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<岸和田城> 日本で6番目に再建された模擬天守と隅櫓・多門櫓で雰囲気を醸し出している
本日(10/8)、続日本100名城の「岸和田城」(大阪府岸和田市)を登城しました。 南海難波駅から6人、新今宮駅から1人の合計7人で向かいました。「岸和田駅」…
<RC造り模擬「岸和田城 天守・小天守」> 五重天守台に復興で建てられた三重三階「天守」
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。 『<北から南へ「…
臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。今川氏輝の墓今川氏輝今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった...臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓
「その1」のつづきです。水口岡山城跡伝西の丸から本丸へ向かいます。 向こうに見える高い場所が本丸です。 本丸に向かって登ります。 ここを登っていくと本丸で...
前稿で紹介した水口城から直線距離で1.2kmほど東に、かつて水口岡山城がありました。水口岡山城は水口城が築かれる前に、甲賀郡支配の拠点となっていた山城です...
近江・多喜城 残りの良い高い土塁と深い掘切が堪能できるコンパクトな山城
多喜城は滋賀県甲賀市甲賀町滝にあります。多喜地区には多喜城、多喜南城、多喜北城、梅垣城、青木城が在ったとされ、多喜城の城主は多喜氏と伝えられます。多喜氏の一族からは豊臣秀吉の時代に活躍した中村一氏(滝孫平次)がでています(諸説あり)。なお、多喜城は以前には多喜北城と呼ばれていましたが現在は多喜城遺跡とされ、通常は多喜城と呼ばれています。今回の資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。※梅垣城は→こちら青木城西城館は→こちら多喜城多喜氏は杣川の南側を支配していた青木城は梅垣城の西800mにある多喜城は杣川の河岸段丘に突き出した尾根の先端部に築かれていて、北側は杣川を守りとし南側の背後を多喜南城と多喜北城、梅垣城が守っているように見えます。多喜城Ⅰ郭の高い土塁④、⑤と尾根を遮断する深い...近江・多喜城残りの良い高い土塁と深い掘切が堪能できるコンパクトな山城