ホームペー...里山の石神端書281阿弥陀、観音(千葉県成田市旧下総町)

  • 昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市本蓮の普門寺(庚申塔は№169と一部重複)庚申塔(元禄六年・1693)庚申塔(正徳二年・1712)庚申塔(正徳二年(1712)庚申塔(寛延二年・1749)庚申塔(寛延三年・1750)庚申塔(安永六年・1777)庚申塔(享和四年・1804)六地蔵六地蔵1六地蔵2昭和の石仏写真館(170)川口市の普門寺

  • 里山の石神端書279 天神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)高の月輪神社の天神利根川下流の下総町が成田、市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。ここに案内するのは高集落の月輪神社金環殿の奥にある天神様木祠に鎮座する木彫の天神です。高集落外れに「月輪神社」の扁額がかかり、社殿に「金環殿」とある神社のさらに奥にある木祠が天神様。祀られているのが木彫の天神で、冠をつけ袍姿の坐像の胸に天神の象徴梅鉢紋をつけています。右手は笏を持つように握った形、左には太刀をさしているはずですが、これは見当たりません。これまで山や山麓の石仏をだいぶ見てきましたが、天神をはじめとした神像の石仏にはほとんど出会いませんでした。仏像が路地に立てられたのに対して神像は社殿に祀るという意識が強かったようで、数少ない天神石像は石祠内に祀られるケースが多い印象...里山の石神端書279天神(千葉県成田市旧下総町)

  • 『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

    (写真は仮の表紙です。出版は夏頃の予定)【経緯】22年9月、食道がんステージ4を告げられ抗がん剤治療に入る前に決めたのが、石仏・古文書・桜のボランティアなどの会の運営の辞退でした。山の石仏調べも出来なくなりました。こうなると自分の時間ができて始めたのが山の石仏のブログをまとめること。どうまとめるか構想は膨らんでいて、ブログ偏平足の「山の石仏案内」も千回を数え、ちょうど区切りのよい時期でもありました。いま振り返ると、がんになったのは、そろそろ自分のライフワークをまとめなさいという催促だったような気がします。それまで会の運営であまりにも忙しすぎました。『東国里山奥山の石神・石仏風土記』はブログ「山の石仏案内」から抜粋・加筆したもので、取り上げた山の石仏案内約1000、写真は新しく選びなおしたもの約1050で構...『東国里山奥山の石神・石仏風土記』①

  • 昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤慈林寺(安行慈林)六地蔵福寿院(赤井)庚申塔東光寺(江戸袋)観音東光寺・石幢東光寺普門寺(蓮沼)普門寺・庚申塔(元禄元年・1693)普門寺・庚申塔(正徳二年・1712)普門寺・庚申塔(寛延三年・1750)普門寺・庚申塔(安永六年・1777)普門寺・庚申塔(文化元年・1804)普門寺・庚申塔(天保五年・1834)昭和の石仏写真館(169)川口市の寺社⑥

  • 里山の石神端書278 道祖神(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)大和田路傍の道祖神利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯を訪ねました。そこで見たのが路傍の一角に祀られた小さな石祠の道祖神の集まり。屋根・室部・台座が一緒になった20センチ前後の道祖神です。大和田の路傍の道祖神は、土手に上に祀られた石祠を取り囲むように小さな石祠が並んでいました。高さは20~30センチで屋根の形は流造りと切妻造り。室部の掘り窪みはなく銘もありません。台座も一緒です。大きさからして個人の奉納のようです。造立目的を下総町では道祖神として、夫婦円満、安産・子育てと案内しています。同じような道祖神は冬父の集会所でも見ましたし、中里にはとてつもない大量に奉納されている場所がありました。このような小型の道祖神は成田市や佐倉市の一部でも見ていますが...里山の石神端書278道祖神(千葉県成田市旧下総町)

  • 屋上菜園2024-04闘病日記25

    屋上菜園は体力がなくなった私に変わり、カミさんがやるというのでバトンタッチです。そうは言ってもこれまで手伝いをしたこともないカミさんですから、野菜作りのイロハから教えなければと、まず3月中旬にジャガイモの種を植えました。どうなることやら……。いまはキヌサヤの収穫。今年の3月末は風の強い日が多く、キヌサヤは茎が折れネットの支柱まで折れる始末で散々です。タマネギとニンニクは順調に成長中。*緩和ケアの話が出て、春彼岸の田舎の墓参りは今回が最後かなと車で出かけました。がんの告知を受けた後、弟夫婦と私とカミさんの4人での墓参りもこれで4度目。初めはこれほど続くとは思いませんでした。墓の前での兄弟夫婦の話は、そこに眠る父母に届いているはずなどと思うになったのも歳のせい、病のせい。見慣れた阿武隈と安達太良山の山脈を見な...屋上菜園2024-04闘病日記25

  • 里山の石神端書277 男根(千葉県成田市旧下総町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)小野・八幡神社の男根利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の小野八幡神社で、石碑に彫られた男根がありました。これは男根石と同じ趣旨の性神です。男根の大きさは約20センチ。これまでいろいろな石造男根を見てきましたが、この形は初めてです。淫祠(いんし)として為政者が造立を取り締まってきたこの種の石造物が、各地に残っているのは、性神信仰の根強さを示すものです。八幡神社の性神がどのような信仰背景があっての造立かは不明ですが、子授け子育てを願う神の一つであることは間違いありません。性神の脇には同じような男根のミニサイズの片割れがありました。このようなミニサイズの石造物は下総町の道祖神に見ることができます。この下総町には小さな石祠を道祖神として祀る風習があります...里山の石神端書277男根(千葉県成田市旧下総町)

  • 里山の石神端書276 十九夜塔(千葉県成田市旧神埼町)

    千葉県佐倉市(旧下総町)大和田・龍安寺の十九夜塔利根川下流の下総町が成田市と合併したのは2006年。旧下総町の丘陵地帯の大和田にある龍安寺を訪ねました。龍安寺は曹洞宗の寺で山門前に禅宗特有の「不許葷酒入山門」の結界石が立っていました。その裏側には弘法大師の石仏群は、この寺が成田組十膳講八十八所霊場の一番になっているための造立でしょう。境内に入ると、左手に菩薩の石仏が並びます。その右端に座すのが「奉待十九夜/文化十四丑(1817)」銘の十九夜供養塔。十九夜塔は女性たちが、月齢十九日の夜に当番あるいはお堂に集まって経を唱え、歓談した行事を行って造立した石塔です。集まったとき掲げる軸の本尊は如意輪観音とされています。したがって造立された十九夜塔も例外もありますが如意輪観音がほとんどです。龍安寺の十九夜を見ると観...里山の石神端書276十九夜塔(千葉県成田市旧神埼町)

  • 昭和の石仏写真館(168)川口市の寺社⑤

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社⑤新光寺(峯)新光寺・不動明王新光寺・異形十一面観音新光寺・地蔵菩薩安行原蛇ノ木下安行原蛇ノ木下・大日如来安行原蛇ノ木下・庚申塔安行原蛇ノ木下・地蔵菩薩峯路傍・道祖神安行原蛇ノ木・庚申塔安行原蛇ノ木・地蔵菩薩安行原蛇ノ木・成田不動昭和の石仏写真館(168)川口市の寺社⑤

  • 里山の石神端書 埼玉県本庄市児玉町秋山

    里山の石神端書270宝筐院陀羅尼経(本庄市児玉町秋山・日輪寺)里山の石神端書271石棒(本庄市児玉町秋山・御嶽神社)里山の石神端書272五神神名塔(本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社)里山の石神端書273文殊大士(本庄市児玉町秋山・直正寺)里山の石神端書274二十二夜塔(本庄市児玉町秋山・薬師堂)里山の石神端書275十二天(本庄市児玉町秋山・十二天山)里山の石神端書埼玉県本庄市児玉町秋山

  • 里山の石神端書275 十二天(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・十二天山の十二天秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。十二天はその秋山集落の山中に建つ神社です。秋山集落から林道に入り、馬頭観音が鎮座する瓦屋根の木祠が建っているところがかつての登山口で、石燈籠に「従是千百米」銘がありました。今の登山口の十二天池で、社務所・十二天会館が建っています。林道はさらに奥にのびて十二天神社の下まで入ります。ところで十二天は仏教の守護神、とくに密教の守護として行や儀式が行われた道場に絵図として用いられたようで、木彫としても少なく、石仏となるとほとんどありません。一般には災厄から守護とされたようです。山ではこれまで奥多摩の三ノ木戸山と西上州の馬居沢秋葉山で十二天に出会っています。奥多摩の三ノ木戸山の十二天尾根には「十二天山神」銘の丸石があり、宮内...里山の石神端書275十二天(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書274 二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・薬師堂裏の二十二夜塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ薬師堂の裏庭に石造物が並んでいました。一か所に集められたといった感じです。「猿田彦大神」、「庚申塔」、青面金剛庚申塔、墓石2基、石祠型墓石、宝篋印塔型墓石、二十二夜待供養塔、卵塔2基。庚申関係の石造物が3基ありますから、庚申信仰が継続して行われてきたのでしょう。卵塔は僧侶の墓石、石祠型墓石は江戸時代初期のものです。二十二夜塔には「二十二夜待供養/延享二年乙丑(1745)十二月廿二日/女人十一人」銘がありました。『日本石仏事典』(注1)には月待塔として十三夜塔から二十六夜塔まで解説され、これらが近世の造立で、地域により偏りがあり、造立者が男か女か、信仰の具体的例なども紹介されていて、実にさまざまな願...里山の石神端書274二十二夜塔(埼玉県本庄市児玉町)

  • 昭和の石仏写真館(166)川口市安行

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市安行の寺社金剛寺(安行吉岡)金剛寺案内金剛寺不動明王安行領塚路傍庚申塔・寛文(1661~63)安行領塚路傍庚申塔・寛保2年(1717)興善寺(安行領塚)庚申塔・元禄7年(1694)興善寺(安行領塚)庚申塔・宝暦8年(1758)興善寺(安行領塚)地蔵菩薩安行領家路傍庚申塔・安永3年(1774)宝蔵院(安行原)板碑・応安7年(1374)宝蔵院(安行原)成田不動昭和の石仏写真館(166)川口市安行

  • 里山の石神端書273 文殊大士(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・直正寺の文殊大士秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山際に建つのが禅宗の戸田山直正寺。本堂とその上に立つ文殊堂からなる寺です。寺の案内には、江戸時代初期の「承応元年(1653)戸田五郎左衛門直正が、戸田氏の供養のため廃寺を中興した」とありました。戸田氏はこの地を給地とした旗本。文殊堂は向拝柱を飾る豪華な木鼻と禅宗独特の花頭窓がある落ち着いた建物です。しかし堂内は畳もあげられて荒れるにまかせた感じ。天井の花絵のほとんどは薄れてしまいました。ここに案内する「文殊大士」の文字塔は、片付けられて淋しい仏壇の下に置かれていました。自然石を利用した文字塔です。文殊大士は文殊菩薩の一つの呼びかたで、特に禅宗で修行僧の理想形として僧形の文殊大士が座禅堂に安置されてきました。した...里山の石神端書273文殊大士(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書272 五神神名塔(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・秋山新蔵人神社の五神神名塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ秋山新蔵人神社は、南北朝時代この地に縁があった秋山新蔵人光政の子孫が祀ったものと、境内の案内にありました。それは小さな社殿で、秋山集落に建つ寺社はどこも質素といった印象です。境内の隅に五角柱のそれぞれに「埴安媛命/倉稲魂命/天照大神/大己貴命/少彦名命」銘を刻した五神神名塔が祀られていました。高さ78センチ。五神神名塔は関東では、佐倉、相模など限られた土地で造立されたことがわかっています、どこでも70センチ前後の高さです。この石塔の造立目的は五穀豊穣を願うもので、土の神を祀る〝社日〟の習俗が根底にあるとされ、この石塔を地神と呼ぶ地方もあります。社日は「一年に二回あり、春分と秋分に最も近い戊の...里山の石神端書272五神神名塔(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書271 大魔羅(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・御嶽神社の大磨羅秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ御嶽神社があるというので訪ねみました。御嶽(みたけ)神社というので、木曽御嶽(おんたけ)ではなく奥多摩の御嶽神社を勧請したものかと訪ねたのですが、それは小さな敷地の小さなお宮で、脇に大きな男根石が鎮座していて、予想は大外れでした。案内によると、御嶽神社は「この地にある飯島一族の氏神様で、古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様」ということでした。さらに「御神体は石棒で(略)その型にならってか、大小様々な石棒が人知れず奉納され(略)秋山の大魔羅と呼ばれている」とありました。お宮をのぞくと内部には小さな木の男根が沢山納められていました。案内には「あまりの多さに氏子が時折取り片付ける事もある」とも。肝心の石棒ご神体...里山の石神端書271大魔羅(埼玉県本庄市児玉町)

  • 里山の石神端書270 宝筐院陀羅尼経(埼玉県本庄市児玉町)

    埼玉県本庄市児玉町秋山・日輪寺の宝篋印塔秩父の山脈は本庄市の西の児玉町あたりから始まります。その山裾に建つ日輪寺は真言宗の寺、境内に宝篋印塔のような石塔が立っていました。この塔、相輪はあるものの笠は宝篋印塔のものとは違う層塔や宝塔のような形です。二段構えの上塔身の四面に彫られた種字金剛界四仏(阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就)が宝篋印塔であることを示しています。これに「宝篋印塔」銘でもあれば間違いなく宝篋印塔となるのですが……。宝篋印塔は宝筐印陀羅尼を納めるための塔で、鎌倉時代以降石塔の一つとして盛んに造立されました。江戸時代になると墓石としても造立され、形も変形を重ねてこの日輪寺のような宝筐印塔も登場しました。造立の目的は下塔身に刻まれています。「経曰若有有情能於此塔一香一華禮拝供養八十」「億刧生死重罪一時...里山の石神端書270宝筐院陀羅尼経(埼玉県本庄市児玉町)

  • 昭和の石仏写真館(166)川口市の寺社④

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市の寺社赤山城跡(赤山)赤山城址案内真乗院(石神)真乗院庚申塔・元禄三年(1690)真乗院庚申塔・宝暦七年(1757)宝蔵寺(西新井宿)庚申塔・元禄八年(1695)宝蔵寺庚申塔・寛政三年(1791)宝蔵寺庚申塔・文政三年(1820)源長寺(赤山)案内源長寺石仏源長寺庚申塔・正徳六年(1716)昭和の石仏写真館(166)川口市の寺社④

  • 里山の石神端書 千葉県南房総市千倉

    里山の石神端書264地蔵絡子(南房総市千倉の平磯)里山の石神端書265鯨塚(南房総市千倉の平磯)里山の石神端書266大日如来(南房総市千倉の千田)里山の石神端書267鯉(南房総市千倉の千田)里山の石神端書268風神雷神(南房総市千倉の大川)里山の石神端書269やぐら(南房総市千倉の大川)里山の石神端書千葉県南房総市千倉

  • 屋上菜園2024-03闘病日記24

    2月5日夜は八千代市も大雪となりました。屋上菜園は雪の綿帽子をかぶって暖かそうです。6日朝は長靴を履いて外に出ました。しかし雪かきをするカミさんを見ているだけでした。食道がん発病以後、体力はすっかり衰えてしまいました。*2月は抗がん剤副作用の口内炎で苦しみました。食べられるのはおかゆ・麺・パスタなど味が薄く柔らかいものだけ。中旬に担当医にお願いしてうがい薬を変えてもらいましたが、それも効果がなく、「抗がん剤を休みますか」との提案がありました。確かに治療を休むのが一番良い方法です。でもそうすると転移したリンパのがんがまた動き出してしまうのが心配。どちらを選ぶか?治療を選択ました。それにもかかわらず2月下旬のCT検査の結果、リンパのがんは増大、肝臓のがんも復活。口内炎に苦しんだ今回の抗がん剤の効果は無し、とい...屋上菜園2024-03闘病日記24

  • 里山の石神端書269 やぐら(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・東漸寺のやぐら太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ大川の東漸寺の墓地奥の土手に穴を掘った〝やぐら〟のような形の墓地がありました。その中と周辺には江戸時代初期からの墓石が累々と重なっていて、墓石のオンパレード状態。やぐらであれば奥壁に五輪塔などの浮彫があるのですが、それは確認できませんでした。したがってこれをやぐらとすることはできませんが、房総のやぐらについて過去の資料から少し紹介します。やぐらは鎌倉時代の鎌倉に造られた山際の斜面を彫りくぼめて造った墓地。狭い土地の鎌倉で墓地を確保するために考え出された方法で、鎌倉だけで3000基もあるとされています。やぐらという名称について大三輪龍彦氏は『鎌倉のやぐら』(注)で、江戸時代初期の『新...里山の石神端書269やぐら(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書268 風神雷神(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の大川・高塚不動の風神・雷神太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。高塚山には不動堂が建っていましたが、昭和の初めの火災で本尊不動明王は山麓の大聖院に下ろされたのは昭和36年。お堂内には、奈良時代に高塚不動を創建のした良弁(689~773)の開山縁起を描いた絵図18枚がかけられていました。良弁は奈良時代の僧。東大寺建立の僧として知られています。安房と縁が深いようで、鴨川の大山の開山も良弁となっています。もっとも良弁は相模の人で、丹沢の大山不動の開山者とされています。高塚不動・鴨川大山不動・丹沢大山不動の開山縁起の出だしは、良弁が赤子のときに鷲にさらわれたという件から始まります。鷲が向かった先が奈良、二月堂前の杉の木に引っかかっていたという設定です。今...里山の石神端書268風神雷神(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市戸塚の西光寺本堂山王二十一仏庚申塔・寛文二十年(1643)青面金剛庚申塔・宝永六年(1709)文字庚申塔・文政十三年(1830)念仏供養塔・慶安四年(1656)板碑・元享二年(1322)板碑・応永三十五年(1428)板碑・文明十年(1478)板碑・天正七年(1579)板碑・文禄五年(1596)昭和の石仏写真館(165)川口市の西光寺

  • 里山の石神端書267 鯉(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の千田・高皇産霊神社の木彫鯉太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。そのなかでひときわ高い山際に建つのが高皇産霊神社です。一直線の長い参道もこの神社の特徴。二の鳥居の扁額の神社銘は風化していますが、縁を飾る波などの文様はまだはっきり残っていました。扁額ばかりでなく、石造物の台座、寺社の向拝や欄間や柱に凝った意匠を凝らしたのが南房総(安房)の職人たちで、江戸時代末期には波の伊八、石工の武田石翁、宮彫りの後藤義光が安房の三名工として称えられました。三名工の一人後藤義光(1815~1902)は千倉の宮大工の家の生まれ。若いころは江戸の宮彫師の弟子となり、40代で安房に帰って仕事をしました。弟子の養成にも力を入れ、直弟子の後藤義信、後藤義久、後藤忠明、後藤兵...里山の石神端書267鯉(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書266 大日如来(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・照明院の大日如来太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。真言宗の御本尊は大日如来。照明院の境内には3体の智拳印を結ぶ金剛界大日如来が座していました。いずれも円光を背にした丸彫りの大日です。房総ではときどき大日如来に出会いました。その一つが山に祀られた馬頭観音と対になった大日如来です。一石に馬頭と大日銘を刻した石塔もありましたから、対で祀ることが普通に行われていたと思われます。しかしどのような背景があっての造立かはわかりませんでした。参考になる例が伊豆半島の河津町にあります。『河津町の石像文化財』には大日と馬頭を並刻するものを8基報告されています。その目的は「天道大日に晴天を願い馬頭観音に馬の道中安全を願った」とあります。天道大日は農耕が始まる...里山の石神端書266大日如来(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市観音堂(木曽呂)庚申塔・寛文十年(1670)真福寺(西川口)庚申塔・延宝八年(1680)妙蔵寺(根岸)妙蔵寺(根岸)庚申塔・延宝四年(1676)妙蔵寺(根岸)庚申塔・正徳四年(1714)妙蔵寺(根岸)庚申塔・享保十八年(1733)妙蔵寺(根岸)庚申塔①安永八年(1779)妙蔵寺(根岸)庚申塔②並木観音(並木)庚申塔・寛政十二年(18800)昭和の石仏写真館(164)川口の寺社②

  • 里山の石神端書265 鯨塚(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・長性寺の鯨塚太平洋に面した千倉町の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の長性寺を訪ねました。山門に子抱地蔵が座す長性寺、境内にブーゲンビリアの花が咲いていました。本尊は不動明王、拝見させてもらいましたら赤い憤怒の立像でした。鯨塚は本堂裏手のお堂入口に立つ宝篋印塔型の石塔で、「鯨塚/明治廿九年」銘。鯨は海からの漂着神。寄り神ともいわれた漂着物には、神像仏象をはじめ流木や貝や石までも、海からの恵みと考えて神仏として寺社に祀られました。千倉は和田などの南房総では漂着した鯨も仕留めた鯨も神として扱いました。南房総の太平洋側は昔から捕鯨が盛んな土地で、いまでも魚屋では鯨の肉やベーコンが売られています。かつては給食で鯨カツなどが出たそうですが、給食の経験がない...里山の石神端書265鯨塚(千葉県南房総市千倉)

  • 里山の石神端書264 地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

    千葉県南房総市千倉の平磯・観養寺の地蔵絡子太平洋に面した千倉の高塚山の山ぎわには、集落ごとに真言宗の寺が並んでいます。その一つ千田の観養寺を訪ねました。境内に入るとすぐ右手に阿弥陀如来、左手に地蔵菩薩が立っています。二尊とも整った像容で、地蔵の左肩には大きな絡子が彫られていました。絡子は袈裟の長さを調整する環で、主に禅宗の僧侶が使っています。袈裟は古代インドの僧侶の服。それはボロ布を集めて作ったことから糞掃衣(ふんぞうえ)、捨てられた布を綴り合わせて作ったことから衲衣(のうえ)とも呼ばれたと伝えられています。仏教が熱いインドから寒い北に伝わるにつれて、これを担った僧侶は必然的に分厚い服装になり、これに簡易な袈裟を着けるというスタイルに変わって、袈裟本来の意味は失われていきました。中国での袈裟はさらに装飾的...里山の石神端書264地蔵絡子(千葉県南房総市千倉)

  • 昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市南町の吉祥院六地蔵1六地蔵2五智如来・寛文十一年(1671)大日如来弘法大師庚申待(左)夜念仏(右)供養塔庚申待供養塔1・大永四年(1524)庚申待供養塔2夜念仏供養塔1・延徳二年(1490)夜念仏供養塔2昭和の石仏写真館(163)川口市の吉祥院

  • 里山の石神端書 千葉県長柄町

    里山の石神端書258龍頭(長柄町刑部)里山の石神端書259延命地蔵(長柄町田代)里山の石神端書260大杦大明神(長柄町田代)里山の石神端書261藪中の石仏(長柄町田代))里山の石神端書262神像(長柄町大津倉里山の石神端書263子安大明神(長柄町大庭)里山の石神端書千葉県長柄町

  • 里山の石神端書263 子安大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大庭・熊野神社の子安大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。いま盗難防止のため山村の無住の寺社のほとんどは建物の扉を閉ざしてしまい、御本尊・御神体など拝めるところは皆無です。しかし境内に勧請された末社などは施錠されていないので、御本尊・御神体を拝めることがあり、ときには珍しい神仏に出会うこともあります。大庭・熊野神社でも珍しい出会いがありました。熊野神社の境内にある木祠には、「子安大明神」銘の下に女神が線刻された石塔が祀られていました。女神は日本神話に登場するような姿。不鮮明な線刻でハッキリしませんが、右手に木の枝を持ち、左手で赤子を抱いているように見えます。子安の本尊といえば仏像には子安観音があり、地蔵にも子を抱く姿があります。一方神像となると、櫛稲田姫命...里山の石神端書263子安大明神(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書262 神像(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の大津倉・大国主神社の神像長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。大津倉の大国主神社の入口にある木祠に「道祖神」の木札が納められていました。三木一彦氏の「房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因」(注)に「出羽三山への登拝は1~3週間をかけており、その間、家族は道祖神や地蔵に参詣して道中の無事を祈っていた」とあります。家族が出羽三山登拝中、留守をあずかる者は虫も殺してはならない、という話も聞きます。石段を登ると狛犬が迎えてくれます。胴長の狛犬です。神像は境内の隅にある木祠にあります。木祠に祀られた祭神は不明で、神像名も不明です。ほこりまみれで木彫かと思いましたが、触れてみると石像。冠をかぶり、袍を身につけた平安時代の朝服姿。手は笏を持つようになっていますが、笏は...里山の石神端書262神像(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市前川の観福寺本堂仁王仁王庚申塔・元禄十三年(1700)庚申塔・享保六年(1721)庚申塔・元文三年(1738)庚申塔・寛政六年(1794)庚申塔・明治十一年昭和の石仏写真館(162)川口市の観福寺

  • 里山の石神端書261 藪中の石仏(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・延命寺の藪中の石仏長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の延命寺は鶴岡宅の庭を通った先にありますので、ご主人にご挨拶してから境内に入りました。本堂は寺院というより生活の臭いがする民家風の建物です。このお堂は鶴岡氏が管理していて扉を開けていただきました。本尊は地蔵菩薩で、寺が延命寺なので延命地蔵なのでしょう。鶴岡氏によると、本堂の左手にある崖に石仏が沢山あるとうのです。竹や雑木で覆われた崖で登るのは無理ですが、藪に手をかけ這い上がってみると、風化した二体の石仏が倒れていました。このような感じでいくつかの石仏が崖に倒れているようですが、詳細は不明です。境内に同じように風化した石仏が一体立っていました。如意輪観音です。房総の石で彫った石仏は風化が激しく、この...里山の石神端書261藪中の石仏(千葉県長柄町)

  • 屋上菜園2024-02闘病日記23

    この冬雪はないだろうとみていましたが1月13日の夕方降り、翌日屋上に上がってみると、雪が薄っすらと残っていました。*昨年12月から始めた抗がん剤の副作用で、湿疹が出てしまいました。暮れから正月にかけてビールを飲んだのも良くなかったようで、胸から腹にかけて湿疹で真っ赤。ビールは一年半ぶり。飲めば湿疹が悪化することは予測できましたが、久々に家族が全員集まったこともあり楽しく美味しくいただきましたから、納得の湿疹悪化でした。髪の毛が抜けはじめました。今回の抗がん剤の副作用として担当医から説明されていましたが、髪は長い友達ですからやはり抜けるのは寂しいものです。それでも半年前に坊主頭にしていましたら、さほど目立ちません。それより口内炎がひどくなってきて、ミカンも食べられません。ところで年末から新年にかけて、白血球...屋上菜園2024-02闘病日記23

  • 里山の石神端書260 大杦大明神(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・稲荷神社の大杦大明神長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。田代の稲荷神社は小高い丘の上。ちんまりした社殿の祭壇を守ように狐が一対対峙していました。田代青年団が寄贈したふっくらとした狐です。境内の隅に隠れるように祀られていた石祠が「大杦大明神」です。「文化八年酉(1825)」造立。大杦の杦は杉の略字。大杦大明神は茨城県稲敷市阿波(あんば)にある大杉神社に違いなく、江戸時代にこの稲荷神社に勧請されたのでしょう。あんば様と称された大杉神社は、古来霞ヶ浦の岬にあった神社で漁民の守護神として祀られ、神仏習合の時代は不動明王を本尊とする安穏寺で、近世には航海の神として茨城から東北の東海岸沿いに信仰が広まった神です。宮城の気仙沼には安波山があり、大杉神社が祀られていまし...里山の石神端書260大杦大明神(千葉県長柄町)

  • 昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市薬林寺(朝日)阿弥陀如来飯塚路傍・猿田彦氷川神社(南町)庚申塔専称寺(上青木)庚申塔安楽寺(上青木)地蔵菩薩大信寺(前上町)大信寺(前上町)地蔵菩薩前川神社(前川町)前川神社・狛犬前川神社・狛犬前川神社・大山石尊大天狗昭和の石仏写真館(161)川口の寺社②

  • 里山の石神端書259 延命地蔵(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の田代・本光寺の延命地蔵長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。本光寺は曹洞宗の小さな寺、寺の先に石造物が並んでいました。そのなかに目立つのが地蔵菩薩と石幢です。地蔵菩薩には立像・坐像がありますが、坐像で左足を下に垂れた延命地蔵もあります。本光寺の地蔵は光背や両手が欠けていますが、形の整った延命地蔵です。延命地蔵は日本で生まれた姿とされていて、地蔵を頼る人はこの足を立ちあがるための一歩踏み出す姿と見ました。『日本仏像辞典』(注)では「延命地蔵の名はインド成立の経典に中にはなく、『延命地蔵経』は和製の偽経とされている」とあります。地蔵の信仰の一つは子供の健全は生育を願うもので、延命地蔵の立ち上がろうとする姿は、一時でも早く救済してくれると見えたはずです。「明和五戌子(...里山の石神端書259延命地蔵(千葉県長柄町)

  • 里山の石神端書258 龍頭(千葉県長柄町)

    長柄町水上川流域の刑部・八重垣神社の龍頭(木彫)長柄町は千葉県の中央部の街。一宮川の支流水上川流域を訪ねました。初めに向かったのは八重垣神社。入口の案内に「元応2年(1320)村人たちは月川の神輿山に祠を建て、スサノオノ命をまつり氏神としたという。安永7年(1778)現在地に社殿を新築して移り、刑部天王宮と称し、刑部・立鳥・鴇谷三か村の鎮守となった。(略)明治元年八重垣刑部神社と改め、刑部一村の鎮守となった」とありました。天王宮の祭神は牛頭天王で、京都祇園・八坂神社の祭神。牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。これがこの国では疫病除けの神・スサノオノ命の垂迹として祀られてきました。これが明治維新の廃仏毀釈で仏教系の牛頭天王はスサノオノ命になりますが、八重垣神社の祭神の変化をみると、この国の祭神名変遷の様子が...里山の石神端書258龍頭(千葉県長柄町)

  • 野田市の庚申塔

    石田年子令和6年1月、飯島印刷サービス石田年子氏から『野田市の庚申塔』をいただきました。野田市は中世の庚申板碑から近世初期の青面金剛の庚申塔などが残り、庚申信仰の研究には欠かせない地域です。この野田市にお住まいの石田氏は早くからこの庚申塔に関心を寄せ、また千葉県立関宿城博物館調査協力員としてこの地域の石造物調査に取り組み、これまで多くの調査報告・論考を発表してきました。そして今回、ライフワークとしていた野田市の庚申塔を、1基ずつ所在地や銘文などのデータと写真でまとめ上げました。その数819基という膨大な資料です。【解説野田市の庚申塔】1野田市庚申塔の歴史2野田市庚申塔の概要3庚申塔の諸相4野田市の初期庚申塔一覧表/延宝期迄【野田市地区別庚申塔調査報告】【付記庚申塔一覧表】野田市の庚申塔

  • 里山の石神端書 日光市栗山村

    里山の石神端書252道標(日光市旧栗山村大笹峠)里山の石神端書253懸仏(日光市旧栗山村土呂部)里山の石神端書254石幢(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書255二宮金次郎(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書256狐(日光市旧栗山村日向)里山の石神端書257大日如来(日光市旧栗山村野門)里山の石神端書日光市栗山村

  • 里山の石神端書257 大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)野門の栗山東照宮栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村から外にでるには鬼怒川沿いに川治へ、山越えは黒部から大笹峠を越えて日光・今市へ、野門から富士見峠を越えて日光に出る道がありました。野門には大山栗山東照宮があります。境内にある案内によると、野門は江戸時代に日光御神領戊となり、辰戦争のときには富士見峠の戦いに駆り出され2名の死傷者を出しています。さらに幕府・会津方は日光東照宮境内の由緒宿坊に祀ってあったと思われる男体山三社神体(男体山・女体山・太郎山)と徳川公の御神体を野門集落に避難・移し祀り、これが野門東照宮の始まりとされています。大日如来は野門東照宮の脇、野門に古くからあった大山祇神社の境内奥に座しています。髪を観音風に結った智...里山の石神端書257大日如来(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書256 狐(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・男体山神社の狐栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。村の神社を見ると、それぞれの集落に薬師堂が建ち、石造物も日光に関係する神仏がありました。日向の男体山神社もその一つで、おそらく墓碑だと思いますが五輪塔二基を一石に彫ったものなどは日光周辺でよく見られる古いものです。青面金剛の庚申塔は日光型ではない一般的なもの。文字庚申塔もありました。男体山神社も日光を代表する山ですから、その裏山の先にある栗山の男体山神社入口に「男体山/文化五辰(1808)」銘の石燈籠が立っているのは自然な成り行き。「聖徳太子」銘石塔もありました。狐は日光とは関係ありませんが、男体山神社に登る石段脇の石祠群のなかに、石祠を挟むような形の狐一対が藪のなかにひそんで...里山の石神端書256狐(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市末広の吉祥寺恵比寿大黒天毘沙門天吉祥天寿老人福禄寿布袋昭和の石仏写真館(160)川口市の吉祥寺

  • 里山の石神端書255 二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・子安地蔵堂前の二宮金次郎栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。その中の日向は大きな集落で、廃校になった小学校の前に子安地蔵堂が建っていました。平成元年に建てられたお堂ですが、堂内に「昭和七年」の寄進者名簿板がありますので、昔からあったお堂のようです。扉を開くと正面仏壇には5体の石仏が並んでいます。しかしどれも赤い頭巾と前掛けをしてあって尊名はわかりませんが、正面の地蔵の前掛けから子供の頭が飛び出していますから、これが本尊子安地蔵なのでしょう。他の石仏は運び込まれたという印象です。昔は頭巾などすべて外して調べたものですが、最近は病のためその元気はありません。廃校小学校の片隅に二宮金次郎の像が立っていました。薪を背負い本を読んでいる...里山の石神端書255二宮金次郎(栃木県日光市旧栗山村)

  • 里山の石神端書254 石幢(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)日向・薬師堂の石幢栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。日向の野尻は栗原村の東の入口で、集会所の奥に薬師堂が建っていました。その脇の石幢は、周辺の道路工事の折に集められたものと、集会所に集まっていた女性から教えていただきました。女性の話では、栗山村には集落ごとに薬師堂があり、今も信仰が続いているとのこと。石幢は4基。その中の一基には「天文二年(1533)」銘と日光市教育委員会の案内があります。天文は中世末期、戦国期の造立で、龕部の六地蔵は古風な像容です。ところで天文二年は癸巳となりますが、この石幢は「丁酉」となっていて干支からすると「天文六年」になります。他の石幢は「文政九年(1826)」「安政四年(1857)」銘がありました。中世の...里山の石神端書254石幢(栃木県日光市旧栗山村)

  • 昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

    伊藤介二・昭和の石仏写真館・埼玉県川口市領家光音寺日待供養塔庚申塔・元禄三年(1689)板碑板碑・文明五年(1472)板碑板碑・歴応三年(1340)板碑板碑昭和の石仏写真館(159)川口市の光音寺

  • 里山の石神端書253 懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

    日光市(栗山村)土呂部・瀧尾神社の懸仏栗山村は日光東照宮の裏に連なる日光連山の北側にあった村で、2006年に日光市に合併されました。栗山村でも土呂部(どろぶ)は山間の標高900メートルの盆地にある集落。気象観測所があり、冬になると関東の最低気温測定地として天気予報に土呂部の名が登場します。黒部ダムから街道を離れて、石仏が並ぶ先が土呂部への道。土呂部集落の奥にあるのが廃校になった小学校の跡地に建つ公民館。その脇に瀧尾神社が建っています。参道脇に木祠が10、石祠が3並び、石段を上った先に瀧尾神社。神社は小さな木祠。その中に納められているのが阿弥陀如来の懸仏。公民館に隅に立つ案内には「青銅の板を打ち出したもので、直径29センチの円形の掛仏には、寛政九年(1797)の記載があり、県内でも工芸的にも大変貴重なもので...里山の石神端書253懸仏(栃木県日光市旧栗山村)

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