この前『崖の上のポニョ』が金曜ロードショーで放映された際、こんなツイートが話題になってました。
フジモト「これは除草剤ではありません」
— アンク@金曜ロードショー公式 (@kinro_ntv) 2022年5月6日
フジモトは、ジュール・ヴェルヌのSF小説『海底二万マイル』に登場する潜水艦・ノーチラス号の唯一のアジア人で、少年のころにグランマンマーレ(後に登場:ポニョのお母さん)と出会い、恋に落ちたそうです。➡️続く#崖の上のポニョ #金曜ロードショー pic.twitter.com/YqHyrQJFca
私が気になったのが「ノーチラス号の唯一のアジア人」という部分で、そんなヤツでてきたかな…と思ったので、調べてみました。結論だけ書くと、「宮崎監督の設定上の話で、〈唯一のアジア人〉は不正確」という感じです。
【目次】
公開当時のパンフレットが初出
これは公開当時のパンフレットに既に記載がありました。
フジモトって海底で何をしてるの?
フジモトは、ジュール・ヴェルヌのSF小説「海底二万リーグ」(1869年)に登場する潜水艦、ノーチラス号(艦長はネモ船長)の唯一のアジア人*1。
『ジ・アート・オブ 崖の上のポニョ』の、美術監督の吉田昇氏のコメントにもあります。
宮崎監督の設定では、フジモトは「海底2万マイル」のネモ船長の弟子らしいんです。それで100年以上も生きていて、ひとりでコツコツとサンゴ塔を改造して研究室にしたんですね。
『ジ・アート・オブ 崖の上のポニョ』 P112*2
なので、ジブリ側の公式設定としては間違いないですね。弟子なのかアジア人なのか、そこらへんの差異はありますが。
ノーチラスのクルーはよくわからない
しかし、『海底二万里』では、特にクルーの名前や人種が詳らかに明かされているわけではありません。
とても久しぶりに私も読み直してみたんですが、船員の描写などはこんな感じでした。
…豊かな黒髪にふさふさした口ひげ、刺すような鋭い目つきをしており、全身にあの南仏人に特有の南国的な快活さがにじみ出ていた。
『海底二万里(上)』新潮文庫 P117
しかしあの船長と副官が緯度の低い土地の出身だとは言えそうだ。彼らには南国的なところがある。だが、スペイン人か、トルコ人か、アラブ人かそれともインド人なのか。
前掲 P124
...ヘラクレスみたいな体格で、怪力の持ち主にちがいない――彼の部下のひとり
前掲 P254-255
船員の国籍がさまざまなのはあきらかだったが、全員にヨーロッパ人の血が入っているようだった。わたしの思い違いでなければ、アイルランド人とフランス人、スラブ系が何人か、それにギリシャ人とクレタ島人がひとりずついるようだった。
前掲 P282
男は息を詰まらせて、あえぎ声をあげ、「助けてくれ(ア・モア)!助けてくれ(ア・モア)!」と叫んでいた。そのフランス語の叫びを聞いて、わたしは深い衝撃を受けた! それでは、船内にはわたしの同国人が――おそらくひとりではないだろうが――いたのか!
『海底二万里(下)』 P404
船員の国籍の見当をつけている引用は「二十人ほどの船員たち」が甲板にあがってくるという場面であるので、ノーチラス号の船員の見た目をだいたいカバーしてるのでは…とも思います*3。
少なくとも、ベルヌは作中でアジア人の存在を全く匂わせていない*4ので、宮崎監督の設定は、彼の物語上の想像によるものだろうとは思います。書くだけ野暮な話ですが。
ネモ船長はインドの王子
かつ、ネモ船長は、のちにインドの王子であることが明かされています。
続編となる『神秘の島(L’Île mystérieuse)』において、ネモ船長の出自が語られる場面があります。
Le capitaine Nemo était un Indien, le prince Dakkar, fils d’un rajah du territoire alors indépendant du Bundelkund et neveu du héros de l’Inde, Tippo-Saïb. Son père, dès l’âge de dix ans, l’envoya en Europe, afin qu’il y reçût une éducation complète et dans la secrète intention qu’il pût lutter un jour, à armes égales, avec ceux qu’il considérait comme les oppresseurs de son pays.
ネモ船長は、当時の独立領ブンデルクンドのラジャの息子で、インドの英雄ティポ・サイブの甥にあたるインド人、ダッカール王子である。10歳の時、父は彼をヨーロッパに送り、完全な教育を受けさせるとともに、いつか祖国を抑圧している者たちと対等に戦えるようにとの秘めた思いを込めた。
『海底二万里』においても、船長は復讐のために、どこかの国の「軍艦」を撃沈させますが、当該作ではそれがどこの国であるかは明示されていません*5。ただ、サメに襲われたインド人を助けたときには、ネモ船長はこんなセリフを口にしています。
「あのインド人は抑圧された国の住人です、アロナクスさん。そして、わたしも依然として、最後に息を引き取るときまで、おなじ国の人間なんです」
前掲 P75
主人公がその後もネモ船長の出自を不詳として捉えていることから、この「おなじ国」は、「同じ境遇の国」ぐらいの意味かなと思う*6のですが、ヴェルヌとしては頭の隅っこぐらいに思い描いていたんでしょうか。ただまあ、最初の出会いのとき、主人公はネモ船長を「青白い肌」とも表現していて、ちゃんと整合性を考えるといろいろ無理は生じてきます。日付の間違いもあるし、正確性をとろうとすると難しいのでしょうが…。
いずれにせよ、最終的に選ばれた設定でネモ船長は「インドの王子」になってしまうので、「唯一のアジア人」は不正確になってはしまいます*7。
今日のまとめ
①「フジモトがノーチラス号の唯一のアジア人」という設定は、『崖の上のポニョ』公開当時のパンフレットに書いてある。
②ただし、『海底二万里』に明確にアジア出身の人間は登場しない。
③ネモ船長自体は、続編において「インドの王子」であったことが明かされているため、「唯一のアジア人」という表記は不正確。
今回の話は、賢しらに「いやこれは間違ってるんですよ」と言いたいものではありません。作者のイメージに首を突っ込むのは野暮な話です。
この話は、私がこんなに調べるまでもなく、なんならWikipediaにも書いてありますし*8、パンフレットに載っていることだってツイートやWikipedia*9からわかります。なんだったら、今回の金曜ロードショーのツイートのリプにも指摘があるぐらいです。
ただ、これらの話をより確度の高い情報に変えようとすると、なかなか大変だなあぐらいに思っていただければよろしいかと。大海の前の砂浜で貝拾いを我々はしているようなものだという認識があると、世のもろもろの情報に慎重になるのではないでしょうか。
*1:
*2:
*3:
ただし、主人公は、船員の数を多くて60人程度と見積もっているので、他の船員がいる可能性もありますが…
「……その答えは六二五になる。ということは、ノーチラス号の内部には六二五人の人間が二十四時間呼吸できるだけの空気があるということだ」
「六二五人か!」とネッドが繰り返した。
「しかし、確かなのは」とわたしはつづけた。「乗客にせよ、乗組員や士官にせよ、この船に乗っているのはその一〇分の一にも満たないということだ」
下 P254
*4:
ネモ船長は、自分が死んだら最後に残った船員にノーチラス号の行く末を頼むことにもしています。当時としては仕方ないのですが、この小説にはヴェルヌの西欧中心主義も色濃く出ており、そういう大切な役目を任せる船員にアジアの人間を入れるかなあというメタ的な推測もできはします。
*5:
ただ、後述するように、ポーランドを念頭においていたので、撃沈した場所からロシアの軍艦だったのかもしれないという指摘をする人もいます。
It’s curious that in that same year, only three months later, the tsarist frigate Alexander Nevsky sank in this same place while circling the Atlantic as a show of Russia’s imperial 'muscle' to Europe.
不思議なことに、同じ年、わずか3ヵ月後に、ロシア帝国の「力」をヨーロッパに示すために大西洋を周回していたアレクサンドル・ネフスキー艦が、この同じ場所で沈没しているのである。
*6:
Wikipediaには、ネモ船長を初めはポーランド人にしようとしたという話が載っています。ヴェルヌはロシアからの独立を目指した、ポーランドの一月蜂起(もしくは十一月蜂起)を念頭に置いて書いていたようですが、ロシアとの関係悪化を恐れた出版社側から修正をうながされ、彼は諦めたということです。
そこらへんの経緯はこちらに詳しいですね。
*7:
当初のポーランド人設定を引き継いでいるということならいいでしょうが。映画なんかは白人が演じてますしね。
*8:
彼はインド(英語版)のバンデルカンド地方の大公の王子である。本名はダカールといい、イギリスのインド侵略で迫害されたティッポー・サヒブの甥にあたる[4]。
*9:
2008年7月23日 (水) 04:42に最初の記述があります。公開は2008年7月19日です。
公式設定上は『海底二万哩』に登場する潜水艦「ノーチラス号」の東洋人唯一の乗組員だったが、グランマンマーレとの恋愛を経て、海棲生物を育てる魔法使いになったとされている。