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鎌倉幕府滅亡から南北朝時代が好きで、元弘3年(1333)陰暦5月18〜22日の新田義貞公率いる討幕軍の鎌倉攻め関連の史跡を巡っています。このページでは極楽寺坂の近く、神奈川県鎌倉市極楽寺3丁目6 - 7の霊鷲山 感応院 極楽律寺(りゅうじゅさん・かんのういん・ごくらくりつじ)を訪問した模様を紹介します。※以下、寺院名は一般的な呼称「極楽寺」に省略させて頂きました。極楽寺は、極楽寺坂の戦いで被害を受けたようですが、ど...
【鎌倉・極楽寺】茅葺きに あじさい映える 風情かな|60歳からの御朱印めぐり〔053/541〕
極楽寺は茅葺きの山門が印象的な寺院。この季節には紫陽花が咲き、ひなびた山門に彩りを添えます。※誤って削除してしまったので、再作成したものです。
鵠沼山 清光院 万福寺(→神奈川県藤沢市鵠沼神明3丁目)は鵠沼最古の寺院で、鎌倉時代中期の1245(寛元3)年に、親鸞(しんらん)の直弟子で関東六老僧の1人のである源海が開山・創建した浄土真宗大谷派(→東本願寺)寺院です。『新編相模風土記稿』には「寛元三年(→1245年)僧源海創建す、俗姓は安藤駿河守隆光、武州(→武蔵国)荒木住人なり」と記されていますが、「駿河守」というのは誤伝となります。当時の駿河守は伊具北条有時(→義時の...
補陀洛山 安養院 西方寺(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は鎌倉時代初期の1190(建久5)年に、東大寺別当の勝賢僧正が現在の霊鷲山 感応院 極楽寺(→神奈川県鎌倉市極楽寺1丁目)の場所に開山した真言宗単立寺院です。1219(承久元)年に北条重時(→北条義時の3男)が極楽寺を中興開基すると西方寺堂宇は極楽寺境内に移されたようです。極楽寺・西方寺は1333(元弘3)年5月の鎌倉幕府(北条氏)滅亡後も鎌倉公方足利氏及び関東管領上杉氏に保護さ...
北条義時の二人目の妻、姫の前「権威無双の女房で、容姿がとても美しい」「離別はしないという起請文をもらい受け、結婚の儀に及んだという」などと記されています。源頼朝の大倉御所に勤める女官であった姫の前は、『吾妻鏡』に「比企の籐内朝宗が息女、当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり」と記されており、頼朝のお気に入りでたいへん美しく、並ぶ者のない権勢の女房であった。義時は1年あまりの間姫...