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  • 2023年の音楽回顧

    2023年はどんな年だったろう。ウクライナ戦争は終わりが見えない。ガザではイスラエルがジェノサイドともいえる攻撃を仕掛ける。世界は戦争の時代に入ったのか。ともかく、わたしの2023年を振り返ろう。吉田秀和が「思うこと」というエッセイ(吉田秀和全集第10巻所収)でドイツの詩人、ギュンター・アイヒの詩の一節を引用している。次のような詩だ。「眼をとじてみたまえ/その時、きみに見えるもの/きみのものはそれだ」。わたしも眼をとじてみよう。なにが見えるか。まず思い出すのは、ヴァイグレ指揮読響が演奏したアイスラーの「ドイツ交響曲」だ。アイスラーが主にブレヒトの詩をもとに作曲したカンタータ的な作品。詩の内容は、第一次世界大戦後、民主的なワイマール憲法のもとでナチズムが台頭し、ドイツを破滅に導いたことを糾弾するもの。その曲...2023年の音楽回顧

  • 国立西洋美術館「キュビスム展」

    国立西洋美術館で「キュビスム展」が開催中だ。20世紀初頭にパリでピカソとブラックが始めたキュビスムが、あっという間に多くの画家たちに広がり、熱狂の瞬間を迎えたその時に第一次世界大戦が勃発し、キュビスムは重大な転機に立たされる。その経過が生々しく感じ取れる展覧会だ。メインビジュアル(↑)の作品はロベール・ドロネーの「パリ市」だ。中央の3人の裸体の女性は西洋絵画の伝統的な図像の三美神だ。右側にはエッフェル塔の断片が見える。左側に見える川はセーヌ川だ。現代のパリの街並みに三美神の幻影を見る。細かいモザイクのような画面は、プリズムを通したように見える。それが三美神の幻想性を高める。絵具は薄塗りで透明感がある。実物を見ると驚くが、サイズは縦267㎝×横406㎝と大きい。1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに展示さ...国立西洋美術館「キュビスム展」

  • レーガー生誕150年

    大野和士が指揮する都響の12月定期Aシリーズのプログラムに、今年生誕150年のレーガー(1873‐1916)の珍しい曲が組まれた。「ベックリンによる4つの音詩」だ。実演を聴いてみたくて出かけた。ベックリンはスイス生まれの象徴主義の画家だ。レーガーはベックリンの4枚の絵画にインスピレーションを得て作曲した。第1曲は至福にみちた瞑想的な音楽。一貫してコンサートマスターのヴァイオリン独奏が続く(当夜のコンサートマスターは矢部達哉)。第2曲はスケルツォ風の音楽。第3曲はエレジー。悲しみが爆発する。第4曲はフィナーレ。バッカスの祭りだが、開放感に欠ける。レーガーには晦渋なイメージがある。だが、少なくともこの曲は平明だ。もっと演奏されていいと思う。実演を聴くと、音に独特の色がある。派手な色ではなく、くすんだ色だ。聴く...レーガー生誕150年

  • ルイージ/N響「一千人の交響曲」

    N響の第2000回公演。ルイージの指揮でマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」。第1部冒頭の合唱が、力まずに、さらりと入る。勢い込んだ入りとは違う。演奏はだんだん熱が入る。バンダが加わるコーダは圧倒的な音量でNHKホールの巨大な空間を満たした。第2部の冒頭は神経のこもった弱音だ。荒涼とした岩山の風景が浮かぶ。ハープにのって第1ヴァイオリンがゆったり奏でる部分が美しい。聖母マリアが降臨して、ホールが愛に満たされるようだ。だからこそ、グレートヒェンを表す第2ソプラノの歌に説得力があった。神秘の合唱の出だしの再弱音にゾクゾクする。コーダでは肯定的な音が鳴った。独唱者はオーケストラの後ろに配置された(聖母マリアを表す第3ソプラノはオルガン席で歌った)。その配置は独唱者には不利だが、承知の上だろう。当日の主役はオ...ルイージ/N響「一千人の交響曲」

  • スダーン/東響

    桂冠指揮者スダーンの振る東響の定期演奏会は、シューマンの交響曲第1番「春」のマーラー版とブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲という、一見オーソドックスだが、ひねりの利いたプログラムだった。スダーンは東響の音楽監督在任中にシューマンの全交響曲のマーラー版を振ったそうだが、わたしは聴かなかったので、今回が初見参だ。マーラー版といわれると、身構えてしまうが、佐野旭司氏のプログラムノートによれば、それほど警戒(?)すべき版ではないらしい。以下、引用すると――「マーラーの編曲は基本的に原曲に忠実である。しかし、例えば第1楽章の冒頭(トランペットとホルンのユニゾン)でホルンの数を増やしたり、また第2楽章の冒頭主題は本来第1ヴァイオリンのみで奏されるところを第2ヴァイオリンを加えたりと、随所で細かい変更...スダーン/東響

  • METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

    METライブビューイングでジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」(2000)を観た。MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)は名作オペラの上演と併せて、現代オペラの上演にも力を入れている。本作品もそのひとつだ。主人公は修道女のヘレン。死刑囚のジョゼフとの文通をきっかけに、ジョゼフの求めに応じてジョゼフと会う。ジョゼフは殺人犯だが、罪を認めない。死を恐れるジョゼフ。ヘレンはジョゼフに罪を認め、赦しを乞うよう説得する。「真実はあなたを自由にする」と。重いテーマが幾重にも重なる。第一に死刑制度の問題だ。本作品は遺族の苦悩を綿密に描く。死刑制度反対を主張する作品ではない。観る者に考えさせる。第二に信仰の問題だ。ヘレンの信仰はゆるぎない。死におびえるジョゼフに「神は周りに私たちを集めてくだ...METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォン&日本フィルの快進撃が続く。12月の東京定期はこのコンビらしいプログラムだ。1曲目は外山雄三の交響詩「まつら」。日本フィル恒例の九州公演から生まれた曲だ。わたしは1985年9月の渡邉暁雄&日本フィルと、2014年12月の外山雄三&日本フィルの演奏を聴いた。今回久しぶりに聴き、「こんなにいい曲だったっけ」と思った。冒頭の静謐な音から祭囃子の幻想的な音へ自然に移行する。祭囃子がお祭り騒ぎにならない点が好ましい。この曲の難点だと思っていた強引なエンディングは、軽いアクセントを打って終わるように聴こえた。2曲目は伊福部昭の「ラウダ・コンチェルタータ」。マリンバ協奏曲だ。わたしは一時この曲に夢中になった。きっかけは1990年4月に聴いた安倍圭子のマリンバ独奏、山田一雄&新星日響の演奏だ。憑依したよ...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • カンブルラン/読響

    カンブルラン指揮読響の定期演奏会。1曲目はヤナーチェクのバラード「ヴァイオリン弾きの子供」。レアな曲だ。そんな曲があったのかと思う。スヴァトブルク・チェフの詩に基づく曲という(澤谷夏樹氏のプログラムノーツによる)。チェフといえば、オペラ「ブロウチェク氏の旅行」の原作者だ。別人の手によるオペラ台本では、第2部の冒頭にチェフ自身が現れて詩を朗読する。印象的な場面だ。「ヴァイオリン弾きの子供」の作曲年は1912年。ちょうど「ブロクチェク氏の旅行」を作曲中のころだ。1912年はピアノ曲集「霧の中で」の作曲年でもある。「ヴァイオリン弾きの子供」は「霧の中で」に通じる抒情性がある。しんみりしていて、どこか儚げだ。カンブルラン指揮読響の演奏はその曲想をよく表現した。コンサートマスターの日下紗矢子のヴァイオリン独奏もその...カンブルラン/読響

  • 高関健/東京シティ・フィル「トスカ」

    高関健指揮東京シティ・フィルの「トスカ」の演奏会形式上演。歌手の面でもオーケストラの面でも「トスカ」の音楽を堪能できた。歌手でもっとも感銘を受けたのは、カヴァラドッシをうたった小原啓楼だ。第1幕の余裕をもったカヴァラドッシから、第2幕の拷問に苦しむカヴァラドッシ、拷問の途中でナポレオン軍の勝利の報が届き、歓喜の叫びをあげるカヴァラドッシ、そして第3幕の処刑を前にした絶望のカヴァラドッシまで、表現の幅が広い。わたしは以前、松村禎三のオペラ「沈黙」で小原啓楼のロドリゴを聴き、たいへん感銘を受けたのだが、それ以来の感銘を受けた。トスカをうたったのは木下美穂子。安定した歌唱で安心して聴けた。「歌に生き、恋に生き」もたっぷり聴けた。スカルピアは上江隼人。過不足ない歌唱だ。アンジェロティは妻屋秀和。第1幕を引き締めた...高関健/東京シティ・フィル「トスカ」

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