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1: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/10(土) 17:17:50
国家安康が家康を引き裂いて呪詛したものなら
君臣豊楽は豊臣を引っくり返した呪詛ですが、何か?







5: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/10(土) 20:28:21
なんにせよ大阪の陣で豊臣は滅亡してない。
二つの木下家と豊臣の姓は存続したのだから問題なし。
むしろ大野と淀君の不義の子を豊臣嫡流と称するインチキな家系を葬っただけ。

6: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 11:25:41
大阪の陣で豊臣の勝てる見込みは低すぎる。
名のある者達とはいえ、殆どが浪人の烏合の衆じゃなぁ。

7: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 11:27:08
>国家安康が家康を引き裂いて呪詛したものなら
>君臣豊楽は豊臣を引っくり返した呪詛ですが、何か?


もっとマシな口実作れと家康に言いたいな。
難癖を通り越して暗い・・・暗すぎる・・・家康の性格をよく表してると思う。

8: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 11:55:14
そんな謀略に引っ掛ってしまう豊臣の立場はどうなる

11: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 12:32:25
>>8
アホか?一方的に呪ってるって決めつけられたのを
どうまともに返すんだよw 申し開きするのもばからしいだろw

9: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 12:03:36
引っかかるも何も『呪詛してるじゃないか!』と決めつけてたのは徳川。
引っかかったのは徳川方として豊臣を滅ぼした諸大名

13: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 12:42:47
関ヶ原で勝利し天下を手中にした家康。
14年後に家康は、威風堂々とした立派な体躯の青年に成長した豊臣秀頼を目の当たりにして恐れを抱いた。
天下を手中にしたのは間違いないが、その徳川の天下を覆す可能性があるとすれば秀吉の血を引く(一説には大野治長だが)秀頼。家康亡き後、豊家恩顧の大名たちが秀頼を担いで決起したならば…
というわけで
『大阪の陣』

てことでいいですか?

17: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 13:12:00
>>13
禍根を残すと徳川の体制に危険だと思ったんだろう。

14: 名無し募集中。。。 投稿日:2005/09/11(日) 12:45:59
威風堂々とした立派な体躯か・・・
秀吉の子ではないのは確かだが真の父親は誰だろう
関連豊臣秀頼の謎


15: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 12:55:51
とにかく秀吉の子とは思えないほどの体格だったらしいよね。その大野治長はデカかったのかな…

20: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 15:53:43
常々思ってたことだが、母親の淀君がそもそも当時の女性としては相当の巨躯だったから、
秀頼の身長をもって秀吉の子であると決め付けるのは変な話だ

21: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 15:55:08
ごめん、秀吉の子じゃないと決め付けるのは、ね
どちらにせよ秀頼の種がだれであったかは今となっては知りようもないし、
それを知ることが歴史的に何らかの意味を持つとは思えない

19: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 15:47:44
秀頼はなかなかの人物だったらしいが、一度も戦場に出ないのはどうか

武将として根性なしじゃないのか

少しは秀信を見習えと言いたい

28: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 17:36:26
ただでさえ旗色の悪い戦の戦場に、
大将と呼ばれる人物を
顔見せにおいそれと行かせられただろうか…

29: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 17:51:16
>>28
同意、ぶっちゃけた話しだが豊臣からすれば秀頼さえ生きていれば
浪人衆が何人しのうと戦い続けられる。結果から見れば秀頼出馬した方が
良かったと思えるけど、当時として一粒種の大将が不利な状況での出馬は
危険すぎる賭けだね。

30: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2005/09/11(日) 17:51:55
顔見せの意味がわかるか

厳重に護衛された大名はそうは死なないよ

安全なところから見てれば良い

それに武将であるならリスクがあるからといって出ないと言うことはない

家康や秀忠が城に籠もっていたと思うかね

40: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/12(月) 16:57:03
国家安康と言い外掘りと言い、家康の悪どいやり方はチンピラ並!

41: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/12(月) 20:29:10
まだ戦国時代
騙し討ちだろうが一騎討ちだろうが勝った椰子が偉い

43: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/12(月) 21:22:48
日本の戦国時代は秀吉の惣無事令、それに従わない連中を屈服させた小田原征伐・奥州仕置で終わってます
開戦の切欠となった意味不明な言いがかり、和議を破っての堀埋め立て、主君殺し、その遺児を晒し首、
それらは戦国時代ではありふれた光景だったかもしれないけど大坂の陣の頃にはそうでなかった
だから現在でも家康は狸と言われて非難される
家康は勝ち組だけど空気が読めない椰子

48: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/12(月) 22:56:12
秀頼は女官に囲まれて育った世間知らずの坊っちゃんだったらしいね
秀頼程度のお山の大将をなんで家康はムキになって殺したんだろ?
家康の晩節を汚しただけな希ガス

55: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 07:04:56
>>48
普通に考えれば、将来豊臣をかついで徳川に楯突く輩が出るのを未然に防ぐため

49: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 00:02:46
秀頼は根性なしだが、それでも脅威に思ったんだろう

確か三成の子供は殺してなかったと思ったがどうか

家康は武田を恐れていたが根絶やしにはしていないよね

56: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 07:06:08
途中で講和して濠を埋める大坂城の落とし方は秀吉が教えたというのは本当か?

58: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 11:21:34
>>56
そうゆう噂もあるね。
また、その話は如実に秀吉と家康の性格を物語ってるね。

63: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 13:04:54
「曲学阿世の徒」「御用学者」ってまさしく羅山のためにあるような言葉だな
聖堂学問所を建てたり藤原惺窩に誉められたりと色々学問的な功績もあるみたいだけど、個人的にはこの一件だけで学者失格

林 羅山

林 羅山(はやし らざん、天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日))は、江戸時代初期の朱子学派儒学者。林家の祖。

慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。また、この年、江戸に赴き2代将軍徳川秀忠(家康の3男)に講書をおこなっている。ま
た、慶長19年(1614年)の大坂の役に際しては方広寺の梵鐘に刻された京都南禅寺の禅僧文英清韓による銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた[4]。さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明している。


64: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 14:05:26
あと天海、崇伝とこれに乗っかった家康もね。

65: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/13(火) 18:01:38
南光坊天海は実は明智光秀だった…なんて話もありましたね。
秀吉嫌いの光秀が家康を利用して豊臣家を滅ぼしたって訳か

79: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 16:17:34
「国家安康」も「君臣豊楽」もヒドいけど一番どーしようもないのは「右僕射源朝臣」。
これを「源朝臣を射る」と読んだ林羅山はやはり中国朝鮮の忠実な弟子だ。こういうのを妄言という。
当時「妄言だ」と言った人いなかったのかな?

僕射

僕射(ぼくや)は、中国の官名。戦国時代には各政府機関のほとんどが設置した次官であった。漢以後、僕射という名称は尚書令の次官である尚書僕射にしか使われなくなる。
大坂冬の陣直前の方広寺鐘銘事件では幕府側の林羅山が「『右僕射源朝臣』は『源朝臣(徳川家康)を射る』という意味だ」と因縁を付けている。


80: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 16:59:25
冬の陣で徳川方の死者が三万人出たらしいですが、、事実はどうなんですか?

81: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 17:40:29
>>80
三万か…徳川方はだいたい三十万くらいだったって聞いたけど、冬の陣はそんなに激戦だったのかな?
後藤基次や真田幸村、木村重成は前線で活躍したらしいけど長宗我部盛親は大した戦功はなかったみたいだし…

82: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 19:21:49
三十万とかって明らかな誇張でしょ?
豊臣方が十万になってるけど、十万が篭城を続けられる城ってどんな城?

86: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 19:46:22
兵糧だって馬鹿にならんわな。十万の軍勢を養うとなりゃ。

87: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 19:53:43
>>86
兵糧と言えば、福島正則が大阪方に兵糧を流したって話しがあるな。

131: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 15:49:50
>>87
福島は羅期が原以後に
いつも大阪に5万石の米をおいて、
豊臣に「非常のさいはこの米を使うように」と言い含めていたが、
その約束が実現したというわけだな。

88: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 20:11:50
落城後に大坂の陣をもう一回やれるだけの金銀が見つかったという
ので可能じゃないか?
出てきた金をめぐって伊達と藤堂で切りあいをした

89: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/14(水) 22:28:26
大河ドラマの影響は大きいと言うが
大河の徳川家康で「家康は秀頼母子を助けようとした」路線をやったのに
全然それが浸透していない件について。

92: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 01:28:54
山岡荘八の小説が国民的ベストセラーになって、
何度も大河ドラマで好意的に描かれててこれなんだから、
家康の評判はもうどうしようもないよ
まじでもう一回徳川幕府が成立するくらい出ないとな

93: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 03:08:00
悪質な手口で主筋を殺したのだから、非難されるのも致し方ないのでは。
冬の陣で豊臣に味方する大名が皆無である事が解ったのだから、汚名を被ってまで主筋殺しをする必要は無い筈。
豊家を存続させておけば、家康に対する後世の評価は、全く違ったものになったであろう。

94: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 03:11:51
秀頼を脅威と見たんだろ
秀頼も命が惜しければ大坂城を捨てるべきだったね

96: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 04:22:02
でももし豊臣をそのままにしたらどうなっただろう…徳川幕府はキリスト教信仰を禁止してたけど、豊臣家は自領での信仰を許可してたよね。
豊臣家を存続させてもその辺で対立が起きちゃうんじゃないかな。
それとも豊臣家がキリスト教信仰を許可したのは、徳川方との決戦に備えてキリスト教信仰を禁止した幕府に不満をもつキリシタンの牢人を集める為だったのだろうか…

101: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 10:47:02
>>96
多分そうじゃない?実際天主教徒が8000人くらい集まったらしいし、、、

101: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 10:47:02
徳川方から脱走者が大量に出たというのは何かで読んだけど、死者3万としたら餓死、凍死じゃないの?

103: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 13:15:04
餓死者が出るような戦いかよw
冬とはいえ大坂で凍死かよw

107: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 17:25:57
餓死者出たんじゃないか

凍死もいたかも

凍死というか、凍え死というか

現在の東京でも、野ざらしの公園で体力が弱っていれば死ぬ

老人は家の中でも死ぬ

108: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 17:28:54
>>107
そんな体力のない老人が戦場に出たりしませんw

109: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 17:33:39
>>108
戦場で戦えば激しく消耗する
その中で満足に食べることもできない
負傷しても十分な治療は受けれない

そんな中で凍死してもおかしくないが

111: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 17:44:06
>>109
一日や二日食わなくても人間死なないだろ・・・
てゆーか、その一日や二日すら兵糧無いって話しは聞いた事がない。
ことに東軍は寄せ手だよ?物資は充分あっただろう。
しかも大阪の冬だぞ?上でも書かれてるが北国じゃないんだからw

124: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 13:34:15
>>111
冬の陣て1~2日で終わったんだっけ?
20万も兵が集まれば食料その他の物資が不足してもおかしくないと思うけどな。

127: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 14:30:22
>>124
それもそうなんだがそんな事より…


10万も籠城したら大坂城の汚水処理能力の限界を越えるんじゃないか心配だ
関連合戦時のウンコ問題


128: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 15:00:45
>>127
川が流れているからある程度処理はできるはずだが

しかし10万の籠城、食料がいくらあってもたりない

130: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 15:46:28
>>124
大阪の陣で大量の餓死者・凍死者が出たなんては説はありません。

厨房が言うに事欠いてそんな話しをしているだけです。
大阪の陣で餓死者が出るくらいなら、関ヶ原や小田原の陣で出ても不思議ではないです。
朝鮮の役なら朝鮮に何年もいるうちに兵糧が欠乏して出ましたけどね。

当時は食料なんてのは個人で数ヶ月分、径行していったんだし
いくら当時でも一ヶ月にも満たない冬の陣で餓死者が出るなんてアホとしか言い様のない意見です。
何年もかかった戦とか遠征とかいくらでもあるのに。

あと大阪城には20万石くらい米が備蓄されてたから、
10年でも2年持つ計算ですが。

110: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 17:42:19
てゆうか豊臣領以外の畿内は大体徳川領だったんじゃないの?
だったら食糧の供給とか問題無く出来たんじゃないの?
それとも徳川軍集まりすぎて畿内は食糧不足に陥ったのかな…

105: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 16:50:01
確かに餓死凍死は考えにくい。
でも第4回川中島合戦で死者およそ8000、関ヶ原で6000くらい?
徳川方だけで30000て凄くないかい?
何かの間違いかでっち上げ?

114: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 18:29:14
死者3万の出所はなんだよ

116: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 18:35:06
死者3萬については間違いなくデッチ上げだろ。
ソースなんかあるわきゃない。

117: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 18:58:07
真田丸の戦いで、一日の戦死者が一万余りという説があるが、
他の戦闘での戦死者はあまり無いので、三万は有り得ないと思う。

120: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/15(木) 19:01:09
>>117
真田丸の戦闘でもそんなには死んでないだろうね。
不用意に追撃した前田家の記録にもそんな大惨事であったとは書かれていない。

142: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 19:47:43
>当時は食料なんてのは個人で数ヶ月分、径行していったんだし

個人で数ヶ月分携行かよ!

あんたスゲーぜ

149: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:16:50
>>142
「あんたスゲーゼ」って自分の無知ね棚にあげて人を馬鹿にするなよ。

食料は原則として自分で持っていく。
食料が軍隊から供出されるのは明治以降。
ただし、持ち切れない分は小荷だ隊に預ける事もある。

どうおやってもっていくかというと、
短期決戦の場合はおにぎりを布に巻いて数珠のように数十個まいて持っていく、
長期出陣の場合は「干し飯」「煎り米」「味噌袋」「芋がら縄」といった携帯保存食品にして持っていくのが主流。
数ヶ月程度の食料を個人で持っていくのは可能だよ。
近代でも探検家はそれくらいの事はする。

150: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:18:58
雑兵物語では個人の食料は一週間分程度しか用意しないらしいが。

154: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:34:42
>>150
それは短期決戦の話しだろう。
長期決戦の場合もある。

152: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:29:31
正確に言うと当時は寄親・寄子制といって、
いわば軍隊とは小中の事業者の集まりであった。
一人の専業武士に5~50人くらいの小身の武士やその他の雑役係がつく形であり、
彼ら全体で兵糧を管理・輸送したというのが正しい。
ちなみに武田信玄は兵糧の無くなった寄親に兵糧を3割の利子付きで貸したという逸話あり。

156: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:40:48
基本的には食料は個人負担だよ。
例え輸送を他者に頼む事はあっても。

あと大阪の陣で東郡の兵に餓死者はでないだろう。
餓死するくらいなら大阪の民家から略奪して食料を奪うだろうが、そんな話しもないし。

164: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 20:54:57
夏の陣のとき、家康は3日分の腰兵糧で良いと言ったとか。

175: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 22:28:47
城攻めは長期戦が前提なので、個々の武士が自前で
調達する事は考え無くてもよいのではないだろうか。
では、兵糧の輸送と炊き出しは誰がやるのか?答えは
人夫を雇うのである

176: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/16(金) 22:43:55
前に誰か書いてたけど、籠城側では屎尿の処理が大問題だったらしいね。
屎尿の臭いで戦意が著しく落ちて開城した城がある、なんていう話をどっかで読んだな。
まあ、大坂城の場合は川に流せば済む話だけど。

あと見落としがちなものでとても大事なのが燃料。
冬に薪が足りなくなると凍死者が出るし、
そんなことよりも、御飯が炊けなくなる。
倉庫にいくら米があったって、薪がなければ意味がない。

180: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 01:48:34
秀吉は九州征伐の時、一人あたり一日一升を支給したのに。
家康ってケチなやろうだ。

181: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 02:25:16
>>180
元々、武士には禄が支給されてるからね。
というか秀吉のみが先進的すぎただけ。

184: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 10:36:14
>>180
その話しは知らないけど、秀吉ってほんと気前いいよな。
家康がケチって言うか、いやケチだけど当時の常識では個人出費が
基本だったみたいだしね。

185: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 10:48:24
>>184
関ヶ原で物見に行った黒田の家来にあげた褒美が
饅頭だからな。ガキの使いかよw

190: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/17(土) 17:47:01
さて、そろそろ話題をかえますか。

この大坂両陣に参戦した、特に大坂方にの武将について何か面白いお話お持ちの方いらっしゃいませんか?
それも出来れば真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、明石守重、毛利勝永、木村重成など著名な人達以外の武将のお話が伺いたいです

192: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/18(日) 21:59:58
織田信長の小姓・伊藤蘭丸祐道が後藤又兵衛隊にいたといわれている。

193: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/19(月) 04:17:51
そういや織田有楽斎の倅も大坂方にいたんだっけね。何て名前だっけ…頼長だったっけ?

196: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 04:43:04
>>193
織田頼長は大坂冬の陣で自軍の兵の喧嘩騒ぎに乗じて藤堂軍に攻められた時、腹痛を理由に引きこもってたとか情けないイメージがあるけど、
一方で大坂城内を見回った際に、居眠りをしていた番兵を一刀のもとに斬り捨てたとか勇ましい話も聞くし…
よくわからない人物ですね

199: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 12:41:40
>>196
狐にばかされたはなしみつけた。「浪速全書」より。
織田左門長頼がまもる玉造の持ち場に、ある夜たいまつが二、三百接近中
との報告あり。
敵の夜襲だと思いさっそく長頼自身が兵を率いて出馬、おいかけるも
あっちにふわふわ、こっちにふわふわ、まったく近づけない。
結局朝まで追いかけたらしいが、去年の秋に栗岡で殺した狐のたたりだった、
ということにおちついたらしい。

198: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 11:31:35
家康の子息との説もある小笠原権之丞も入城してるのね。
「天主教を信奉する故、慶長末年放逐。明石守重と親しく、大坂入城。夏の陣のとき天満橋で戦死」

197: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 10:17:50
確か大丸の創業者の先祖も大坂に入城していたような、、、

200: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 12:45:26
大丸は違うだろ

205: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/22(木) 10:18:37
>>200
下村惣左衛門という人が大坂方だったらしい。大丸創業者の先祖。

201: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/21(水) 13:15:20
こ・こいつすげーー。
「掃聚雑談」より。
藤堂高虎の家中に渡辺作左衛門(シラネー)というものがおりましたとさ。
大坂の役の最中に手首をきりおとされ、ドクターに診察をしれもらったら、
「斬られた場所がわるいネ、このきられかただったら肘から斬られたほうが
ましじゃん、メンドクセーナーモー」見たいな事を言われた。
彼はなんとじぶんで肘からしとを斬りおとし、
「ほれ、さっさと治療しろ、このヴォケマザコンが」
といったらしい。
この話のあと彼の剛勇にたいし二百石加増がありましたとさ、めでたしめでたし。
(一部セリフの中に不適切な表現が含まれていたことをおわびします)

232: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/23(金) 17:16:47
毛利は秀元を徳川方として参戦さしておきながら、
毛利家の重臣内藤元盛を大坂城に入城させてるのな。
訳わからん。

233: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/23(金) 17:54:57
>>232
保険だろ。多分他にもそういう事例はあるんじゃないかな。

234: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/23(金) 18:12:36
関ヶ原といい…日和見はお家柄か

256: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 15:05:05
>>234
毛利家は元就の遺言で御家存続を第一に考えていたって聞いたことがある。

253: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 14:00:11
>本来はただの自殺の場でしかなかった大坂の陣
これ実際のところどうなんだろう。
現在の人間は結果がわかっているからこういうことを言えるけど、自殺するために13~14万(夏の陣開始直前)も集まるかね。
逆に大阪方は夏の陣直前までリストラしまくってたそうだ。

254: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 14:14:15
>>253
どう考えても勝ち目は薄いだろう。
強いて言えば、勝ち目っつーか大阪城の堅城さだけが
望みと言えるけど、所詮食い詰め浪人が集まっただけだな。

255: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 14:57:01
冬の陣では勝ちに行く事も出来たかもしれんが、濠を埋められた夏の陣は集団自殺だな

257: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 15:39:45
>どう考えても勝ち目は薄いだろう。

確かに歴戦の戦国大名ならそう思うかも知れないが、一般人にそんなことがわかったものなのかな。
それに現在のようにマスコミが発達してるわけでもないから情報も少ないだろうし、、、
じゃなきゃ夏の陣の前後に紀伊、大和、丹波、摂津能勢で武装蜂起が起きるわけがないのではないか?
あと未遂に終わったけど、山城、大和(別の蜂起)、伊勢だったか伊賀でも蜂起計画があった。

258: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 16:12:52
俺はどっちかっつーと反徳川だけど、それでも勝ち目があったとは思えない。
徳川は既に550万石の領地と幕府を作っていて、関ヶ原で反徳川を一掃したと
言っていい状況だ。

それに対して豊臣は60万石程度の所領と大名ですらない浪人を集めて
反抗しただけ。とてもじゃないが幕軍を潰せる戦略を立てられたとは思えん。
小田原北条が豊臣と戦った時より状況は悪い。

259: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 16:55:38
いや、幕府をたたきつぶす必要はないんじゃない?
小牧のときの家康のように、一戦して勝つのがまず目標だったと思われ

260: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 17:16:11
>>259
籠城戦っていうのは、援軍があるのが前提でないと意味ないの。
まず大坂方には援軍が無い。この時点で致命的なんだよ。
大阪城は堅城だから2年や3年でも落ちないだろうが、10万の兵が篭もってたら
兵糧が尽きる。

囲んでる側の関東方は兵糧も輸送が可能だから、籠城してても相手が引き上げる
目処が無ければ戦は勝てないのさ。北条が降参したのもこれが理由。

265: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 17:50:20
>>260
だから真田昌幸は打って出ろって言ったわけでしょ。実話かどうか知らないけど
籠城選んだのは豊臣家首脳の判断であって情勢そのものは必敗とはわからない
それこそ前田にまで援軍頼んだぐらいだから甘い見通しとはいえ、一戦して勝てば幕府がゆらぐかもという期待はあったのかも知れない
我々は徳川300年を知ってるから盤石に見えるけど当時の実感は違うと思う

261: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 17:22:36
『大坂の陣』

徳川方にしたら…
豊臣家と関ヶ原によって巷に溢れた大量の敗北者=牢人を大清算する目論見の罠

大坂方にしたら…
捲土重来を期し、時節の到来を待ちわびた者達にとっての一大好機。中にはこれが罠と知っていた者もいただろうが…

263: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 17:27:07
>徳川方にしたら…
>豊臣家と関ヶ原によって巷に溢れた大量の敗北者=牢人を大清算する目論見の罠


そこまで考えてたのかな。もしそうなら、大坂の陣後に浪人大量虐殺が発生してもおかしくない筈だけど、大虐殺といえるほどに殺されてはいない。
それとも大虐殺するつもりだったけど、結局実行に至らなかっただけなのか。

269: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 18:34:24
豊臣首脳の秀頼、淀殿、治長に明確な勝算や目論見があったとは思えない

・秀頼の傅役で徳川との交渉窓口だった且元追放
・京を制圧し東西を分断する策を却下し謎の籠城
・籠城したにも関わらず短期にて講和
・外濠を埋められてしまう失態
・死に戦としか思えない夏の陣に挑みながら出陣しない大将

やってる事が全くチグハグで理解不可能
首脳陣がこんな有り様では豊臣恩顧の武将達にも見限られて当然

271: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 18:37:33
>>269
だな。徳川嫌いの俺でもこんなんじゃ味方できんw
豊臣が籠城でもいいから、徹底抗戦策を取ってればまだ何とかなったかもしれんが・・・

272: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 18:39:02
大野治長に籠城するように命じたのは福島正則だが、もしかしたら、
豊臣方の籠城が長引けば、西国にいる豊臣恩顧の大名の離反があり
えたのかもしれない。

273: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 18:41:08
>>272
そう思ってたんだろうけど、実際もう豊臣の出る時代じゃなくなってたな。

277: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 19:14:03
>>272
その肝心の正則が軟禁されていたのだから豊臣恩顧の武将達が徳川から離反する等夢物語りとしか…
豊臣首脳陣は現実逃避していたんじゃないかと思えますよw
まあ大砲玉に怯えて出陣もしないような大将じゃ誰も忠誠なんぞ尽してはくれないだろうよw

274: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 18:46:37
とりあえず十万人も籠城すると、毎日の脱糞を捨てるのが大変だな。

275: 日本@名無史さん 投稿日:2005/09/26(月) 19:02:56
脱糞については家康に聞くのがいいぞ


引用元: ・【国家】大坂の陣【安康】






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