リゾーム派生をさらに深く追及する為、
ドゥルーズだけでなく、ガタリの著書も読んでいるのだが、
毎回理解に時間がかかっている。
このペースからすれば、今年中にようやく腑に落ちる感じですな(笑)
まだ、本書を説明できるレベルではないが、
この「記号に従属する」で思い出したのはロラン・バルトだ。
ロラン・バルトは言語を「ラング・スティル・エクリチュール」の
三階層に分け、エクリチュールを「書く事」あるとした。
それは自己を「書き変える行為」と言えるだろう。
今日はそんな小話でも。
☞ ☞
ラングとは、我々が使う日本語や、
アメリカ人が使う英語のような「母国語」、
いわゆる国語のことである。
国民は、共通言語(ラング)を用いた
言語共同体というわけだ。
よってこのラングとは強制的なものでもある。
当然、我々は母国語(ラング)を選ぶことはできない。
母親が、父親が話している言葉のみが
選択肢である以上、我々は生まれてすぐ、
母国語の中に閉じ込められていると言えるだろう。
毎日、たくさんの言葉(ラング)のシャワーを浴びることで、
生まれたばかりの子供はその言語で思考し、その言語で主張し、
やがてその言語によって新しい概念を創造する。
その思考はラングの領域から超えることはない。
そう思うと、他国のラングを知るのは大事なことである、
なぜなら、文化を知ることにも繋がるからだ。
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「スティル」とは文体であるが、
それは嗜好性の伴ったものであり、
あくまでも、いち個人的なものだ。
例えばこのブログのようなものは
僕の好みがハッキリした、「スティル」と言える。
キチキチに詰まった記事を好む人もいれば、
スペースを入れた方が良いという人もいるだろうが、
「僕は」こうやって書くのが好きなのだ。
(話を変える時☞☞を使うように)
つまり私的な偏在がスティルである。
長さ・リズム・改行・余白など、個人心地良い文体は
それぞれ異なる。
そして最後がエクリチュール。
冒頭に書いた「書くこと」とは、言わば記憶すること。
「局所的に形成されたもの」である。
これはラングのように選択不可避のものではない、
自ら選べるものである。
例えば大阪に住めば、やがて大阪弁になるのは
こういった選択の自由があるからにほかならない。
地元の言葉で話すのも、大阪弁で話すのも
それは個人の自由意思によってどうにでもなるからだ。
若者言葉も、コンサルのロジカルな話し方でも、
政治家のような曖昧な話し方でも、全て我々は選ぶことができる。
ただ、それは所属する共同体の差異が激しければ
激しいほど、同一化する傾向があるということ。
つまり言語(エクリチュール)によって、
我々は無意識的に既存のカテゴリーにスッポリと収まっているのだ。
ここが個人主義を主張している人にとって
嫌悪される所なのだが、事実そうである。
☞ ☞
例えば、ヤクザが政治家のような話し方だったり、
寺の住職がセールスマンのような話し方だと変である。
僕が「女性言葉」を使うと、間違いなく
そっち系の人だと思われるだろう(笑)
つまりエクリチュールとは選択こそ可能であるが、
一度選べば、カテゴリー化されるものなのだ。
これは言語だけではない。
エクリチュールを選べば、その人の社会性はおろか、
あらゆる価値観でさえも、変容してしまう。
ファッションも表情も、意識も、
全部ひっくるめて「エクリチュール」なのだ。
つまりこの概念はある種の「相応しさ」を希求するということ。
だからこそ、無理のないブランディングを勧めている。
あまりにも自己と乖離した聖人君主モデルでは、
疲れてしまうじゃないか。
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ちなみに私は個人的な「揺らぎ」を試みている。
ブログの文体がコロコロ変わるのは、そんな人体実験でもある。
そのカテゴリーの中から「与えられたセリフ」を
さも独創的だと思いながら語っているのだと認めたくはない。
端的に言えば僕は「カテゴリー」に入ることで
個体識別されたくはないのだ。
「個体識別」とは「変わりがいくらでもある」と同義、
それが僕には耐えられない。
だからこのブログはアナグラム的な「あそび」でもある、
「窶し(やつし)」ではないが、「崩し」を内包している。
これが俗に言う「かまってちゃん病」というのなら、
その「かまってちゃん病」というカテゴリーからも外れたい。
自由が故に、束縛されるという矛盾したものが
社会にはたくさん、存在しているのだ。