ec29fc73


1: 人間七七四年 2018/01/20(土) 12:28:58.52 ID:RlMgDVHw
佐賀の大名龍造寺家鍋島家について語りましょう







7: 人間七七四年 2018/01/29(月) 23:35:48.68 ID:cmQfuVQJ
隆信御馬廻衆の石井源次郎は無双の荒武者4将の内1人らしいけど残り3将って誰だろ

8: 人間七七四年 2018/01/31(水) 07:50:41.17 ID:SQncu0GV
馬渡刑部少輔=馬渡俊孝?
倉町太郎五郎=倉町信俊?
石井刑部少輔=石井常忠?
石井源次郎=石井忠修?

12: 人間七七四年 2018/02/18(日) 21:33:09.38 ID:qEIBK17X
四天王
四本槍柱 両彈ニ島
無双の荒武者四将

四の数とは縁起がいいんだろか

13: 人間七七四年 2018/03/09(金) 00:11:05.91 ID:EreCaH+E
今山の戦いの後信周が人質になったあと返還されたのっていつなんだろう

14: 人間七七四年 2018/03/11(日) 20:15:30.54 ID:YrJ/mlMZ
大友の軍勢が無事に撤退するまでの保証人みたいなものだから、一ヶ月ぐらいで帰ってきてる

16: 人間七七四年 2018/03/24(土) 12:35:03.58 ID:91GiwS9X
龍造寺はどうすれば沖田畷で勝てたのか?

17: 人間七七四年 2018/03/25(日) 02:35:50.26 ID:Pwh5BiYz
隆信が死ななければ損耗大きくても押し切れたと思うな
森岳城手前まで隆信が出ずにいれば忠堅の特攻受けなかったのかな

19: 人間七七四年 2018/03/25(日) 20:34:31.19 ID:5afz6iF8
やはり隆信の出過ぎが良くなかったのかな。
隆信は前線に出たがるタイプだったのかな?
輿に乗っていたら、なおさら危険と思うんだけどな

20: 人間七七四年 2018/03/25(日) 20:37:46.14 ID:Pwh5BiYz
先陣の勝ちは次陣の勝ち先陣の負けは次陣の負けが軍律だし
崩れた浜手側を自ら後援した形なのかな

25: 人間七七四年 2018/04/11(水) 14:49:05.33 ID:Ql/e+D0S
福岡のテレビで入学式が流れてたが新入生の名前が龍造寺だったw

26: 人間七七四年 2018/04/12(木) 20:26:35.14 ID:mu4tHYb1
鍋島のせいで希少な名字になってしまったわな

27: 人間七七四年 2018/04/20(金) 11:22:30.70 ID:HsLdhMFB
佐賀に鍋島の正嫡はいるのかね?

28: 人間七七四年 2018/04/20(金) 17:46:19.05 ID:9hAX2eeN
鍋島侯爵家は目立つから足跡はすぐわかるけど子爵家や男爵家はよくわからんね

29: 人間七七四年 2018/04/24(火) 01:35:15.57 ID:RCklGqAt
百武も居るよ…

30: 人間七七四年 2018/04/24(火) 14:30:21.72 ID:fn1R/2l/
百武は賜姓した時に縁遠い一族まで改名したのかね
賢兼兄弟が改姓しただけじゃここまで百武姓増えんでしょ?

31: 人間七七四年 2018/04/26(木) 15:26:50.80 ID:NtNTLIR5
幕末明治期における百武賢兼系の正嫡は洋画家の百武兼行だが、兼行の父兼貞は成松家からの養子なので血筋的には成松信勝の子孫にあたる

33: 人間七七四年 2018/04/29(日) 17:13:41.07 ID:zGHOXgrb
寺院のほうの龍造寺だが、最盛期には大きな寺だったの?

35: 人間七七四年 2018/05/02(水) 21:32:21.42 ID:FlfRo7ci
寺院としては行基の時代が最盛期っぽいんで詳しいこと分かりません

36: 人間七七四年 2018/05/07(月) 21:38:28.47 ID:RqDCFj1e
高寺山龍造寺って龍造寺時代は龍造寺城の中に建立していたんだよね。
ただ龍造寺家が建立した訳ではなく菩提寺ではなかった

42: 人間七七四年 2018/08/09(木) 09:39:18.41 ID:h6itHW1r
1568年ぐらいからの北部九州情勢って他所の視点から見ると龍造寺が暴れ散らしてるみたいな書き方されてるけど、ぶっちゃけ龍造寺からすると秋月からの貰い事故みたいなもんで当初大友と戦うつもりは無かったっぽいよね

44: 人間七七四年 2018/08/09(木) 21:39:35.00 ID:Q10UG2Og
>>42
>秋月からの貰い事故

うまい比喩だ!

45: 人間七七四年 2018/08/31(金) 00:06:17.77 ID:pCMyiYec
にしても人足が主君の輿を戦場に置き捨てて、自分達だけ逃げてしまうとか、冷静になって考えてみたらすごいよなwどんだけ人望なかったんだろ?
結局逃げた人足ってそのあとどういう運命をたどったんだろ?

46: 人間七七四年 2018/08/31(金) 06:46:11.03 ID:QnvhHFsS
同時代的に有名なエピソードは隆信のそばで最後まで戦って死んだ鴨打新九郎、田中善九郎、福地千の小姓衆の話なんだけど、これは生き残りの小姓が島津方に捕縛された後に佐賀へ帰されているので双方に証言が残っている
御輿を放り出されて家臣に逃げ出されたという逸話の出元って何か逆に聞きたい

49: 人間七七四年 2018/08/31(金) 10:43:10.88 ID:g1upJbs2
>>46
敵が激しく槍で突いてきたので担いでいた連中が隆信を放置し始めたってのは、同時代人が記したフロイス日本史にも書いてあるぞ
それとは別に逃げずに一緒に斬り殺された家来のことも書かれている
輿を担ぐような下卒は忠誠心も低く逃げたんじゃないのかな?

宣教師たちはキリシタンの有馬氏を通して戦況を聞けたし大砲を操作した連中など、戦いに参加していたイエズス会の外国人もいるくらいなのでこの件に関しては情報の信頼性も高い

47: 人間七七四年 2018/08/31(金) 10:06:50.99 ID:QTMTscku
沖田畷は後世の脚色と当時の記録とそういうの分けるとこからすら始まってない状況だよね
戦国ブームも九州の方まで波及しなかったなあ

52: 人間七七四年 2018/08/31(金) 14:04:50.02 ID:/aMyTvO0
晩年は鍋島すら鬱陶しくなった(?)とかは幾ら何でも言い過ぎだよな
言いたい放題言われすぎな気も

51: 人間七七四年 2018/08/31(金) 13:19:34.74 ID:jfGz3nS4
まあ、かなり残酷な事してるしね。
大体さあ、大友に土下座して助命して貰ったのに全然恩義に思うてないとか?
柳川の蒲地一族に対する仕打ちとか?
戦国時代基準でも、冷酷な人って評価だよ。
蒲池 鎮漣(かまち しげなみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

柳川は隆信が九州中央へ進出するにあたって必要不可欠な地であったが、鎮漣は薩摩の島津氏への接近を図っていた。蒲池氏が島津の傘下に入ることを恐れた隆信は、家臣の鍋島直茂や、隆信に与していた田尻鑑種などと共に鎮漣の謀殺を画策する。

柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に誘った。鎮漣は頑なに断り続けるが、隆信の使者は執拗かつ丁重に鎮漣の母や重臣を説得してまわり、ついに断りきれなくなった鎮漣は兄・鎮久を初め選りすぐりの屈強な家臣200名を連れて柳川を出発する。鎮漣の従兄弟で留守役をつとめた家老の大木統光が鎮漣の肥前行き中止を進言するが、鎮漣の決意を変えることはできなかった。

筑後川を渡って肥前に入った鎮漣は佐賀城で隆信の嫡男・政家の歓待を受けるが、その翌日、与賀神社の近くで龍造寺の部隊に襲撃される。蒲池氏200の精兵は奮闘するも、多勢に無勢で鎮漣は自害、鎮久を初め鎮漣の郎党は全員討死した。

龍造寺氏にとって、蒲池鎮漣が島津氏の支配下に入ることは絶対に許せないことではあったが、鎮漣の一族まで根絶やしにしたことは、隆信に対する筑後の有力国人の強い反発、離反を招いた。


53: 人間七七四年 2018/08/31(金) 14:19:29.26 ID:QTMTscku
鎮漣も裏切りだしなあ

56: 人間七七四年 2018/09/01(土) 15:36:51.87 ID:3kiV5At6
>>53
蒲地家は、本家と分家が有り、本家12000町歩、分家8000町歩だもんなあ。
一町歩は、大体約10石換算みたいだし、筑後が約30万石だとすれば約20万石分が蒲地一族。
確かに新興の竜造寺としては勢力弱めたいだろうけど、手口が残忍すぎる。

其れに、蒲地一族には二回も匿って貰ってるしね、先祖とかじゃ無くて当人が。

71: 人間七七四年 2019/01/10(木) 13:09:45.16 ID:T4ak4Lvy
>>56
恩が有ろうが無かろうが、島津に通じてると噂されてる奴が柳川の要所に居ることが大問題
どこの大名家であっても謀殺されてるだろ

59: 人間七七四年 2018/09/03(月) 11:21:57.04 ID:Z0dIq6nI
すでに一度対立して何百日も戦やってるわけでもあるしなあ

72: 人間七七四年 2019/01/28(月) 18:49:37.32 ID:J7Cwynid
今山の戦い。

結果的には勝ったが、籠城策はまずかったんじゃないの?
今山の戦い(いまやまのたたかい)は、元亀元年(1570年)4月から始まった豊後の戦国大名・大友宗麟軍と肥前の戦国大名・龍造寺隆信軍との戦い。元亀元年(1570年)3月、北九州の大友宗麟は肥前において勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、3千の兵を率いて龍造寺領に攻め込んだ。龍造寺側は佐嘉城(のちの佐賀城)に軍を集めて篭城を開始する。


73: 人間七七四年 2019/01/28(月) 23:17:51.41 ID:Dl3OL8P5
籠城と言うよりも内線の利を活かした防衛線と言われてるね
一番本拠に寄られたときも撃退してるし
…しかし二年続けて大包囲網しかれると収穫とかできずにヤバかったのかなやっぱり

76: 人間七七四年 2019/01/31(木) 14:09:43.66 ID:sDeX8u0q
確か包囲されてたのは春から夏にかけてだしだいたい農繁期じゃないかな?

77: 人間七七四年 2019/01/31(木) 20:38:30.96 ID:+rAh0zO5
毛利の筑前攻勢のおかげで豊後三老の初撃時から再侵攻まで半年以上の時間的猶予があったわけで、物資集積は相当に進めていたのではないかと
仮に物資を城に収奪しきって民政に打撃が出ても攻撃してくる大友に責任転嫁できた

78: 人間七七四年 2019/02/01(金) 17:43:23.49 ID:WHwywVoB
普通の大将なら城に籠ってるところを、なぜ肥前の熊は籠らず自ら軍を率いて迎撃し続けるというオカシイ事をやったのか
語るならむしろこっち

81: 人間七七四年 2019/02/02(土) 19:40:26.91 ID:OOYVDak7
>>78
籠城はそのうち援軍が来て包囲軍の背後を突いてくれるから成立するのであって、このときには援軍が来る気配がなかったのではなかったか?

82: 人間七七四年 2019/02/03(日) 11:13:34.28 ID:9BKv2HRV
>>81
相手を攻め滅ぼすっていうよほどの強い意志を持って侵攻しない限り、農繁期前には適当に講話して撤退していくもんでは。

79: 人間七七四年 2019/02/01(金) 18:37:14.61 ID:oz8DIZHb
毛利の後方攪乱が当てにならなくなったから
とにかく積極的に戦わなくてはならなかったからとか?

80: 人間七七四年 2019/02/02(土) 17:06:08.33 ID:mO7p4Ueg
不利な戦況のなか家臣が裏切らないように眼を光らせる必要があったんだろう。

83: 人間七七四年 2019/02/03(日) 17:51:36.48 ID:2K0rSeEa
大友が撤退したのは旧暦十月だから農繁期というより本格的な冬が来る前に退散したかったのでしょ

84: 人間七七四年 2019/02/04(月) 07:35:48.78 ID:BEOVryeC
質問だが。

戦国時代の籠城戦で、城が包囲された期間がもっとも長くて、なおかつ籠城した側がなんとか持ちこたえて落城しなかったケースというとどこになるの?

85: 人間七七四年 2019/02/04(月) 08:13:42.87 ID:RLMWUUFd
第一次月山富田城の戦い
尼子vs大内、期間約1年、籠城側の尼子が勝利
敗れた大内はこの被害が元で滅亡まっしぐら

第二次月山富田城の戦い
毛利vs尼子、全体の戦役で2年、攻城側の毛利が勝利
敗れた尼子は大名としては終わった

尼子再興軍の月山富田城攻略戦
毛利vs尼子再興軍、約半年、篭城側の毛利が辛うじて勝利

86: 人間七七四年 2019/02/04(月) 12:48:55.03 ID:5nMxLJKy
柳川の鎮並攻めたときもだいぶ長い期間じゃなかったっけ

88: 人間七七四年 2019/02/04(月) 19:19:16.12 ID:n+N2lCCK
蒲池鎮漣が城主の時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることができなかった。
柳川の蒲池氏滅亡後は、蒲池氏時代の造作のままの柳川城に龍造寺氏の武将である鍋島直茂や龍造寺家晴が入り、居城とした。
大友氏の勇将立花道雪は、柳川城を懸命に攻めたが落とすことができず悔しがったという。


ウィキペディアには包囲期間は書いていないなあ。

91: 人間七七四年 2019/02/05(火) 17:49:32.04 ID:JR5sCF+/
北肥戦誌ヨリ

天正8年02月13日 龍造寺隆信、其党筑後柳川城蒲池鎮並の背くに依り、子鎮賢等を遣して之を同城に攻めしむ。
筑後鷹尾城主田尻鑑種より隆信へ注進あり。

天正8年11月28日 龍造寺氏の兵、筑後蒲池鎮並を攻む、是日、鎮並、之と和す。
300日余り籠城したって事だね。隆信娘玉鶴との婚姻を約束

天正9年05月29日 龍造寺隆信の党筑後柳河城蒲池鎮並、島津氏に通ず、是日、隆信、之を誘殺す。
與賀の馬場での待ち伏せは小河、石井、水町、秀島等、鍋島の息がかかった手勢ばかり。
蒲池鎮並始め、300余名中、173名が討死、此の外負傷する者、生捕りされる者多数。

92: 人間七七四年 2019/02/06(水) 08:09:09.72 ID:jYGCtads
北肥戦誌を通しで読んだことがある人なら分かると思うのだが、大部分は編年体で構成組んであって読みやすいのだけど、鍋島直茂が関わってくる事柄になると、歴史小説のような文体に構成が変わる

蒲池鎮漣を与賀馬場で包囲する場面でもそれが出てきて、北肥戦誌だと鎮漣に「汚き龍造寺が仕業かな」という台詞を言わせた直後に、直茂からの書状を蒲池鎮久に破り捨てさせる場面が挿入されている

北肥戦誌で小説っぽくなっているところは佐賀藩から直々に脚色しろと作者の馬渡が言い渡されてたんじゃないかと想像する

94: 人間七七四年 2019/03/03(日) 17:59:09.81 ID:Hgw7xNnW
悪名を恐れただけで、鍋島家は最初っから佐賀藩を乗っ取る気満々

95: 人間七七四年 2019/03/03(日) 22:30:03.76 ID:FNvnPzzt
その心は?

96: 人間七七四年 2019/03/05(火) 01:57:37.92 ID:GZ0VLN0D
鍋島が直前に愛想つかして沖田畷で内通した。

97: 人間七七四年 2019/03/05(火) 03:42:18.77 ID:xfi9F9L1
沖田畷で内通したってのは何が根拠?
内通したからって山手攻めてる直茂がどうやったら浜手側にいる隆信討ち取れるように内通できるの?
寡聞にしてわからないから是非是非ご教授願いたい

99: 人間七七四年 2019/03/06(水) 02:06:05.94 ID:7j4EEJct
>>97
隆信は山手の予定だったんだがな。何故か変更された。

100: 人間七七四年 2019/03/06(水) 02:16:24.20 ID:G6XRTlio
>>99
それが直茂によるものだって言うのかな?
具体的にはどこでそう言われてるの?

98: 人間七七四年 2019/03/05(火) 23:35:13.05 ID:1f+y/JOI
豊臣、徳川、時の権力者と上手く立ち回って、佐賀の支配権を勝ち取ったでいいじゃん
竜造寺には力が無かった

103: 人間七七四年 2019/03/06(水) 14:21:53.64 ID:6tdy5QA1
龍造寺隆信は性格的に秀吉や家康とうまくやっていけないから
どこかの時点で福島正則みたいに改易されたと思う。

引用元: ・龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ3



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