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発行者/奈良県大和郡山市・浅野善一

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ジャーナリスト浅野詠子

記者講演録)秀長100万石の時代と大和郡山のまちづくり

平城京の羅城門の礎石と伝えられている郡山城天守台の石垣=2023年12月、大和郡山市城内町

平城京の羅城門の礎石と伝えられている郡山城天守台の石垣=2023年12月、大和郡山市城内町

 「奈良の声」記者・浅野詠子は「明日の郡山を創る市民の会」から秀長とまちづくりをテーマに講演を依頼され、2023年12月16日、同市役所交流棟「みりお~の」で、大和郡山の魅力について話しました。本稿はその内容を修正し再構成したものです。

文学に描かれた天下人の補佐役

 今年(2023年)7月、水道広域化の問題点について大和郡山市内で講演しました。そのときお話しした地下水の市営浄水場は、本日取り上げる郡山城の堀、環濠(かんごう)など地域の歴史資源の仲間たちであると思っています。

 秀長は天文年間の1540年、尾張国愛智郡中村、現在の名古屋市で生まれました。豊臣秀吉の実弟であり、郡山城主として大和、紀伊、和泉の計100万石を領した時代があり、大和郡山の中心市街地の基盤づくりや産業育成に大きな影響を及ぼしたといわれます。そして文学の世界にあっては天下人の補佐役として、この上ない魅力が描かれた人です。

 昨年は歴史学者数人の筆による秀長特集号が「月刊大和路ならら」に掲載され、秀長関連の論考としては最新の類に入るのでしょう。城主秀長時代の郡山城を巡っては、大和郡山市役所で文化財保存を担当した山川均さんが天守台発掘成果などについて書き下ろしています。

 本日、皆さんにお配りしたA3のカラー1枚は、県立郡山高校の日本史授業の副読本として数年前に採用された書籍の一部です。われわれの世代では平城京の範囲は九条までと教わりましたが、この通り、市などが実施した発掘調査により、十条まで広がりを見せていますね。日本史を塗り替えています。大型商業施設「イオンモール大和郡山」の店舗進出に伴う出来事でした。

 こうした発掘の成果により、大和郡山市下三橋町の辺りは左京十条として注目を集めるようになりました。それもよいですが、元明女帝の和銅7(714)年、朝鮮半島の新羅から使者が訪れたとき、平城京門外の三椅(みつはし)で騎馬170騎をもって迎えたと「続日本紀」にあります。そもそも「三橋」という地名自体に歴史があります。

 この平城京の玄関、すなわち羅城門の礎石が中世・戦国の郡山城築城に使われていたという話は痛快です。天守台隅角部の石材がこれに当たります。築城が急がれたという背景もあるでしょうが、現代よりもっと自由なとらわれのない精神風土が中世・戦国にあったのだろうかと想像します。市は「伝・羅城門礎石」と位置付けていますが、「伝」という文字がいつか取っ払われるような大発見があることを楽しみにしています。

 本日、ご紹介するのは、名利を求めようとしなかった魅力ある人物、秀長にまつわる逸事です。堺屋太一が1985年、小説に著わし、後に文庫版として「全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯」(PHP文庫、2015年)が刊行され、以来、版を重ね現在7刷。本がなかなか売れないといわれるこの時代に読まれ続けていますね。

 私は郡山城跡のすぐそばの駅前の啓林堂で2023年6月22日付の7刷、刷りたてのほやほやを入手しました。地元の書店で買える本は、ぜひともそこを利用したいものです。一人でできる地域振興だと思います。

 小説といえども歴史物ですから、堺屋太一は史実の資料収集や考証に相当な労力を費やしたことでしょう。城山三郎の「落日燃ゆ」は小説なのに、巻末で詳細な参考文献を紹介しています。吉村昭の小説「戦艦武蔵」は刊行後に「戦艦武蔵ノート」という単行本が出され、執筆材料を得た秘密などが暴露されています。この堺屋の秀長本ですが、小説でありながら前書きと後書きでは堺屋独自の秀長補佐役論が展開されています。

 では堺屋作品のごく一部ですが紹介しましょう。まず清洲城の場面。織田軍の本拠ですね。尾張の農民だった秀長が兄秀吉の家来になって程ないころでした。城の石垣が30間にわたり崩れるという事態に見舞われます。大手門の脇から角矢倉まで、相当な範囲で崩落したようです。

 工期を短縮することは信長からの至上命令でした。大雨が続いて堀も増水し、最悪の施工条件でした。任せられた秀吉は、工区を細分化して受注業者の各班を競わせ、工事のスピードアップを実現します。

 ところが、石積みの技術者同士の争いが絶えず、材料の奪い合いなどによる小競り合いまで起きてしまいます。そこで補佐役、秀長の登場となります。通常なら過失の度合いが大きい側に賠償させるのでしょうが、秀長は自ら和解金を出して双方を落ち着かせたようです。非のある側を指名停止にするのではなく、受注業者にけんかを起こさせてしまった、元請責任の自覚を感じさせます。

 材料を盗まれたと訴える者には「夜なべ手当」と称し、やはり金を与えたそうです。残土の処分も割を食う仕事だったようですね。今日においても公共工事の残土搬出は、下請け構造の下部にあって厳しい仕事です。あのときの清洲城は、堀の水を抜いて浚渫のような業務が急務だったでしょう。残土処分に手を抜かなかった者たちには、飯と酒を余分にふるまったそうです。秀長流の手厚い残業手当を思わせます。

 もし石垣が崩れた現場で、修復を担当した人々にインタビューすることができたら「郡山城のような転用石は出てきましたか?」と聞いてみたいところです。先ほど、郡山城の石垣は、平城京の玄関、羅城門の礎石まで転用したと伝わると申しました。のみならず墓石やら地蔵さんやら五輪塔、石灯籠、そして石臼に至るまで1000石余りとされる、おびただしい転用石材が使われていたことが大和郡山市の調査で判明していますね。石材が不足していたことがうかがえます。

 こうした転用石材を巡って、俗説では、仏教勢力の否定などと、戦国の乱世らしい言われ方もします。みなさんはどう思われますか。私は以前、奈良市埋蔵文化財センターの所長だった考古学者の森下惠介さんに所感を聞いたことがありました。

 永禄年間のことですが、奈良盆地に勢力を持っていた古市氏という土豪が古市新城を築くに当たり、やはり墓石を潰して利用していたそうです。水路の整備には地蔵さんを使ったといいます。この古市氏とは、僧兵たちの親玉であり「仏教に近い存在だった」と森下さんは解説されています。

 金春など能楽のパトロンとしても知られる古市氏は、かなりの風流人だったそうで「荒々しい性格の武将ではなかった」と森下さんは分析していました。また、奈良市菩提山町の名刹、正暦寺の中世遺構を市埋蔵文化財センターが発掘調査をした際にも、建造物の築造にやはり石仏が使われていることが判明したそうです。

 森下さんは「仏教勢力を否定して城の石垣に墓石を使ったという説は根拠が薄くなります。仏の力を借りて石垣を強くする、崩れにくくする、そんな信仰があったとも考えられます」と興味深く語ってくださいました。

 本日、このような調子でお話して参りますと、時間があっという間に過ぎてしまいます。あと、鵜沼城、墨俣城、長浜城にまつわる逸話を紹介して、堺屋ワールドをいったん締めくくりたいと思います。

 文庫版は800ページになんなんとする大作。秀長が郡山城に入部する100万石の時代がどんなふうに描かれるのだろうかと、興味津々でページをめくっていました。しかし残念ながら賤ヶ岳の合戦で小説は幕となります。続編を意識した大和時代の秀長を誰かに描いてもらいたいです。一度限りの懸賞つき公募でもよいので、若手作家の登竜門になるような催事をしても面白いと思います。

 さて堺屋が取り上げた鵜沼城の時代。木曽川北岸の岩盤などを生かした奇城として知られますね。秀吉の美濃攻略によって、城主の大沢氏が逃亡するという局面に至るのですが、トップが逃亡してしまうので、残された家臣団も郷民も心が冷え切っているときに秀長が赴任してきます。このような占領地において秀長がじっくり地元民と対話していた場面を堺屋太一は丁寧に描いています。織田家の新たな領地として、検地のような税制再編の業務を進めることも秀長の役目でした。

 次に墨俣城の話。織田方が敵地に築いた橋頭堡ですが、秀吉の抜群のアイデアによる一夜城築城の逸話はあまりに有名ですね。この城で秀長が任された重要な任務は留守番でした。

 少しも気楽な業務ではなくて、城主の秀吉が不在であることを敵方に知られればアウトという緊迫した場面です。敵軍の動静や周辺の地形などを密かに探る部隊を出して綿密な警戒に当たるのですが、城内では併行して軍事訓練を行っています。随分と長かった10日間の留守番であったことでしょう。

 堺屋のストーリーはやがて近江の長浜城を描きます。秀吉が初めて城持ちの大名に昇進した時代になりますね。ご存じ浅井長政の領地だった土地を支配するのですが、補佐役の秀長は近江商人が培ってきた会計の実力に大いに驚きます。そして占領した土地の人々が財務の先生になるのでした。

 清洲城に仕えて以来、尾張でも美濃でも、帳簿は備忘録のような簡易なものにすぎなかったけれど、近江のそれは違っていました。複式簿記とまではいえなかったようですが、米、味噌、材木など、品目ごとの台帳があり、いずれも連結するような仕組みがあって、それぞれの帳面の末尾などに独特な印が付されてあったといいます。

 「近江の者は何冊もの重い帳簿を持ち歩いている」と、尾張の人は当初は不思議に思ったのですが、これが威力を発揮することに気づきます。近江方式で帳簿を付けると残高が正確に分かり、不正も発見しやすくなったそうです。どえりゃあ術だと感嘆したことでしょう。

 この折、安土城の築城を信長から命じられていたので、さっそく建設時の財務に応用したそうです。いろいろな人材が近江の地で登用され、増田長盛もそうした一人でした。会計、算術が抜群にできる。本日のお話の後半で、郡山城の外堀を普請したこの武将について触れることにします。

 同じころ登用された、お寺の小僧さん上がりの少年もすごい計算が速いと陣営で話題になります。会場のみなさん、うんうんと笑顔でうなずいていらっしゃいます。お察しの通り、石田三成であります。

 近江では、片桐且元もスカウトしました。後に初代小泉藩主(陣屋跡、現・大和郡山市小泉町)となる片桐昌隆の実兄ですね。且元は淀殿の側近となり、後に反目となって徳川方に大阪城の詳細な見取り図を渡したといわれます。これにより、大坂の陣の終戦が少しは早まったのでしょうか。

まちづくりに欠かせない人材とは

記者が読んだ堺屋太一著「全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯」

記者が読んだ堺屋太一著「全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯」

 堺屋太一はなぜ秀長に着眼したのでしょうか。補佐役小説ともいうべき、この労作の前書きで述べていますが、自己宣伝の多い現代社会の中で、秀長の存在はひどく特異に思えたそうです。当時、秀長を取り上げた作品はほとんどなかったといわれます。創作の意欲がふつふつと湧いてきたことでしょう。

 まちづくりは肩書きで堕落する―。そんな至言を聞いたことがあります。たとえ歴史が塗り変わろうとも、理想の人物を追求することにかけて小説は長い命を宿すことがありますね。

 堺屋の序文の言を読んで、小林道雄さんという少年問題に強いライターの言葉を思い出しました。月刊誌『現代』(休刊)で活躍した方です。戦後のマスコミの態度について「目立つことが、あたかも価値があるように少年たちに伝えてしまった」と鋭く批判していました。

 今日ではSNSの普及によって、益々自己宣伝があふれかえるような世相でしょう。他人に認められたいという思いが強すぎると、承認欲求という病理のように語られることさえあります。

 それだけに堺屋ワールドの補佐人・秀長の世界は、現代に投げかける意味が深いと思いました。秀長には、無色透明な度量が備わっているように感じます。まちづくりにおいて進んで獲得したい人材であります。

 では思いつくままに、2、3の人物から無色透明な度量の片鱗を見出してみたいと思います。首相になった人ですが、小渕恵三という政治家。ある元官僚が著書の中で披露していますが、小渕さんからあることについて質問を受けたとき「よく分からない」と、30回近くも聞き返され、ようやく納得されたというのです。

 世の中には、分からないことについて、格好をつけて分かったふりをする政治家が少なからずいると思います。分からないことは分からないとして、政治家がもう少し愚直な態度を貫いていれば、社会は少しは違った形になっているのではないでしょうか。

 小渕さんにまつわるこうしたエピソードは、毛色の違う2、3の政治記者も似たような横顔について書いており、本当のことだと思います。

 では、無色透明な度量が感じられる政治家をもう一人。岐阜県多治見市の市長だった西寺雅也さんを挙げましょう。今から20年ほど前、西寺さんが現職だった当時、マニフェストという期限や財源を明示した選挙公約を作ろうという運動がありました。

 あれもやります、これもやりますの総花的な公約ではなく、いつまでに、そして財源はこうして確保すると明記した公約です。三重県知事だった北川さんが提唱し、リベラルな候補者らの間で少しずつ広がりました。今日のような保守台頭の時代では、鳴りを潜めてしまったかもしれません。

 市長選で優れたマニフェストを作ろうとすれば、現職に有利なことがあります。なぜなら市役所中の情報を自在に集めることができるからです。新人は、情報公開制度を活用しながら一から庁内の情報を集めなければなりません。

 現職にそんたくして、条例が認めている開示延長などの規定を担当者が乱用でもしたら、選挙期間なんてすぐにも終わってしまいそうです。では西寺さんはどうしたのか。新人候補でも元職でも、マニフェストを作成する目的で市役所に情報を求めてきた人々、陣営に対して、庁内のあらゆる部署は情報提供に協力するよう掟をつくるのです。

 要綱というかたちで制度を整え、これなら市議会の議決が要りません。少しも独裁ではなく、市長のリーダーシップとはこういう行動でしょう。

 でも現職の陣営は冷や冷やしたでしょうね。だって、若い女性などの新人候補が立派なマニフェストを引っ提げて挑んできたら大変です。しかし西寺さんにとっては、自分の当落より、選挙の活性化、すなわち、まちの未来を住民が決める前哨戦の充実が大事だったのかもしれません。

 無色透明な度量。民間では廃業した山一證券の残務処理をした12人の社員が浮かびます。清武英利さんが著書にして記録を残しました。明日、もう会社がなくなるのに、粉飾決算などの社内調査に尽力し、株主や顧客に最後の説明責任を果たした人々でした。

 もう一例。理想の福祉職とはどんな者たちを指すのか。奈良県庁にいたベテランのソーシャルワーカーから意見を聞いたことがあります。医師でも看護師でも保健師でもワーカーでも事務職でも、福祉に関与するあらゆる人材を指していたと思います。

 まずスキルが高い。これは当然ですが同時に、プライドがそれほど高くない人。そういう人材が良いという意見です。スキルは努力次第で磨くことができますが、プライドを低く保つなんてことは難しい態度でしょう。ジョークが得意などの話術を磨くことでもなさそうです。自分は必ずしも正しくないかもしれないと、謙虚に内省できる力を持っている人でしょうか。本当なら、この社会の主人公であるはずの障害者や病者らの補佐役としての力量でしょうか。

 こうしたタイプとは反対に、スキルが低くて、プライドだけは高いという、おごる者たちが跋扈(ばっこ)することはありませんか。「上から目線」のような態度が抜けきらないと、市民から嫌われてしまいますね。

 堺屋ワールドでは、秀長が貧農の出自を隠さず、むしろ進んで半生を披露しながら郷民らと語らう場面が描かれています。22歳まで百姓一筋、その後、兄の秀吉から家来になれといわれ武士になると書いてあります。人生50年の時代だから「当時の22歳は、現代なら中年に当たる」と著者は分析していました。

 戦国時代ですから、油売りから城主になった斉藤道三、堺の商人から大名になった小西行長、僧侶から武将に変じた者などいろいろいて、さながら転職の王国です。しかし補佐役として傑出していた秀長が、農作業に従事した半生で身に付けたものは一体何だったのでしょうか。

 武士になる前、秀長は田畑をなでるようにして作物を育てた、という記述が堺屋の本の中に出てきます。奈良県の伝統的な吉野林業であれば、撫育(ぶいく)という丁寧な施業が有名ですが、田畑をなでるようにして栽培するという話はまだ聞いたことがありません。現代は日本の食糧自給率を高めることが命題ですし、何かにつけ農業は時代のキーワードですから、秀長の農業人としての半生を掘り起こす研究に期待したいところです。

大和郡山市の水景の魅力を探る

洪水調節の機能を持つ郡山城の堀=2021年5月、大和郡山市城内町

洪水調節の機能を持つ郡山城の堀=2021年5月、大和郡山市城内町

 今度は、まちという空間について、日々の私の観察を通して語ってみます。散歩中に「これはいいなぁ」と思っていた水辺が一つ道路建設により消えてしまいました。高付上池と呼ばれ、郡山城外堀の原形をとどめていた最後の地点でした。喪失感の大きさといったらありませんが、改めて大和郡山市の一員であることを気づかされました。

 しかし希望はありますよ。郡山城の外堀跡を巡っては、流域治水に活用されている事例が市内にあり、共感しています。災害劇甚化の時代といわれる今日、残された歴史的な資源をいっそう保存・活用しながら洪水調節機能を高めることに期待しています。

 市内のある先例ですが、外堀としての役割を終え、後に農業用ため池として利用されていた正願寺上池は、豪雨のときに1800立方メートルの治水容量を確保できるよう施工されています。現地には江戸期の郡山城下復元図が掲げられ、その地点が外堀のどこに当たるのかを図示しています。有意義な表示だと思います。ただ、ふだんは水がカラカラで、コンクリートの三面張りの施工ですし、どこか殺風景だなあと思います。

 これに対し、同じ市内でも、郡山城の中堀である鰻堀池は1万5800立方メートルの洪水対策量を確保する施工がなされ、しかも常時、水をたたえ、城跡の水景を盛り立てています。

 同様に城跡の中堀の鷺池も8920立方メートルの対策量を確保していますが、普段はやはり水量も豊かで、色々な野鳥がやって来ます。市民が憩う水辺の空間でしょう。

 鰻堀池は市の施工、鷺池は県の郡山土木事務所が担当しました。元外堀の正願寺上池ですが、親水空間の機能を加えることができないかと思うのですが、まずは多自然型の護岸などに修景してみてはどうでしょうか。

 では郡山城外堀が普請された時代にさかのぼってみましょう。秀吉政権の五奉行の一人、増田長盛が普請しています。先ほど申し上げました近江長浜城主の秀吉家臣団に加わり、抜群の算術能力を示して周囲をうならせた人物ですね。長盛の前の城主、秀長が外堀の築造を構想しなかったはずはないと研究者らは指摘しています。

 本日、冒頭でお話しした地域雑誌の秀長特集号の中に、これは珍しいと思わず膝を打った論考がありました。「郡山発展の立役者 増田長盛」というタイトルで石畑匡基さんという歴史学者が執筆しています。長盛は天文14年生まれといいますから秀長より5歳若い武将です。

 この論考には、長盛が秋篠川の流路を変更した話が出てくるのですが、まさに秋篠川を付け替え、川跡の一部を外堀に活用した当時の出来事に違いありません。付け替え工事によって、新たな流路を佐保川に接続させたことはよく知られていますが、石畑さんが言及する来生川、羅生川は、今日の佐保川のことでしょう。

 秋篠川の付け替えにより、以前の川跡を外堀に生かした工事は見事でしたね。しかし、これにより「困った」という集落が現れたのです。これまで近くの秋篠川から農業用水を引いていた高田村(現・大和郡山市高田町)は、取水が困難になってしまうという事態に直面したそうです。

 大和川の付け替え大工事にしても、新川が来る柏原村(現・大阪府柏原市)なども幕府に迷惑を訴え出たことが思い起こされます。みんなにメリットがある公共事業なんて、そうそうないでしょう。

 それで高田村はどうしたか。石畑さんの研究によりますと「ふせ樋」という水路を設け、来生川から新たな取水をしようと村人たちは画策しました。すると、こんどは下流の集落が黙っていません。すなわち窪田村(現・安堵町)の側は自分たちの水利権を脅かされるとして、その取水を中止するよう郡山城主、増田長盛に訴え出たというのです。「目安」と呼ばれる訴状が提出されたのでした。

 今日で言えば、仮処分申請のような訴えでしょうか。判事・長盛のお裁きは、窪田村側の訴えを認め、高田村の側は、流路変更された新川の秋篠川から取水するよう是正指導が行われています。取水地点が遠くなって、そこに新たな水路を設けることは苦労が伴ったことでしょう。外堀普請の背景には、こうした営みがあったのですね。時代は下って、現代は、外堀跡を生かした独自の治水工事なども行われており、知ってよかったと思います。

 こんな面白い古文書を石畑さんは一体どこから見つけ出したと思いますか。安堵町歴史民俗資料館が所蔵する「増田長盛判物(はんもつ)」という資料だそうです。感動しました。ひところ、文化財を保存する公務について「稼がない」と非難したり、学芸員の職務を軽んじたりする与党政治家の暴言が目に余りました。まったく共感できません。歴史的資料を丹念に収集、保存する地道な業務があってこそ、秋篠川の付け替えにまつわる逸話を生き生きと、手に取るように知ることができたのですから。

 これからもいろいろな逸話が発掘され、大和郡山の風格が増していくことでしょう。ところで、江戸期町家の景観形成にかけては全国的にも成功例とされる奈良市ならまちですが、ならまちに乏しくて大和郡山に豊穣なるもの…それは何でしょうか。水に関わる地域資源であると私は思います。

 戦前のならまちは小川が流れていました。戦後の観光振興の一環として、水洗トイレを普及させる狙いもあって、河川が下水道の暗渠になりました。消えてしまった代表的な小川が、万葉集に歌われた率川です。

 今も大和郡山には個性ある水辺がたくさん残っていますね。城の堀、環濠集落、金魚池、ため池、背割水路など、それぞれの歴史的背景や流域の機能、産業への貢献などを挙げていくときりがありません。

 先ほど、郡山城跡の堀を洪水対策に活用している好例を紹介しました。稗田の環濠集落も4800立方メートルの洪水対策量を確保する施工がなされ、こちらも歴史資源を活用した治水ですね。賛成です。ただ、国土交通省の補助金がついて、これに伴う施工規定などと関係するのか、いかにもコンクリート施工という雰囲気に仕上がっています。もう少し土で固めたような堤にする余地はないものでしょうか。ご意見をお聞かせください。

 数年前、橿原市教育委員会が、今井町の環濠を堂々たる姿に復元したのですが、良い意味でどこかどぶ川然として本物っぽい感じがします。過日、散策会のガイドをしましたら、年輩のご婦人が「子どもの頃の小川みたい」と感慨深げにもらしていました。この水は一体どこから調達したと思いますか。近隣の飛鳥川から引いたのかなとも想像しましたが、下流の水利権者らとの調整が面倒な気もします。正解は地下水でした。復元環濠をたたえる、こうした水源も地域資源ですね。

洪水調節の機能を持つ環濠集落の堀=2021年1月、大和郡山市稗田町

洪水調節の機能を持つ環濠集落の堀。水面に氷が張っている=2021年1月、大和郡山市稗田町

大和川水系の土木ゆかりの一族

 先ほど、長浜城時代の秀長の逸話をお話しした折、新たに家臣団に加わった片桐且元について少し触れました。

 一大名の且元ですが、奈良ゆかりの高層、行基、重源とある事柄で共通点がありました。3人は、大阪の有名なため池である狭山池(大阪狭山市)の歴代改修者として、大阪府立狭山池博物館の資料に列挙されています。行基が改修したというのですから、狭山池の築造そのものはずいぶん古いのですね。重源はご存じ鎌倉時代の人です。

 慶長年間に改修を成したのが片桐且元でした。文禄の大地震により、堤体や樋、余水吐けなどが相当に傷んでいて、これを修復し、さらに堤体をかさ上げして貯留量を250万トンにまで増やしたそうです。天理ダム(大和川水系・布留川)などの貯水量にも匹敵します。先覚的な水資源開発だったことでしょう。

 ため池の文化をたどっていくと、近鉄あやめ池駅そばの蛙股池(奈良市内)は、日本書紀の菅原池ではないかと伝わっています。書紀の和邇池が、大和郡山市内に水利権がある広大寺池とも言われます。いわば奈良盆地の原風景とも呼べる身近な水辺ですね。ことに大和郡山市においては、郡山城の中堀自体が、元々中世に築造されたため池と伝わり、現在も農業用水として使われていると聞きました。歴史と生活とが見事に重なり合っていますね。

 もう一つ、水に関わる事業として且元は、大和川の亀の瀬という難所を掘削する事業に着手したそうです。いわば河川交通における物流の要衝を、幕府が整備しようとした際の現場の責任者だったのでしょう。

 且元は「城づくりなどの土木・建築工事に優れた能力を発揮した」と狭山池博物館が刊行した「常設展示案内」で紹介されています。

 甥で小泉藩2代城主の片桐貞昌は、幕府による大和川付け替え事業の新川予定地を見分していました。付け替えの大工事は宝永元(1704)年のことですが、貞昌はこれより44年前、新しい大和川のルートとして検討されていた、旧弓削村(現・大阪府八尾市)旧柏原村(現・同柏原市)から河口付近まで「間縄を引かせる」という記述が八尾市史・資料編に出ているそうです。

 こうして見ていきますと、片桐一族というのは大和川水系の土木とゆかりが深いですね。本拠地の小泉藩の陣屋跡には、薙刀(なぎなた)池というため池がありますが、元は秀長入部のとき、家老の一人がここに居を構え、構築した池だったそうです。下って元和年間、小泉藩初代藩主、片桐貞隆が陣屋を設ける際に「この池や一連の堀をうまく利用して、その中に家中屋敷を設けた」と文献(「ふるさと大和郡山 歴史事典)に書かれています。

 「一連の堀」というのが、中世の地侍、小泉氏の拠点であった小泉城跡の堀に当たるでしょうか。先日、現地に出掛けてみると、薙刀池は堤を保護するために水が抜かれていました。現役のかんがい池であることがうかがえます。近辺にはどぶ川のような幅の広い水路があり、色鮮やかなニシキゴイが数匹泳いでいて、往年の堀跡だろうかと想像力をかきたてられました。

 片桐の小泉陣屋跡、順慶の筒井城跡、そして秀長の郡山城跡と、大和郡山市内には幾つもの城下町の面影が万華鏡のように点在し、たいした土地だと思います。

 ところで、本日、司会を務めてくださっているのは東大阪市ゆかりの方と聞きました。つけ替え前の旧大和川が流れて込んでいた代表的な土地の一帯であり、河川跡は河内木綿の一大産地となりましたね。

 言うなれば元禄までは、大和国も河内国も同じ淀川水系でありました。思えば、出雲の名族、尼子氏が滅亡した上月城攻防で、秀長は織田軍の殿(しんがり)を務めますが、悲運の山中鹿之助の遺児は、後々の鴻池家の系譜に連なるそうですね。この鴻池新田会所(東大阪市)こそ、大和川つけ替えに伴う最大級の文化財であり、感慨深いものがあります。

 今も東大阪市の人々は地元観光の散策マップなどをこしらえるとき、旧大和川が走っていた河道を知らせるため、現在の道路位置図の上に一目で分かるように水色の帯を描いておられます。先人の成し遂げた河川付け替え大工事に誇りをもっていることがうかがえます。

 これからは郡山城跡の外堀と深く関わる秋篠川付け替え工事などもいっそう掘り起こしたいものですね。大和郡山市の観光ボランティアの方々も、消えていった水辺である外堀の跡を楽しく歩けるよう、見事な散策マップを作っておられます。

郡山城跡の近代建築を語る

 城跡の中に明治時代の建築がありますね。城址会館(県指定文化財)と呼ばれ、いま耐震化の課題が浮上し、整備後の活用の方向性が注目されています。この建物一つにも、それは深い物語を見いだすことができます。

 この建物が県立図書館として奈良市登大路町の県庁そばに完成したのは明治41(1908)年。現在の奈良地方裁判所と国道を隔てて向かい合う位置にありました。

 図書館が完成する14年前のことです。近隣の奈良公園に帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)が建築されましたが「洋風すぎる」「風致を損なう」などとして県議会から厳しい意見が出されたそうです。以来、奈良公園周辺に建物を建築する際には、景観に配慮するよう新たな県の指導基準が設けられました。

 がっしりした大型の建物でも瓦屋根を載せるようになりました。風致の模範的なモデルが旧奈良県庁(1895年)だったといわれます。以後、旧奈良県物産陳列所(1902年、現・同博物館仏教美術センター)をはじめ、県立図書館、奈良ホテル(1909年)などもそうした方針の下で建てられたのでした。これらを総称して奈良の近代和風建築と申します。

 こうした施策のもと、昭和9(1934)年には省線(旧鉄道省の鉄道、現JR)最後の社寺風駅舎といわれた奈良駅舎が誕生します。胴体は洋風の構造、頭には塔の相輪をイメージした瓦屋根を載せていますね。駅舎の近代化と奈良らしい景観づくりの創出という2つの命題に挑んだ作であると、知人の建築家は評していました。

 たとえ国家の直轄事業といえども、県の指導方針に従ったことになります。歴史を秘めた駅舎ですが、県庁は2000年ごろ、JRの連続立体交差事業のため、何の葛藤もなくこの駅舎を取り壊そうとしました。たくさんの保存署名が集まり、奈良市が保存することになりました。

 前後して、県庁は志賀直哉の旧居も取り壊すつもりでした。こちらも保存を嘆願する署名が多く集まり、学校法人の奈良学園が所有に名乗りをあげ、今日に至っています。近代建築、近代化遺産を大切にすることが100年、200年先の奈良のまちをいっそう魅力的なものにしていくように思います。

 郡山城跡の旧奈良県立図書館は、日露戦争に勝利した記念物として着工しています。なぜかこちらは県が保存する気になって、昭和43(1968)年、大和郡山市にくれてやろうということで城跡に移築されました。

 このとき市民の反応はどうでしたか。安土桃山の風情を色濃く映し出している城跡に、いきなり明治の建物がやってきたわけです。外観が和風とはいえ、意外なハコ物が来たと感じた方もいらしたでしょう。

 さかのぼれば明治時代、天守台の真ん前には大鳥居の柳澤神社が建立されています。私は初めて目にしたとき、あまり親しみを感じませんでした。しかし最近、これが大和一の指物師として知られた、宮大工・川崎富三郎の作と知ったとき、なんだか違って見えてくるのです。

 このとき普請した代表者が吉村松太郎といって、生駒市の宝山寺・獅子閣(国の重要文化財)を施工した人物です。らせん階段や色ガラスなどの擬洋風の味わいを持つ客殿ですね。富三郎は、先にお話しした一連の近代和風、旧県物産陳列所の施工にも加わっていたそうです。子息の川崎幽玄評伝(新間聡著「大和指物師 幽玄・川崎修の世界」)の中で取り上げられています。

 富太郎の工房は旧添下郡郡山町新町(現・大和郡山市内)にあったそうです。城跡の神社は深い物語を宿していました。いろいろな物語を発掘していくことこそ街の生命を輝かせるのですね。

 さて本題の旧県立図書館ですが、作者は県の技師だった橋本卯兵衛。真宗大和五カ所御坊の一つ、著名な寺内町である橿原市今井町にたたずむ近代和風「華甍」(旧高市郡教育博物館)の作者と同じです。いわば兄弟遺産ということになりますね。

 今再生の在り方が注目されるこの城址会館(旧県立図書館)ですが、住民参加の手法をどこまで採用するのか試されそうです。学識経験者らによる委員会を市役所が近く発足させるそうです。

 第三者委員会の優れたモデルは、わりと身近なところにありました。今世紀の初め、河川整備の在り方を提言した淀川水系流域委員会です。公開と参加の手法が徹底していました。

 まず、委員を誰にするか、選任するための会議まで公開しています。委員会は傍聴席からも意見が言えたそうです。現在、奈良県では、水道一体化の協議会が開催されています。市民生活にとって重要な協議ですが、残念ながら非公開です。傍聴席から意見が言えるなどの次元とはずいぶんかけ離れていますね。

 城址会館の再生に向けた第三者委員会については、公募市民の枠、抽選による市民の枠を一定数設けることが大事だと思います。淀川の委員会が素晴らしかったのは、行政の側があらかじめ結論を用意していなかったことでしょう。会議の回数も相当な頻度で行われていました。

 一案ですが、郡山城にやってきた歴史上の人物と出会えるような空間が城址会館の中にできたら面白いと思います。城主の筒井順慶時代には、城郭整備の点検に明智光秀がやってきたそうです。光秀は城の縄張り技術にたけていたと聞きます。秀長時代には徳川家康、毛利輝元らそうそうたる武将が訪れました。時代はくだって名句「菜の花の中に城あり郡山」の彦根藩士、森川許六。明治生まれのモダニズム詩人、小野十三郎は少年時代の一時期、大和郡山市に住んでいました。かつて市に存在した紡績工場の煙突を詠んだ詩碑が城跡にあります。

活用が注目される近代和風、城址会館(旧奈良県立図書館)=2020年11月、大和郡山市城内町

活用が注目される近代和風、城址会館(旧奈良県立図書館)=2020年11月、大和郡山市城内町

大納言塚を訪ねて

 秀長が眠る大納言塚は大和郡山市箕山町にあり、市の指定文化財です。飾らぬ無私の人柄を伝えるように質素なたたずまいの墓所です。それに引き替え、郡山城主だった筒井順慶の墓所は実に堂々たる廟(びょう)で、国の重文ですね。豊臣家の家臣で賤ケ岳の七本槍(やり)で知られる平野権平長泰にしましても、平野氏二代、九代の墓は瓦屋根を載せ、往年の陣屋町である田原本町で威容を保っています。しかし秀長の墓所は覆い屋さえありません。

 それでは、大納言塚を巡る散策コースを提案いたします。机上で想像力を膨らませ、お付き合いください。近鉄郡山駅から直行すればわけないのですが、それではもったいない。遠回りしてゆっくりと大和郡山の魅力をかみしめながら、気持ちを高めつつ近づいていきたいと思います。

 まずは駅前の柳町商店街からスタート。柳という町名は、もしや享保年間以来の城主、柳澤氏の姓と何か関係あるのかと思いましたが、違うのですね。もっと古い時代、あの辺りに柳の木がそよいでいたそうです。秀長の入部時にすでに町場は形成されつつあり、秀長の商業保護政策と共にいっそう発展していったと史書は伝えています。

 商店街のある矢田町通りを東へ進み、酒店の角を右に曲り、南の方角に進んで行きましょう。

 途中、近代の名建築、和田徳呉服店(1914年)の前で立ち止まります。淺沼組二代目の淺沼猪之吉の作。淺沼家は郡山藩の普請方でした。この辺りが郡山城外堀の南端に位置し、柳大門という重要な門があったことは有名ですね。その名を借りた銭湯・大門湯が営業し、風情ある通りになっています。

 さらに南に進んで、今度は右に折れて歩いて行きますと、市街地は一転、金魚池が広がる景観に出くわします。この変化がとても良いです。養魚場を見学するという感覚ではなく、元は田畑だった場所などを生かした池なので、あぜ道を楽しく歩く気分で散策できます。

 辺りの水路にはスイスイと泳ぐ小さい赤い影を時折、見かけます。大雨で養魚池から流れてきた和金でしょうか。郡山らしいかわいい風景ですね。江戸の後期に武士の副業として始まり、維新後は失業した藩士の家計を助けたという金魚産業。その歴史は興味深いものがあります。

 今度は商業施設アピタを目指して歩きます。ショッピングやティータイム、トイレ休憩にも利用させてもらいます。ぜひとも紹介したいのは、店舗が流域治水に協力していることです。雨の日に買い物をされた方々はお気づきかもしれませんが、駐車場に少し水がたまる施工をしています。これにより降雨の一部を一時的に受け止め、河川へ流入することを抑制する働きをしています。

 アピタの児童公園も雨水を一時貯留する施工がされています。奈良県や大和郡山市が推奨する洪水対策に呼応して商業施設が協力する好例といえるでしょう。意義深いのは、私たち買い物客が利用する身近な駐車場が雨を受け止め、足元の水が少したまっていることを実感できることだと思います。

 こうした取り組みは先ほど申し上げた、環濠集落をはじめ城の外堀・中堀などを生かした洪水調節の取り組みと大いにつながっています。県内の一例を挙げれば、紀の川水系の吉野川の上流で、村落の500世帯を追い出して巨大ダムが造られ10年がたちましたが、こうした方法だけが治水ではありません。都市にできることは何か、大和郡山市内の治水はいろいろなことを教えてくれます。

 アピタのすぐ北側にある農業用ため池は、赤塚不二夫にゆかりがあります。戦後まもないころ、少年時代の一時期をこの辺りで過ごしたギャグ漫画の王様は、この池で泳いだそうです。さあいよいよ、大納言塚に近づいてきました。この池の前を市内の大動脈・県道9号(奈良大和郡山斑鳩線)が走り、この道と交差する付近に静かにたたずんでいます。

 良き補佐役の代名詞、世俗的な名利とはどこか隔たっていた、この人らしい墓所です。秀長は天正19(1591)年、51歳で惜しまれながら郡山城内で病没しました。

 「この人の死んだその日から、豊臣の家をより幸せにするようなことは何一つ起こらなかった」と堺屋太一は結んでいます。司馬遼太郎は、城下の人々が訃報に接したもようを「むらがりあつまってきた庶子の人数だけで二十万人といわれた」と小説「豊臣家の人々」(第五話大和大納言)の中で特筆しています。

 そして葬儀に参列した家臣の思いを次のように描きました。「参列した諸大名のたれもが、この大納言の死で、豊臣家にさしつづけてきた陽ざしが、急にひえびえとしはじめたようにおもった」(「豊臣家の人々」同)

 秀吉は弟の菩提寺として、現在の芦ケ池(大和郡山市新木町)の辺りに大光院を建立し、京都・大徳寺の古渓和尚が院主となって菩提を弔ったと、市の資料にあります。しかし郡山豊臣家は二代秀保の早世によって断絶となり、大光院は京都に移築され、大徳寺の塔頭になりました。秀長の位牌(いはい)は東光寺という春岳院(大和郡山市新中町)の前身に当たる寺に託されたそうです。

 大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅んでしまうと、秀長の墓所は随分と荒れ果てたといいます。権力闘争に敗れた一族が新しい時代において、いかなる仕打ちを受けるか物語るかのようです。

 秀長の没後、186年の歳月が流れて五輪塔が建立されました。春岳院の僧、栄隆(えいりゅう)、訓祥(くんしょう)の努力が実を結び、城下の人々の協力もありました。このとき外回りの土塀も建設されたそうです。長らくの間、放置され無視され、異空間めいた場所ではなかったのかと想像します。

 宿願の整備あいなった安永6(1777)年。すでに城主は柳澤の時代になっていました。この2人の僧、その名を音読し「えいりゅう」「くんしょう」と朗誦(しょう)してみますと、はるか遠い時代を描いた小説「天平の甍」(井上靖)に出てくる、遣唐僧の名がなぜか連想され、江戸中期の2人の僧の努力がしのばれます。

 本日は大変難しい演題を頂きました。(会場から和やかな笑いが漏れる)。終わりに、秀長が領した大和、紀伊、和泉の三国を地図の上から眺めてみた感想をお伝えします。これら三国をまとまった単位として見た場合、例えば大和川であれば、元禄ごろに付け替えの大工事がありましたから、上流の奈良県から河口の大阪府堺市まで一貫した管理ができることになります。そして紀の川も、上流の奈良県から河口の和歌山市まで一貫して同じ行政の長が整備することになります。

 現代に置き換えると、水系一貫の流域管理ということになって、単純な道州制などより、よほど実のある流域治水が実現する形ではないのかと想像しました。

 昔から、まちづくりの担い手は、ばか者、よそ者、若者といわれます。進んで自分の損になるようなことに挑むばか者こそ、いつの世もまちの宝です。堺屋ワールドの中には、強敵の毛利軍に対する兄・秀吉の冷徹な分析力を思い知った秀長が、補佐役たる自分の役割を改めて自覚し「一生、主役は目指すまい」と心に誓う場面がありました。

 よそ者の視点も大事ですね。かつて明日香村の元村長が「棚田などという代物は大型の農機具も使えず、苦労の代名詞だったが、村外の都市住民にその美を発見してもらった」と話していました。よそ者となると、ときには小うるさい批判力も発揮するでしょうから、どうか地元の人々は大きな心で受け止めていただき、励ましてください。ご静聴ありがとうございました。

大納言塚の外壁を整備する人たち。奥に見える古墳の辺りに秀長の菩提寺・大光院があった=2023年12月10日、大和郡山市箕山町

大納言塚の外壁を整備する人たち。奥に見える古墳の辺りに秀長の菩提寺・大光院があった=2023年12月10日、大和郡山市箕山町

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