2014/05/12

エクリチュール



リゾーム派生をさらに深く追及する為、
ドゥルーズだけでなく、ガタリの著書も読んでいるのだが、



毎回理解に時間がかかっている。
このペースからすれば、今年中にようやく腑に落ちる感じですな(笑)



まだ、本書を説明できるレベルではないが、
この「記号に従属する」で思い出したのはロラン・バルトだ。



ロラン・バルトは言語を「ラング・スティル・エクリチュール」の
三階層に分け、エクリチュールを「書く事」あるとした。



それは自己を「書き変える行為」と言えるだろう。
今日はそんな小話でも。


☞ ☞



ラングとは、我々が使う日本語や、
アメリカ人が使う英語のような「母国語」、
いわゆる国語のことである。



国民は、共通言語(ラング)を用いた
言語共同体というわけだ。



よってこのラングとは強制的なものでもある。
当然、我々は母国語(ラング)を選ぶことはできない。


母親が、父親が話している言葉のみが
選択肢である以上、我々は生まれてすぐ、
母国語の中に閉じ込められていると言えるだろう。



毎日、たくさんの言葉(ラング)のシャワーを浴びることで、
生まれたばかりの子供はその言語で思考し、その言語で主張し、


やがてその言語によって新しい概念を創造する。
その思考はラングの領域から超えることはない。



そう思うと、他国のラングを知るのは大事なことである、
なぜなら、文化を知ることにも繋がるからだ。



☞ ☞




「スティル」とは文体であるが、
それは嗜好性の伴ったものであり、
あくまでも、いち個人的なものだ。



例えばこのブログのようなものは
僕の好みがハッキリした、「スティル」と言える。



キチキチに詰まった記事を好む人もいれば、
スペースを入れた方が良いという人もいるだろうが、



「僕は」こうやって書くのが好きなのだ。
(話を変える時☞☞を使うように)



つまり私的な偏在がスティルである。
長さ・リズム・改行・余白など、個人心地良い文体は
それぞれ異なる。



そして最後がエクリチュール。
冒頭に書いた「書くこと」とは、言わば記憶すること。
「局所的に形成されたもの」である。



これはラングのように選択不可避のものではない、
自ら選べるものである。



例えば大阪に住めば、やがて大阪弁になるのは
こういった選択の自由があるからにほかならない。



地元の言葉で話すのも、大阪弁で話すのも
それは個人の自由意思によってどうにでもなるからだ。



若者言葉も、コンサルのロジカルな話し方でも、
政治家のような曖昧な話し方でも、全て我々は選ぶことができる。



ただ、それは所属する共同体の差異が激しければ
激しいほど、同一化する傾向があるということ。



つまり言語(エクリチュール)によって、
我々は無意識的に既存のカテゴリーにスッポリと収まっているのだ。



ここが個人主義を主張している人にとって
嫌悪される所なのだが、事実そうである。



☞ ☞


例えば、ヤクザが政治家のような話し方だったり、
寺の住職がセールスマンのような話し方だと変である。




僕が「女性言葉」を使うと、間違いなく
そっち系の人だと思われるだろう(笑)



つまりエクリチュールとは選択こそ可能であるが、
一度選べば、カテゴリー化されるものなのだ。



これは言語だけではない。
エクリチュールを選べば、その人の社会性はおろか、
あらゆる価値観でさえも、変容してしまう。



ファッションも表情も、意識も、
全部ひっくるめて「エクリチュール」なのだ。



つまりこの概念はある種の「相応しさ」を希求するということ。




だからこそ、無理のないブランディングを勧めている。
あまりにも自己と乖離した聖人君主モデルでは、
疲れてしまうじゃないか。




☞☞




ちなみに私は個人的な「揺らぎ」を試みている。
ブログの文体がコロコロ変わるのは、そんな人体実験でもある。



そのカテゴリーの中から「与えられたセリフ」を
さも独創的だと思いながら語っているのだと認めたくはない。



端的に言えば僕は「カテゴリー」に入ることで
個体識別されたくはないのだ。



「個体識別」とは「変わりがいくらでもある」と同義、
それが僕には耐えられない。



だからこのブログはアナグラム的な「あそび」でもある、
「窶し(やつし)」ではないが、「崩し」を内包している。



これが俗に言う「かまってちゃん病」というのなら、
その「かまってちゃん病」というカテゴリーからも外れたい。




自由が故に、束縛されるという矛盾したものが
社会にはたくさん、存在しているのだ。





2014/05/11

棲み分け

こんばんわ、坂口です。
これがアップされた頃は新潟にいるでしょう(笑)



さて、今日は「変化」についての小話。
お暇な方だけどうぞ。


☞ ☞ ☞


現在の進化論は統合説が主流です。
例えば、ネオ・ダーウィニズムは自然選択と
突然変異によって生物は進化すると言われます。



この原理の隙のなさは、いったん通過すれば
それが採用され、最終的にそこへ回帰してしまうこと。


つまり円環が閉じられるわけです。
結果、あらゆるものを取り込んで
どんどん大きくなる、まさに統合説の所以でしょう。



一見、綺麗で美しい理論なんですが、
僕はこれがどうも、嫌いなんですな(笑)



この理論で言えば、外部環境が起因ではない
偶然に変化したもの(突然変異)は
決して行き残るために生まれた訳ではない。


ただ、その変化は生存競争の中、
「自然選択」の結果として淘汰され、
生き残ったものだけが、世界に介入する、と。



そんな突然変異と、自然選択の繰り返しが
この理論の根っこにあるんです。



つまり変化や変異は偶然であるけれど、
そこからの競争原理は、必然だ、と。



ここが嫌いなんです。
なんで競争原理が必然なんですか。


確かに、遺伝子、生物学的に言えば
そう「見える」かもしれません。


しかし、人間。ことさらビジネスにまで
この理論を 持ってくる方々、一度考えて頂きたい



「人間=生存競争」じゃないでしょう。
もっと素朴に考えませんか。



☞ ☞


最近「適応者こそ強者」という内容の
経営セミナーで賑ってます。



生存力がある大資本が「強者」ではなく、
環境に適合した者=「適者」こそ強い、と。



よって、変化の激しい今の時代では、
意思決定が速く小回りのきく中小企業が
適者(強者)の要素を含んでいる為、



それを活用するビジネスモデルが
今後必要になってくる、というものです。



僕はモデルに対しての批判はありません。
リゾーム型FCも「個」と「最適」がコンセプトですから。



ただ、ここで無意識的に使ってる
「強者生存」、これが気に食わない。




変化したもの「だけ」が生き残る?



もしかして、自分だけが生き残る
ために「変化」を取り込もうとしてるのでしょうか。



それって「変化こそ優れている」という
競争原理、優勢劣敗の考え方じゃないですか。



だったら次のシナリオは確定しますわ。



「より変化した者だけが生き残る競争原理」
これに尽きます。



市場の拡大が目的である以上、
避けられない、そうでしょう?



☞ ☞


僕はその分野の専門家ではないですが、
変化とは、棲み分ける手段だと思ってます。



たとえば、山へ向かった種が我々で、
海に残った種がクジラとかイルカですが、



どっちも生き残ってるわけでしょう、
本来、海と山、きれいに「棲み分け」が起きているわけです。



魚が劣っていて昆虫が
優れているなんて、言いませんよね。



陸に上がった方を進化と定義しているのは
結局は人間の目線なわけです。



比較して嬉々としているのは
人間くらいなもんですわ。



☞ ☞

鳥だってそうですよ。
別に生き残るために空を選んだわけじゃない。



さらに言えば、飛ぶために羽が進化したのか、
「羽が進化した結果、飛ぶことができた」のか
分からないじゃないですか。



つまり、種の進化的な変化であって、
生存の有利不利とは断定できない。



偶然の自然選択とは違った
種としての意志の出所は置いといて、



生存に有利な「形態」、という考えは
どうも我々の勝手な解釈にしか見えないんです。


つまり進化論は人間の頭の「投影」であって、
世界の実体ではない。


☞ ☞



ダーウィンの語る世界が正しいというのは、
つまり、ダーウィンを神としてるのと同じ事でしょう。


それだったら、僕は今西錦司氏の
言うような「共生」の理論を選びます。


一つづつの自然なんてものはない、
その全てが繋がった「一つの自然だけ」がある、と。



氏は、自然の中では最適者が生き残れる
のではなく、「運がある者」であると言います。



運だけはどうにもすることができない、
ただ、こっちの方が、よほど等身大です。



それを超えた理論なんて、
大体が 頭で作られた偽物のような気がしますね。


2014/05/01

僕は道楽者



さてGWとあって、ここ福岡でも
たくさんのイベントがあるんですが、


北九州私立美術館で、3日から
「美味道楽七十年 魯山人の宇宙展」が開催されますo(^▽^)o




アニメ「美味しんぼ」のモデルで有名な魯山人、
本人はその人生を「美味道楽七十年」と回顧していますね。




書家であり篆刻家であり、陶芸家。
さらには料理評論家でもある氏だからこそ言えます。




なるほど、美と味の「」を「楽しむ」。
今日はそんな「道楽」の小話。


☞ ☞




さて、普通「道楽」といえば、「道楽息子」と言われるように
放蕩的な人の事を指すのですが、




もともとは仏教用語であって、
「仏道を求める」というのが本来の意味です。




道楽は「どうらく」ではなく「どうぎょう」と読みます、
楽とは「願う」、つまり仏の道を楽(ねが)う人の事です。


人生を酸い・甘い・辛い・渋い等と例えますよね。
仏教では、人生の色んな味をちゃんと味わいながら、
それを楽しみなさいよ、と説いています。




そんな悟りの道(人生)の楽しさが「道楽」ということです。
本来は世間で言われるような「快楽」が道楽ではない。



仏典を見れば「楽に二種あり、俗楽と道楽となり」と
書いてます、昔から俗楽に流される人は多かったのでしょう。



しかし、魯山人はあえて「俗楽」を求めます。
それはひとえに俗の中の「真善美」を発見したからでしょう。



実は、道楽に関しては僕もそっち派なんですな(笑)



真剣な遊び(道楽)は本質に繋がる、
僕はそう思っているタイプの人間です。




「人を感動させよう」、とか「満足させよう」
などは一切ない、完全な自己満足・自己中心の行動原理。



あるのは徹底した食道楽の追及。




本職じゃなかろうと、専門知識がなかろうと、
好きなもんを好きにやる、それでいいんですよ。
(人に迷惑さえかけなければ)






僕も進みますぞ、オタク道(ちがうか)
てなわけで、3日に北大路魯山人展に行って来ます(^O^)/


  翻译: