酒井秀典(さかい・ひでのり)は昭和41年1月13日生まれ、埼玉県出身の陸上自衛官。
防衛大学校第33期の卒業(電気)で幹候70期、出身職種は航空科だ。
平成30年3月(2018年3月) 第1ヘリコプター団長兼ねて木更津駐屯地司令・陸将補
前職は航空学校副校長であった。
(画像提供:陸上自衛隊第1ヘリコプター団公式Webサイト)
(画像提供:陸上自衛隊第1ヘリコプター団公式Webサイト)
2019年3月現在、陸上自衛隊の空の精鋭・第1ヘリコプター団で団長を務める酒井だ。
第1ヘリコプター団は陸上総隊の隷下にあり、同じく隷下にある第1空挺団などと行動を共にする、我が国の空の殴り込み屋であり、最後の砦でもある。
陸自の航空科にある幹部にとって、このポストに座ることは最高に名誉であるポジションの一つだ。
その活躍は多岐にわたり、近年では福島第一原発が爆発した際、原発直上から放水作業を行ったのも、この第1ヘリコプター団の精鋭であった。
なおこの時、当時の陸上幕僚長であった火箱芳文(第18期)が、
「俺も行く!部下にだけ危険な目に遭わせるわけには行かない!」
と最後まで言い張り、周囲を困らせたというのは有名な話だ。
また古くは、1985年8月に発生した日航ジャンボ機墜落事故にあっても現地に駆けつけ、数少ない生存者であった川上慶子さんをヘリに吊り上げたあの役割を果たしたのも、第1ヘリ団の精鋭であった。
ちなみにあの時、川上慶子さんを抱き上げていたのは第1空挺団の某元名物隊員である。
今では鬼籍に入られてしまったが、現役当時には地元の繁華街で半グレ集団に 制裁 説教 してあげるなど、数々の「空挺団伝説」を地元に残した人であった。
また意外に知っている人が少ないのだが、陸自にも空自のように「政府専用機」があり、その機体はこの第1ヘリコプター団が運用している。
隷下部隊である特別輸送ヘリコプター隊が運用するEC-225LPヘリコプターであり、国内の要人の移動にあってはその足となって活躍しているかわいいヤツだ。
管理人も一度だけ、第一空挺団の新年初降下行事で見かけることがあったが、この時は、岩屋防衛大臣の足として飛んできたものであった。
(画像:管理人撮影)
いずれにせよ、国家の危機にあっては常に最前線に立ち、平時にあっては国家の最重要VIPの命を預かる、文字通り空の職人集団である。
そのトップに座る酒井にかかる責任は極めて重く、陸自内外、とりわけ国民からの期待は非常に大きい。
そしてその酒井がこの第1ヘリコプター団を預かったのは、ちょうど陸自大改革がいよいよ本格的に動き始めた、2018年3月であった。
陸自大改革の実施以降、大きく変わった制度や仕組みはたくさんあるが、その要諦は一つである。
「戦力の集中と機動力の向上で、あらゆる事態に即応できる部隊へと再編すること」
と言うものだ。
そのために、機動師団や機動旅団と言った概念が生まれ、主力戦車の一部は機動戦闘車へと置き換えられ、野戦特科においては大口径の火砲が迫撃砲部隊に生まれ変わり、その機動力を向上させた。
そして何よりも、これら機動力を支え確実な初動を担保するために、酒井以下、航空科の役割もますます重要になっている。
南西方面島嶼部で万が一有事が発生すれば、石垣や宮古といった有人島も攻撃に晒される可能性が高い。
それは自衛隊にとって、これら有人島が尖閣周辺への橋頭堡としての役割を果たすからに他ならず、中国人民解放軍にとっては、取引材料としてこれ以上ない材料だからだ。
もしそうなれば、おそらく自衛隊は第1空挺団を投入してでも、これら島嶼部を奪還しにかかるだろう。
その際には、この第1ヘリ団もまたあらゆる手段を使い、実働部隊と行動をともにして最前線に立つことになるはずだ。
いわば、陸自大改革を輸送力の面から支える、我が国の抑止力の根幹ともいえる存在である。
酒井が座るポジションとはそれほどに、日本の平和と安全を直接担保する、極めて重要なポストだ。
それでは、それほどの要職にある酒井とはこれまで、どのようなキャリアを歩んできた幹部なのだろうか。
少し詳細に、その経歴を見ていきたい。
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