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#257 『信長公記』を読むその32 巻14の5 :天正九(1581)年 安土城でのことなど
『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその5は、安土城での各イベントなどについてです。これで巻14は終わりです、。 相撲大会 諸大名などからの進物の数々 …
大雲院は、織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、1587年、烏丸二条に建立され、その後に寺町四条、1973年に現在地に移ったとされています。祇園閣があることで知られています。通常は非公開。ねねの道から円山公園に行く途中にあります。境内墓地には、織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、大雲院を創建した貞安が引導を渡した縁...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 36.徳川家康・二十四
仁科信盛等の首級は、織田信忠の陣に届けられ、主従の首級は、京で晒し首となった。 首を取られ残された、仁科信盛の遺体は、信盛を崇める、地元の領民により、埋葬さ…
建勲神社は、京都市北区の船岡山の中腹にある神社で、織田信長を主祭神とし、息子の織田信忠を配祀しています。正式名称は「たけいさおじんじゃ」通称「けんくんじんじゃ」と呼ばれています。天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建し、1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀しました。船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点、応仁の乱の際は西方の陣地となりました。10月19日の大祭...
南宗寺の塔頭・天慶院の門前に、山上宗二の一会塚があります。山上 宗二は、千利休の高弟であり、茶匠としては豊臣秀吉に仕えていましたが、天正12年(1584年)に暴言を吐き、秀吉の怒りを買い、浪人に。この時に前田利家に仕えるようになりますが天正14年(1586年)にも再び秀吉を怒らせて高野山へ逃れました。その後は小田原に下って北条氏に仕えました。天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めの際には、利休の計らいで秀吉との...
今回は長野県伊那市の 高遠城【信濃国】の紹介です。 現在は桜の名所としても名高い城址ですが、その過去においては戦国時代の武田方の城として織田軍との壮絶な戦いがあった場所として有名です。 また
織田信長の性格は短気でせっかち?子孫への育て方はどうだった?
TOM 戦国武将の織田信長、徳川家康の子育て術はわかったけど「織田信長の子育ての方法ってどうなの?」 こういっ
今回の城は【美濃国】小里城 の紹介であります。 この城の起源は土岐氏の流れをくむ小里光忠が築いたものだそうです。 その後に武田軍がこの地へ侵攻し近隣の岩村城が攻略され拠点としました。 織田