2014センター現代文―小説「快走」(岡本かの子)解説
2014年センター試験の小説の題材は、戦前の女性作家の代表格、岡本かの子の『快走』。
個人的にも『老妓抄』や『真夏の夜の夢』といった代表作よりもこの作品が一番好きで、試験作成者の作品選びのセンスを感じます。
ところでこの岡本かの子という人は、文学史上でも位置づけが微妙に難しい文学者です。というのも、樋口一葉から連なる「女流文学者」(死語)として、いわゆるフェミニズム批評家がかの子を位置づけようとすると、例えば林芙美子等のように、男性社会で圧迫された女性性の悲哀とか反発といった、シンプルな物語に回収できないもどかしさがあるためだと思う。
そこにかの子の人並みでない素質があるとも言えるし、波乱万丈な人生を送った強烈な個性の持ち主だから、あまり女性作家の系列に含めることも難しいわけです。男性社会におもねっていた、とまで言われることも。
なぜこのような話から始めたかというと、今回のセンター試験の問題を解きながら、非常に強く、センター試験という制度が持つ思想、言い換えればセンター試験作成者が持つポリシー、さらに乱暴に言えば、回答する受験生が必ず作成者のポリシーに同調しなければならないという強迫を感じたためなのです。
この小説問題、解く側はたった二つの構図を見抜けばやすやすと解けてしまう。それは「家族」と「抑圧と解放」という前時代的なテーマを軸に考えるだけ。
大きな「抑圧」で言えば、「国策」という注に長々と書かれている、軍国主義を歩む戦前の国家の中で、市民が「抑圧」されているという状況。そして、小さな「抑圧」でいえば、「家族」というありがたくも息苦しい連帯関係。
それに対して、個人が何らかの形で「解放」される姿、この小説で言えば、「快走」することで種々の「抑圧」から一時的にでも自由になる姿。
このありきたりな構図を、作成者は問うているのだなと分かればなんのことはない、数学的な設問の数々なのです。
問2は兄と妹という「家族」的「抑圧」についての問い。兄についての描写が少ないため、正答率は割合低いのではないかと思う。
妹が「家族」のために縫物をしなければならないという役割を押し付けられ、それに対して兄の妹に対する無頓着、無理解という、兄妹ドラマによくある感じ。1と3が残る。
傍線部の「ほーっと吐息をついて」は、すぐあとに、
と反復されているので、道子にとって吐息をつくことが、不満を切り替えるスイッチのようなものだとわかる。なので、「張りつめた気持ちが緩んでいる」という3が正解。すなわち、「抑圧」から「解放」へ向かうトリガーなのである。
問3は、「家族」や戦前社会からの「解放」がそのまま答え。4の「社会や家族の一員としての役割から逃れた別の世界を見つけられた」とはその言い換えに過ぎないわけです。
3(明るい過去への回帰)も正解に見えますか?たしかに客観的に見れば間違いではない。しかしそれは別に問題作成者が回答者に「期待」している答えではないから誤りなのです。作成者のポリシーに反してはならない。
問4はまたしつこいように兄と妹の家族関係。最後の一文を見るべし。「家族」という「抑圧」の磁場に兄妹も入っている。そこからの解放としての喜びとして「走る」のだから、仲睦まじい兄弟のはずがない。
1(信頼)や2(大切・憧れ)、5(絆)は×。4は描写なし。3「近しさ」=家族関係ゆえにかえって「一定の距離」=抑圧関係を取っている。
問5。選択肢はむやみに長いが、「家族」と「抑圧と解放」がテーマだとわかっていれば、傍線部Dの「二人は娘のことも忘れて」という記述に引っかかるでしょう。
道子が走ることで「家族」の「抑圧」から「解放」されたように、同じく「家族」のしがらみに組み込まれている父親と母親も道子を追って走るうちに、ある「抑圧」から「解放」されている。それは、「家族」の中で親という役割以前に、「個人」(「家族」の対照語といってもいい)あるいは一対の「男女」であるということの表れを意味している。
3「娘を心配した互いの必死さ」、4「はじめて娘の気持ちが理解できた」等は、全く的外れといってよい。1のみ、「娘のことも忘れて」を含んで、父親、母親からの「解放」=「彼ら自身の喜び」=「個人」としての喜びを記述している。
問6。6は問5を描写面から説明しなおしているだけ。表現面の問題としてゆっくり4を選べばよし。
今回のセンター小説、簡単とか難しいとか以前に、解いててこれほどつまらないというか、作成者の誘導に従わなければ即ダメという窮屈さを感じてしまいます。
作品の面白さを殺してしまう問題に疑問符のつく出題でした。
>>>《記事一覧》
個人的にも『老妓抄』や『真夏の夜の夢』といった代表作よりもこの作品が一番好きで、試験作成者の作品選びのセンスを感じます。
ところでこの岡本かの子という人は、文学史上でも位置づけが微妙に難しい文学者です。というのも、樋口一葉から連なる「女流文学者」(死語)として、いわゆるフェミニズム批評家がかの子を位置づけようとすると、例えば林芙美子等のように、男性社会で圧迫された女性性の悲哀とか反発といった、シンプルな物語に回収できないもどかしさがあるためだと思う。
そこにかの子の人並みでない素質があるとも言えるし、波乱万丈な人生を送った強烈な個性の持ち主だから、あまり女性作家の系列に含めることも難しいわけです。男性社会におもねっていた、とまで言われることも。
なぜこのような話から始めたかというと、今回のセンター試験の問題を解きながら、非常に強く、センター試験という制度が持つ思想、言い換えればセンター試験作成者が持つポリシー、さらに乱暴に言えば、回答する受験生が必ず作成者のポリシーに同調しなければならないという強迫を感じたためなのです。
この小説問題、解く側はたった二つの構図を見抜けばやすやすと解けてしまう。それは「家族」と「抑圧と解放」という前時代的なテーマを軸に考えるだけ。
大きな「抑圧」で言えば、「国策」という注に長々と書かれている、軍国主義を歩む戦前の国家の中で、市民が「抑圧」されているという状況。そして、小さな「抑圧」でいえば、「家族」というありがたくも息苦しい連帯関係。
それに対して、個人が何らかの形で「解放」される姿、この小説で言えば、「快走」することで種々の「抑圧」から一時的にでも自由になる姿。
このありきたりな構図を、作成者は問うているのだなと分かればなんのことはない、数学的な設問の数々なのです。
問2は兄と妹という「家族」的「抑圧」についての問い。兄についての描写が少ないため、正答率は割合低いのではないかと思う。
妹が「家族」のために縫物をしなければならないという役割を押し付けられ、それに対して兄の妹に対する無頓着、無理解という、兄妹ドラマによくある感じ。1と3が残る。
傍線部の「ほーっと吐息をついて」は、すぐあとに、
あわただしい、始終追いつめられて、縮こまった生活ばかりして来たという感じが道子を不満にした。
「ほーっと大きな吐息をまたついて」
彼女は堤防の方に向って歩き出した。
と反復されているので、道子にとって吐息をつくことが、不満を切り替えるスイッチのようなものだとわかる。なので、「張りつめた気持ちが緩んでいる」という3が正解。すなわち、「抑圧」から「解放」へ向かうトリガーなのである。
問3は、「家族」や戦前社会からの「解放」がそのまま答え。4の「社会や家族の一員としての役割から逃れた別の世界を見つけられた」とはその言い換えに過ぎないわけです。
3(明るい過去への回帰)も正解に見えますか?たしかに客観的に見れば間違いではない。しかしそれは別に問題作成者が回答者に「期待」している答えではないから誤りなのです。作成者のポリシーに反してはならない。
問4はまたしつこいように兄と妹の家族関係。最後の一文を見るべし。「家族」という「抑圧」の磁場に兄妹も入っている。そこからの解放としての喜びとして「走る」のだから、仲睦まじい兄弟のはずがない。
1(信頼)や2(大切・憧れ)、5(絆)は×。4は描写なし。3「近しさ」=家族関係ゆえにかえって「一定の距離」=抑圧関係を取っている。
問5。選択肢はむやみに長いが、「家族」と「抑圧と解放」がテーマだとわかっていれば、傍線部Dの「二人は娘のことも忘れて」という記述に引っかかるでしょう。
道子が走ることで「家族」の「抑圧」から「解放」されたように、同じく「家族」のしがらみに組み込まれている父親と母親も道子を追って走るうちに、ある「抑圧」から「解放」されている。それは、「家族」の中で親という役割以前に、「個人」(「家族」の対照語といってもいい)あるいは一対の「男女」であるということの表れを意味している。
3「娘を心配した互いの必死さ」、4「はじめて娘の気持ちが理解できた」等は、全く的外れといってよい。1のみ、「娘のことも忘れて」を含んで、父親、母親からの「解放」=「彼ら自身の喜び」=「個人」としての喜びを記述している。
問6。6は問5を描写面から説明しなおしているだけ。表現面の問題としてゆっくり4を選べばよし。
今回のセンター小説、簡単とか難しいとか以前に、解いててこれほどつまらないというか、作成者の誘導に従わなければ即ダメという窮屈さを感じてしまいます。
作品の面白さを殺してしまう問題に疑問符のつく出題でした。
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