2023年09月

食物と酒、嗜好品の日本史

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1: 山野野衾 ◆qDubHAi3S/a/ 2016/04/24(日) 07:06:50.67
日本の食文化の歴史全般について語りましょう。
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【源平藤橘】戦国武将の氏(本姓)【菅原・大江・秦】

1: 人間七七四年 2021/12/23(木) 20:25:36.56 ID:9i5dXYFD
由緒正しい氏(うじ)を持つ武将の血統について語るも良し
そうでない武将の自称する氏の変遷や「なぜその氏を選んだか」について考察するも良し
もちろん、戦国時代に創られた新しい氏「豊臣」が果たした政治的役割について検討するも良し

とにかく氏の話をするスレです

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【同時代】欧州、オスマン、中国、日本の兵たち【比較】

1: 人間七七四年 2009/10/17(土) 18:35:05 ID:As7UPZU8
平和な島国に住む日本の戦国時代の武将や兵士なんて、陸続きで何千年も絶え間無く戦をし続けたヨーロッパ、中国人とじゃあ比較にならないだろう

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勝海舟が語る太田道灌の江戸城

1: 人間七七四年 2018/03/29(木) 14:16:29.17 ID:gf731RTF
『氷川清話』より勝海舟の談話
「以前、宮内省から頼まれて、江戸の歴史を調べて、一部の書物を作ったが、城郭の沿革はもちろん、法律、風俗、寺社、そのほかすべてもれなく載せてある。

これを調べるときに、一つ不審であったのは、江戸城が扇ヶ谷の執事太田道灌の居城にしては、あまり大き過ぎるという事だ。
何の記録を見ても江戸城の門は、三十六とあって、全体の結構がなかなか大きそうだ。

全体この時分の記録では、漆桶万里軒のが一番確からしい。
この人は、もと京都相国寺の僧で、後に道灌の客分になって顧問をしていたので、『江戸名所図絵』などにも、たくさんこの人の記録から引いてあるが、この記録にもやはり城門三十六と書いてある。

そこでいろいろ考えていって、とうとうその訳がわかった。
当時扇ヶ谷は、関東の管領で、その居城は、今の川越であったが、平生は鎌倉に住んでいて、川越へは一年に一、二度行くばかりであった。
それゆへに、万一、八州の野に不意の兵乱でもあると、鎌倉と居城の連絡はたちまち断たれる心配がある。
そこで、これに対する予備として、八王子を始め、そのほか諸処につなぎのとりでを置いたので、江戸もまたその一つであるということがわかった。

そのころ鎌倉街道というものは、高輪の台から赤坂離宮の中を通っていたとみえて、あの離宮が紀州の屋敷であった時分には、現に鎌倉街道の一里塚が残っていた。

鎌倉と川越とのつなぎの城を置くには、この江戸は、実に屈強な所だから、当時管領の威光でもって、城門が三十六もあるような大きな城をここへ築いて、八州の押えにしたのだ。」

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【手紙】コミュニケーションの世界史【通信】

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1: 世界@名無史さん 2011/11/30(水) 23:24:30.20 0
大航海時代はポルトガルからインドのゴアまで手紙が届くのに何日かかった、みたいな技術的な話から、通信技術の進歩により変化した人間関係、新しく生まれたり消えたりした職業、社会システムなどの話まで。

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