受験のための文学史~近世~
近世文学は、徳川家康による江戸幕府の成立から崩壊までの約二世紀半を範囲とします。中世までの戦乱の時代は終わり、市民の文学が重要な位置を占めるようになる。ここでは近世文学を前期と後期に分けてそれぞれ見ていきます。
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前期(1600~1760頃)は上方(かみがた)文学ともいわれ、大阪・京都を中心とした芸術活動が花開きます。前期で必ず押さえるべきポイントは、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門の三人となりますので、それぞれジャンルごとに確認しましょう。
●小説
江戸時代の大きな特徴として、庶民教育が広く行われ、文盲(文字を読めない人)の追放が行われたことにあります。文字が読めるようになった庶民に向けて、基本的な教養・道徳・知識を普及するために、簡単な小説が要請されました。
江戸時代の最初に現れた小説は、「仮名草子」という文学です。これは小説と呼んでいいのか微妙なところですが、絵が大部分を占め、平易な文章によって書かれています。知識普及の目的もあり、様々な職業の作者が、仕事の片手間の副業として作ったもので、文学的な意義は大きくはないが、庶民への教育を果たした役割は大きいです。
この「仮名草子」を一変させた存在が、井原西鶴です。
「井原西鶴」
西鶴は教養の本としての仮名草子を、現実的な、かつ描写に力を入れた娯楽としての文学として発展させました。それを「浮世草子」といいます。「浮世」とは、中世以前の「憂き世」(つらい世の中)に対する造語で、肯定的な人生観をもって現実をとらえ書きました。
そもそも西鶴は、俳諧(はいかい)師としてデビューし、一日で数千句を作るといった速吟を作ることを得意としていたので、長篇小説家としての素地はすでにあったものと思われます。
西鶴の最初の小説である『好色一代男』は、町人の「世之介」が好色の生涯に明け暮れた日々を書いたもので、いわば『源氏物語』の近世町人版といえるものです。禁欲が美徳とされていた時代に、自由な恋愛奔放を描いたものとして、話題をかっさらった作品でした。その後には、当時の社会で女性の悲劇的な要素を盛り込んだ『好色五人女』、『好色一代女』などもあります。
また、好色物以外では、晩年に町人物という、町人のお金にまつわる生活を描いたものも有名です。というのも、江戸時代には貨幣が統一され、物の価値がすべて貨幣に変換され、そのために成功や失敗、喜劇も悲劇も貨幣にまつわって起こるようになりました。
たとえば、『日本永代蔵』では、様々な町人のモデルを使って、その人物が金を稼いだ、あるいは失ったという経緯を描き、出世するための教訓を伝えています。そしてその教訓を通して、当時の資本主義社会の現実を描き出している。同様に『世間胸算用』では、お金の貸し借り・つけ払いなどで大金が動く大晦日を舞台に、町人の悲喜劇を描いている。
●詩歌
中世以前の和歌等の歌壇は、都の宮中が中心となっていました。けれども、その歌風は停滞し、革新的な歌は生まれなかった。江戸時代に入り、町民の中から「国学」という、一つの研究が隆盛し、その理論を使って停滞していた歌風を打ち破る武器をいよいよ手に入れました。国学の中心には契沖、荷田春満、そして賀茂真淵といった人物がいます。
一方で中世に確立した「連歌」は庶民にさらに普及し、「俳諧」という形式を取るようになります。松永貞徳の「貞門俳諧」、西山宗因の「談林俳諧」などの流派を経て、俳諧は精錬されていき、そして松尾芭蕉があらわれる。
「松尾芭蕉」
俳諧とはそもそも「滑稽」を意味する言葉で、すでに『古今和歌集』の頃から俳諧という部立てがあり、正統な和歌に対する笑いの表現としてありました。上記の談林俳諧なども、先ほどの西鶴に代表されるように、軽快で速く句を捻り出すところに特徴があり、その速さゆえに即物的な句が大量生産されました。
そのような中、芭蕉は、漢詩文の素養と、自然を映し出す叙景詩を繰り合わせ、もっと厳格な人生詩として俳諧を完成させます。芭蕉は紀行途上の俳諧に優れ、とくに江戸から東北、北陸へと抜けていく旅である『奥の細道』は、紀行文学の最高峰といわれます。
といった有名な句はこの旅中に詠まれたものです。
また芭蕉には「七部集」といわれるものがあり、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』、『ひさご』、『猿蓑』、『炭俵』、『続猿蓑』があり、思想が徐々に変化、深化してゆく様が垣間見れます。
とくに大事な思想としては、「不易流行」(不易=変わらないもの、流行=変わりゆくもの)という、永遠性と変化性の両面を俳諧に見出した用語があります。後年には「軽み」という自分を捨てて自然に溶け込むという世界を実現しようとしました。
●浄瑠璃
文学史で出る浄瑠璃とは、三味線を伴奏にする人形劇をいいます。室町時代の頃に古浄瑠璃という形で始まり、江戸時代には琉球から渡来した三味線を使って、人形芝居が発達しました。大阪で開設された竹本義太夫の浄瑠璃一派が、現在の文楽の祖であり、そこに近松門左衛門が出現します。
「近松門左衛門」
近松の出世作となったのは、元禄十六年に初演された『曽根崎心中』です。「世話浄瑠璃」と呼ばれる、町人の人情・恋愛に材をとったもので、内容は町人が遊女と駆け落ちし、心中するまでの成り行き、道行きを描いたものです。歴史上のヒーローが活躍するのでもなく、一庶民のいざこざを取り上げた、日本演劇で最初の庶民劇として重要です。
また、「時代物浄瑠璃」として『国性爺(こくせんや)合戦』も見逃せない。日本と中国を舞台にした雄大な構想で、かつ人情味の要素もある浄瑠璃です。近松の晩年には『心中天網島』という心中物もあり、よく取り上げられる劇作です。
以上、西鶴、芭蕉、近松の三人を中心とした江戸前期でした。元禄期に活躍したので、とくにこのころを「元禄文化」といったりもします。
江戸後期は、江戸を中心とした文化となります。長年続く江戸幕府に怠惰と腐敗が忍び寄り、文化は模倣と規制によって、前期ほど華々しく花開くことのない頃ですので、ざっくりと眺めて行けばいいと思います。
●俳諧
芭蕉が死に、俳諧は大衆化・陳腐化した結果、新風がまるで入ってこなくなります。しかし1760年代になると、「芭蕉へ帰れ」という合言葉のもと、もう一度純粋な俳諧を目指そうという運動が見られるようになります。
たとえば与謝蕪村。(句集『新花摘』など)
寂寥な気持ちを非現実の世界に投げ出し、芭蕉とは違った色の俳諧を生みだしている。
また、小林一茶。(句集『おらが春』など)
一茶は農民出身で、それゆえに大地に根ざした生活と自己意識をもった句を作っている。
●小説
西鶴系統の小説であるが、寛政の改革や天保の改革等、時代の規制をくらいながら様々なジャンルが生まれます。ざっとまとめると
といった感じです。ここでは、滑稽本の代表格である、十返舎一九の『(東海)道中膝栗毛』くらいだけ押さえておく。弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)が、伊勢、奈良、大阪、宮島、木曽などたどる道すがら、その失敗談を面白おかしく書いていくというものです。
上記のような娯楽ジャンルとは一線を画していた文芸ジャンルが「読本(よみほん)」であり、代表としては曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』があげられます。中国の伝記小説『水滸伝』を下敷きに、日本で展開する壮大な伝奇小説は、我が国の伝記文学の傑作として残っています。
ただし、その行き過ぎた勧善懲悪思想、人間が書かれていないという批判が、明治時代に近代思想をもった文学者から噴出する。ある意味では、明治時代以降の近代文学は、この批判が出立点となるのですが、それは次回。
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■江戸前期
前期(1600~1760頃)は上方(かみがた)文学ともいわれ、大阪・京都を中心とした芸術活動が花開きます。前期で必ず押さえるべきポイントは、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門の三人となりますので、それぞれジャンルごとに確認しましょう。
●小説
江戸時代の大きな特徴として、庶民教育が広く行われ、文盲(文字を読めない人)の追放が行われたことにあります。文字が読めるようになった庶民に向けて、基本的な教養・道徳・知識を普及するために、簡単な小説が要請されました。
江戸時代の最初に現れた小説は、「仮名草子」という文学です。これは小説と呼んでいいのか微妙なところですが、絵が大部分を占め、平易な文章によって書かれています。知識普及の目的もあり、様々な職業の作者が、仕事の片手間の副業として作ったもので、文学的な意義は大きくはないが、庶民への教育を果たした役割は大きいです。
この「仮名草子」を一変させた存在が、井原西鶴です。
「井原西鶴」
西鶴は教養の本としての仮名草子を、現実的な、かつ描写に力を入れた娯楽としての文学として発展させました。それを「浮世草子」といいます。「浮世」とは、中世以前の「憂き世」(つらい世の中)に対する造語で、肯定的な人生観をもって現実をとらえ書きました。
そもそも西鶴は、俳諧(はいかい)師としてデビューし、一日で数千句を作るといった速吟を作ることを得意としていたので、長篇小説家としての素地はすでにあったものと思われます。
西鶴の最初の小説である『好色一代男』は、町人の「世之介」が好色の生涯に明け暮れた日々を書いたもので、いわば『源氏物語』の近世町人版といえるものです。禁欲が美徳とされていた時代に、自由な恋愛奔放を描いたものとして、話題をかっさらった作品でした。その後には、当時の社会で女性の悲劇的な要素を盛り込んだ『好色五人女』、『好色一代女』などもあります。
また、好色物以外では、晩年に町人物という、町人のお金にまつわる生活を描いたものも有名です。というのも、江戸時代には貨幣が統一され、物の価値がすべて貨幣に変換され、そのために成功や失敗、喜劇も悲劇も貨幣にまつわって起こるようになりました。
たとえば、『日本永代蔵』では、様々な町人のモデルを使って、その人物が金を稼いだ、あるいは失ったという経緯を描き、出世するための教訓を伝えています。そしてその教訓を通して、当時の資本主義社会の現実を描き出している。同様に『世間胸算用』では、お金の貸し借り・つけ払いなどで大金が動く大晦日を舞台に、町人の悲喜劇を描いている。
●詩歌
中世以前の和歌等の歌壇は、都の宮中が中心となっていました。けれども、その歌風は停滞し、革新的な歌は生まれなかった。江戸時代に入り、町民の中から「国学」という、一つの研究が隆盛し、その理論を使って停滞していた歌風を打ち破る武器をいよいよ手に入れました。国学の中心には契沖、荷田春満、そして賀茂真淵といった人物がいます。
一方で中世に確立した「連歌」は庶民にさらに普及し、「俳諧」という形式を取るようになります。松永貞徳の「貞門俳諧」、西山宗因の「談林俳諧」などの流派を経て、俳諧は精錬されていき、そして松尾芭蕉があらわれる。
「松尾芭蕉」
俳諧とはそもそも「滑稽」を意味する言葉で、すでに『古今和歌集』の頃から俳諧という部立てがあり、正統な和歌に対する笑いの表現としてありました。上記の談林俳諧なども、先ほどの西鶴に代表されるように、軽快で速く句を捻り出すところに特徴があり、その速さゆえに即物的な句が大量生産されました。
そのような中、芭蕉は、漢詩文の素養と、自然を映し出す叙景詩を繰り合わせ、もっと厳格な人生詩として俳諧を完成させます。芭蕉は紀行途上の俳諧に優れ、とくに江戸から東北、北陸へと抜けていく旅である『奥の細道』は、紀行文学の最高峰といわれます。
・夏草や兵どもが夢の跡
・閑さや岩にしみ入蝉の声
・さみだれを集めて早し最上川
・閑さや岩にしみ入蝉の声
・さみだれを集めて早し最上川
といった有名な句はこの旅中に詠まれたものです。
また芭蕉には「七部集」といわれるものがあり、『冬の日』、『春の日』、『阿羅野』、『ひさご』、『猿蓑』、『炭俵』、『続猿蓑』があり、思想が徐々に変化、深化してゆく様が垣間見れます。
とくに大事な思想としては、「不易流行」(不易=変わらないもの、流行=変わりゆくもの)という、永遠性と変化性の両面を俳諧に見出した用語があります。後年には「軽み」という自分を捨てて自然に溶け込むという世界を実現しようとしました。
●浄瑠璃
文学史で出る浄瑠璃とは、三味線を伴奏にする人形劇をいいます。室町時代の頃に古浄瑠璃という形で始まり、江戸時代には琉球から渡来した三味線を使って、人形芝居が発達しました。大阪で開設された竹本義太夫の浄瑠璃一派が、現在の文楽の祖であり、そこに近松門左衛門が出現します。
「近松門左衛門」
近松の出世作となったのは、元禄十六年に初演された『曽根崎心中』です。「世話浄瑠璃」と呼ばれる、町人の人情・恋愛に材をとったもので、内容は町人が遊女と駆け落ちし、心中するまでの成り行き、道行きを描いたものです。歴史上のヒーローが活躍するのでもなく、一庶民のいざこざを取り上げた、日本演劇で最初の庶民劇として重要です。
また、「時代物浄瑠璃」として『国性爺(こくせんや)合戦』も見逃せない。日本と中国を舞台にした雄大な構想で、かつ人情味の要素もある浄瑠璃です。近松の晩年には『心中天網島』という心中物もあり、よく取り上げられる劇作です。
以上、西鶴、芭蕉、近松の三人を中心とした江戸前期でした。元禄期に活躍したので、とくにこのころを「元禄文化」といったりもします。
■江戸後期
江戸後期は、江戸を中心とした文化となります。長年続く江戸幕府に怠惰と腐敗が忍び寄り、文化は模倣と規制によって、前期ほど華々しく花開くことのない頃ですので、ざっくりと眺めて行けばいいと思います。
●俳諧
芭蕉が死に、俳諧は大衆化・陳腐化した結果、新風がまるで入ってこなくなります。しかし1760年代になると、「芭蕉へ帰れ」という合言葉のもと、もう一度純粋な俳諧を目指そうという運動が見られるようになります。
たとえば与謝蕪村。(句集『新花摘』など)
・春の海 終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)
・菜の花や月は東に日は西に
・菜の花や月は東に日は西に
寂寥な気持ちを非現実の世界に投げ出し、芭蕉とは違った色の俳諧を生みだしている。
また、小林一茶。(句集『おらが春』など)
・目出度さも中くらい也おらが春
・我と来て遊べや親のない雀
・ともかくもあなた任せのとしの暮
・我と来て遊べや親のない雀
・ともかくもあなた任せのとしの暮
一茶は農民出身で、それゆえに大地に根ざした生活と自己意識をもった句を作っている。
●小説
西鶴系統の小説であるが、寛政の改革や天保の改革等、時代の規制をくらいながら様々なジャンルが生まれます。ざっとまとめると
洒落本(遊里文学)
黄表紙(時事的な漫画)
↓規制
人情本(風俗小説)
合巻(挿絵主体の小説)
滑稽本(笑いを主とした写実小説)
黄表紙(時事的な漫画)
↓規制
人情本(風俗小説)
合巻(挿絵主体の小説)
滑稽本(笑いを主とした写実小説)
といった感じです。ここでは、滑稽本の代表格である、十返舎一九の『(東海)道中膝栗毛』くらいだけ押さえておく。弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)が、伊勢、奈良、大阪、宮島、木曽などたどる道すがら、その失敗談を面白おかしく書いていくというものです。
上記のような娯楽ジャンルとは一線を画していた文芸ジャンルが「読本(よみほん)」であり、代表としては曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』があげられます。中国の伝記小説『水滸伝』を下敷きに、日本で展開する壮大な伝奇小説は、我が国の伝記文学の傑作として残っています。
ただし、その行き過ぎた勧善懲悪思想、人間が書かれていないという批判が、明治時代に近代思想をもった文学者から噴出する。ある意味では、明治時代以降の近代文学は、この批判が出立点となるのですが、それは次回。
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