ジョニ・ウェルズさんを偲んで
9月6日に亡くなられたJohnny Walesさんを、私たちは皆、親しみをこめて「ジョン」と呼ばせてもらっていました。
「故人のことをお話すること、それも供養です。」
永六輔さんが著書『お話供養』の中でそう語っているように、それぞれの人の心に残っているジョンさんとの思い出やエピソード、作品を紹介し、ご供養とさせていただきたいと思います。(構成:本間康子)
メラニー・テイラー
ジョンさんは2007年に初めて会った時からずっと親戚のような親友でした。ジョンさんと智恵子さんの家でよく食事パーティーをしたり、ジョンさんは昨日のように80年代の鼓童ツアーのエピソードを熱く語ったり、一緒にその場にいたような気持ちになるぐらい演技のいい語り手でした。食卓を囲んで話と笑いが止まらない夜をたくさん思い出します。
暖かいおもてなしと友情を通じて佐渡が私のホーム(故郷)だと感じさせてくれました。帰国した後、いつ訪れても、私をみた瞬間に「ダーリン、お帰り!」と笑顔で歓迎してくれたこと、たくさんの話をしてくれたこと、朝食においしいコーヒーとハッシュドポテトを用意してくれたことが恋しくなります。安らかにお眠りください。
新井和子
ジョンさんとのハグは大きくて、あたたかくて、心から安心できて、サンタクロースとハグしている気持ちにさせてくれるものでした。
「Kodo Beat」の取材でインタビューしてくださったことがありました。私が初詣などにさそわれ、神社などに参拝する時に、自分がクリスチャンだから困るという相談を今は亡き父にした際、「こんにちわ」と言えばいいんだよと答えてくれたというエピソードを話した時、「それはいいね!」とおもしろがってくれた笑顔をいまでも覚えています。
今はその笑顔が空いっぱいにひろがっている気がします。これからもきっとみんなのことをおもしろがって見つめていてくれていると感じています。
Johnny’s Work with Kodo
ジョンさんが編集・イラストを担当した英文ニュースレター 『The Kodo Beat』の創刊号(1987年)
ジョンさんが佐渡に住むきっかけとなった、佐渡に伝わる人形芝居の一つである「文弥人形」。鼓童文化財団の事業として、1998年にエジンバラ・フェスティバルで文弥人形を紹介した際には、文弥人形の遣い手・通訳として参加いただいた。
本間康子
ジョンと初めて出会ったのは1985年の春、私が研修生として佐渡に来てまもなくの頃でした。公演のあとの打ち上げ会場で、流暢な佐渡弁で話しかけてくる外国人がいるので驚いていると、「ふるしい(古い)」や「ていそい(疲れた)」など、色々な佐渡弁を教えてくれました。
1989年にジョンがカナダに帰ることになって、いくつかの家具を預かりました。その年にちょうど建てたばかりだった我が家に置かれた、いかにも古しい家具たち。それはジョンが佐渡に戻ってくるまで10年以上そのままで、いつの間にか我が家にすっかり馴染んでいました。
預かった家具の中に、ロッキングチェアがありました。ひどく疲れてしまったり、気持ちが落ち込んでしまったような時は、そのロッキングチェアに座って、ぼんやり天井を眺めると心が休まりました。
最近は、ジョンと会うのはたいてい4月、我が家の祭りでした。結婚した翌年、私にとって初めての祭りに来てくれて、動画を撮ってくれました。それは今も私の宝物です。
もう来てもらえないと思うと、さびしくてなりません。
2013年4月 河内神社の祭り。本間家での門付け。(撮影:Johnny Wales)
Johnny at Earth Celebration
鼓童ブログなどのライター、カメラマンとして、ECを取材。
EC案内所のスタッフの皆と。
齊藤栄一
特に強烈な思い出がある訳じゃないけど…
鼓童に入ったばかりの緊張気味の僕に、佐渡弁混じりの流暢な日本語で、気さくに話しかけてくれたなぁ。
流木などを拾ってきて作ったカラクリ仕掛けのおもちゃを見せてもらったり、カヌーの漕ぎ方を教えてもらったり、ヨーロッパの教会で足元のお墓を見て「これ鎌倉時代の人だよ」とか叫んだり、うっとり音楽を聴いてる僕の横顔をサラッと絵に描いてくれたり、セロリをピーナツバターで食べると美味しいってのも教わったし、中国ツアーでは中国語を操って料理を注文してくれたり、イタリアでは一緒に観光してる途中で、結婚相手と運命的な出会いをしちゃうし…
いつも飾ることなく自然体で、好奇心の塊りで、優しくて、ユーモアがあって…
特にあの時ありがとう、ってこともないけど。
色々と本当にありがとう。
今もその辺にジョンさんを感じます。
大井キヨ子
私がジョンに出会ったのは鬼太鼓座が海外進出したボストンマラソンでした。ジョンと友達のくまちゃんと二人で立っていました。大きなグリズリーと見間違うほどの髪の毛とひげを蓄えていました。トロントからヒッチハイクしてボストンまで来てくれたのだそうです。そこからずっとのご縁です。
会えばジョンといつもハグしてました。ずいぶん昔、私が刺した刺し子の半纏をプレゼントしました。これを大事に着てくださり嬉しかったです。
ジョンからは鉈(ナタ)のケースをプレゼントしてもらいました。鼓童村の山仕事では欠かせない道具。家の敷居を使ってありました。物作りという共通点でつながっていたように思います。
ジョンの入れてくれたシナモンの効いたいたウインナーコーヒーはいつもおいしかったです。
青木孝夫
1975年には、ジョンは佐渡にいて文弥人形の濵田守太郎先生や鬼太鼓座とも出会っていました。私は鬼太鼓座で仕事をする決意をして佐渡に移住した1979年頃にジョンと出会っていて、その時のジョンの流暢な佐渡弁がとても印象に残っています。
「外国人なのに、なんで佐渡弁?」
おそらくこの頃から、ジョンは佐渡を愛してくれて、すでに佐渡人になっていたのだろうと思う。
私が直接、ジョンと仕事をさせてもらったのは、2010年に上演した『うぶすな』公演に向けてでした。これが私からお願いした最後の仕事になってしまいました。
2009年に鼓童村で大きく育ち乾燥させた桐の木をジョンの工房に持っていき、幕開けの「鼓童三番」(こどうさんば)という舞の演目で千歳(せんざい)、翁(おきな)、三番叟(さんばそう)の3人に使う「仮面」における私の演出意図を説明し、時広真吾さんの衣装デザインのイメージも伝え、これで創ってほしい。とお願いしました。
今まで見たこともない独特な「仮面」を創ってくれました。
ジョンさん、ありがとう。
Johnny’s Carvings
ジョンさんの木彫り作品たち(機関誌『月刊鼓童』1989年1・2月合併号より)
ジョンさん、ありがとう。どうぞ安らかにお眠りください。