水戸城2 (226)
所在地:茨城県水戸市三の丸
縄  張:連郭式平山城
城  主:大掾氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
遺  構:櫓台、土塁、堀、移築門、藩校
文化財:国特別史跡(藩校弘道館)、県史跡
探訪日:平成24年(2012年)12月23日、令和3年(2021年)11月20日

概要
平安末期に大掾氏(馬場氏)によって築かれた馬場城が始まり。室町期に起きた上杉禅秀の乱で上杉方に着いたが、室町幕府の江戸氏に敗れたため、江戸氏が新たな城主となった。
江戸氏は7代続いたが、家主の佐竹氏と度々争っており、豊臣秀吉の小田原攻めにおいては後北条氏に着いき、佐竹氏は豊臣方に着いたため、豊臣方の勝利により佐竹氏が城主として入城した。佐竹氏は城名を水戸城と改めるほかに城域を拡大、近世城郭に改修した。
しかし、佐竹氏は関ヶ原において曖昧な態度であったため秋田久保田藩に転封、代わって徳川家康の末子である頼房が入城し、尾張・紀伊と並ぶ御三家のひとつとなった。天守は設けなかったが、二の丸に三層五階の御三階櫓を建て、これを天守代用としている。
幕末から維新にかけての動乱期は水戸藩は諸生党と天狗党に分かれて争ったため、場内の建物の多くが焼失したが、御三階櫓他数基の建物はかろうじて災禍を免れた。
しかし、太平洋戦争中の水戸空襲により御三階櫓が焼失、藩校は消失を免れたものの城郭としての建物はほぼ消滅した。戦後は本丸・二の丸に学校が置かれ、三の丸を残して周囲も市街地化されている。

(R3/12/4再編集)

徳川御三家といえば尾張、紀伊、水戸であり、水戸といえば2代光圀公が黄門様、9代斉昭公が烈公として有名ですね。
しかし、他の尾張の名古屋城、紀伊の和歌山城と比べ、遺構が少なく、地味な印象を受けます。
これは、城自体が土塁造りというのもありますが、他が戦争で燃えても復興したのに対し、この城は学校が多く建てられたせいで復興が出来ていないからでしょうね。

縄張り図
水戸城
台地の先端に築かれた典型的な連郭式の縄張。
当時は丘陵部の他に東側から南側にかけて複数の郭があったようです。

こちらは現状に縄張り図を落としたもの。
水戸城2 (87)
本丸・下の丸は水戸第一高、二の丸は水戸第三高、水戸市立第二中、茨城大付属小、同付属幼稚園、三の丸は水戸市立三の丸小と、これでもかと言うくらいの学校のオンパレード。
また、東側の平地にあった御蔵丸は稜堡式のような素敵な形状でしたがここは跡形もなく潰され赤十字病院に。

本丸跡
水戸城2 (118)
中心部は水戸第一高校が置かれていますが、周りの土塁や門跡はよく残っています。

本丸土塁
水戸城2 (120)
車を見てもわかる通り結構な高さがあり。

本丸表門跡
水戸城2 (130)
枡形虎口を形成しています。

薬医門(移築現存)
水戸城2 (121)
弘道館以外では唯一残る城郭遺構。
元々の場所は諸説あるそうですが、本丸御殿の門だというのが有力な説なようで。
なお、高校の敷地内ですが、見学目的ならこの門まで入ることは可能です。

本丸堀
水戸城2 (117)
水戸城2 (145)
現在は底に線路が敷かれいますが、有り得ないほどのこの深さ!
土塁造りとはいえさすが徳川の城です。

二の丸跡
水戸城2 (66)
二の丸は上記のように幼稚園、小学校、中学校、高校と学校で埋め尽くされています。
そのため道路と一部区域以外は自由に立ち入りできず、残念な感じ。

なお、水戸第三高校敷には戦前まで天守相当の「御三階櫓」がありました。
水戸城2 (95)
見た目は三層ですが、内部は五階建で、まさしく事実上の「天守」でした。
太平洋戦争の空襲で消失した天守は名古屋城、岡山城、広島城、福山城、大垣城、和歌山城、そしてこの水戸城の7棟だったんですが、この中で水戸城だけが唯一再建されていません。
今となってはどうしようもないんですが、学校ばかり立てずにこの「天守(御三階櫓)」を再建してほしかった。

二の丸大手門・塀(木造復元)
水戸城2 (180)
令和2年に復元完了した、非常に立派な櫓門。
二の丸の西側、三の丸弘道館の目の前に構えられています。

内枡形となっており、門をくぐると枡形が形成されています。
水戸城2 (55)

門脇の塀がデザイン性に富んでおり非常におしゃれ。
水戸城2 (168)

なお、前回いった際はまだ門や塀は無く、車道が走っていました。
水戸城 (50)
やはり建物があると当時の様子がイメージできますね。

二の丸南西角櫓(木造復元)
水戸城2 (158)
水戸城2 (73)
こちらは今年完成した真新しい復元建築物。
二層櫓と多門櫓をL字に組み合わせた形状となっています。

こちらは大手門と異なり内部を見学可能。
水戸城2 (76)

せっかく復元されたものの、城下からだと周りに建物がごちゃごちゃしており、綺麗に見えるポイントがないのが玉に瑕。
水戸城2 (155)

ちなみに、場所的には茨城大付属小の奥にあり、小学校脇の入り口を入っていきます。
水戸城2 (93)
年末年始以外の9~16時までが入場可能時間であるため注意。

二の丸土塁
水戸城2 (58)
大手門のある東側によく残っています。

二の丸堀
水戸城2 (44)
水戸城2 (165)
本丸堀には負けますが、こちらもかなり深く幅のある堀です。

彰考館跡
水戸城2 (62)
光圀公が『大日本史』の編纂を始めた場所。
ちなみに、後ろの城の門っぽい門は小学校の門ですが、城跡としての雰囲気をだすためにこういうデザインにしたそうで。

坂下門(木造復元)
水戸城2 (143)
二の丸南東の郭下にあった門。
現在は道路が通っているため、坂の上の本丸寄りに復元されています。
復元的整備といったところでしょうか。

こちらが元々坂下門があった場所です(案内板のあるあたり)。
水戸城2 (144)

杉山門(木造復元)
水戸城2 (112)
二の丸北にあった杉山坂にあった門。
こちらは元の位置に復元されています。

三の丸跡
水戸城2 (19)
一部は小学校となっているものの大半は弘道館と県庁舎敷となっているため、場内では一番自由に散策できます。

三の丸土塁・堀
水戸城2 (13)
水戸城中心部の最西端にあたる場所で、見事な土塁と堀が残っています。
場内で一番当時のまま城らしく残っている場所。

弘道館(現存・国特別史跡)
水戸城2 (193)
烈公こと9代藩主の斉昭公が開いた藩校。
ほぼ全域が残っており、藩校は現存している例が少なく非常に貴重な遺構のため、国の特別史跡に指定されています。
写真は現存の正門と土塀。

正庁(現存)
水戸城2 (199)
弘道館本体で、御殿造となっています。

内部は見学可能。
水戸城2 (204)

有名な「尊攘」の掛け軸や、大日本史等々が展示されています。
水戸城2 (201)
水戸城2 (215)
大日本史は神武天皇~後小松天皇までの天皇紀のため一度読んでみたい。

弘道館八卦堂(木造復元)
水戸城2 (22)
内部には藤田東湖草案の建学の精神を記した「弘道館記」が収められています。

弘道館土塁・堀
水戸城 (19)
三の丸の内部にある土塁と堀で、弘道館を囲むように築かれています。

弘道館北柵御門(木造復元)
水戸城2 (238)
令和元年に復元された、弘道館が築かれた際に設けられた門。

内部は枡形虎口となっており、門の復元に合わせて一部の土塁が復元されました。
水戸城2 (31)
水戸城2 (30)
こうやってみてみると弘道館て水戸城内にもう一つ城を新造したような形だったんですね。
ここを舞台に明治になってすぐに弘道館戦争(諸生党と天狗党残党との争い)が起きたんですが、戦を出来たのがわかる気がする。

なお、この弘道館、東日本大震災の際に甚大な被害を受けており、前回行った際は建物内部には入れませんでした。
水戸城 (59)
この姿を見た後だと、現在きちんと修復されている姿をみると感無量ですね。


城の中心部は学校が乱立しており、御三階櫓が復元されていない等、残念なところはありますが、何よりもさすが徳川の城だけあって規模が大きい城です。
また、最近は大手門、角櫓といった大型建物のほか、坂下門、杉山門、北柵御門及びその周辺土塁等、隙間をみつけて復元が進められているのは非常に良い傾向。
これで復元的整備でもいいので御三階櫓が復元されれば言うことなしですね。
オススメ。


マップ

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