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畠山重忠に謀反の疑いありとの讒訴を平賀朝雅より受けた北条時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意するも、息子の北条義時、時房からその軽挙を諫められ、いった...
鎌倉市由比ガ浜2丁目の鶴岡八幡宮の一の鳥居の横に、畠山重忠の息子・畠山重保の墓塔とされる石造宝篋印塔が、畠山重保邸阯碑や庚申塚とともに建っています。鎌倉市指定有形文化財 石造宝篋印塔 明徳四年銘高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保墓塔と伝えられます。塔の基礎には『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393年)造立と見られます。同...
源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対しましたが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、奥州征伐などに戦功を立てました。建久1年(1190)、建久6年(1195)、頼朝再度の上洛に先陣を勤め、忠...