いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2019年08月

現在8月30日の午前6時38分。
いつものとおり、通勤電車の中
でブログを書いている。

仕事が繁忙期に入った。
お盆が明けたあた
りからクソみたいに忙しい。

特に先々週からは、息をつく暇もあり
はしない。
金曜日の今日も長い一日になりそうだ。

ここ最近、鬱で
ひどくて辛いせいもあるのだが、忙しすぎて、さすがに疲れはててしまった。
ゆっくり休みたいし、ゆっくり眠りたい。

幸い週末の土日は休めそうだ。
自宅にこもり、最低限の家事だけを
こなし、ウィスキーでも飲みながら過ごそうと思っている。

・・・

かみさんが元気だったころ。
俺は今よりはるかに忙しい部署にいた。

電がなくなってからタクシーで帰宅せざるを得ないことも多かった
徹夜で仕事をすることもあった。
土日や祭日に出勤せざるを得な
いことも少なくなかった。

毎年のように同僚が倒れてしまった。
には過労死してしまった人もいた。

そんな部署に8年いたが、俺が
身体を壊すことはなかった。
まだ若くて体力もあったせいだろう。

そして何よりも。
かみさんが俺を支えてくれて、
俺を癒してくれたのだ。

かみさんのいない今、あの頃のような激務
に耐えられるとは思えない。
今だっ
てフラフラで、数時間の残業で疲れきっているからだ。

しかし…
もずいぶんと堕ちたものだな…と思う。
かみさんがいた頃と比べる
と、俺は本当にダメになってしまったな…と思う。

たったひとり、
世界から消えてしまっただけであり、世界には何らの影響もないはずなのに、俺には世界がひっくり返ってしまったようにしか見えないのだ。

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某SNSの中で、俺は「自分が誰にも必要とされていない」という主旨のつぶやきをしたことがある。
それに対し、ある女性から「あなたは管理職じゃないですか!会社で必要とされているじゃないですか!」という内容のコメントを頂いた。

念のために言っておく。
このコメント主は俺を攻撃していたわけではないし、誹謗中傷していたわけでもない。
ご自分も大切な人を亡くされて、悲しい思いをしている中で、俺を叱咤激励してくれた心の優しい人なのだ。

それでも俺は、「自分が誰にも必要とされていない」という気持ちを拭えない。
むしろ日を追うごとに、その気持ちは強くなっていく。

確かに会社では管理職を務めている。
数万人の社員の中で、管理職になれるのは8%しかおらず、残りの92%は管理職になれずに定年退職を迎える…というのは以前の記事にも書いたが、この数字だけを見ると、「管理職は会社に不可欠な人材だ」と勘違いされてしまうかもしれない。

だが、実際には不可欠でも何でもない。
俺だってだって代替可能な「部品」にすぎないのだ。

俺がいなくなれば、残りの92%の誰かが管理職になり、俺の欠けた穴は、いとも簡単に埋められる。
そして、俺が存在していたこと自体、あっさり忘れられていくだろう。

・・・

学校や会社、地域社会など、人々はさまざまなコミュニティに属している。
しかし、それらの人々の一人ひとりは、コミュニティの代替可能な要素にすぎない。

いなくなっても誰も困らない。
いなくなってもコミュニティ自体は存続していく。
コミュニティから見れば、一人ひとりは代替可能な「駒」にすぎないのだ。

しかし…
この世界には、自分にとって”かけがえ”のない人がいる場所もある。
自分が誰かにとって”かけがえ”のない存在になり得る場所もある。

それこそが家庭だ。
世界で唯一、代替不可能な人々が集まっているのが家庭なのだ。

俺が生まれて以来、俺を”かけがえ”のない存在だと思ってくれたのは、世界でたったひとり”かみさん”だけだ。
俺が生まれて以来、俺が”かけがえ”のない存在だと思っていたのも、世界でたったひとり”かみさん”だけだ。

だが、もはや彼女はいない。
俺は誰から見ても代替可能な「駒」になってしまったのだ。

だから俺は思うんだ。
俺は必要のない人間なんだ…と思うんだ。


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かみさんが亡くなってからも、時の流れが止まることはない。
俺の主観的な時間は、かみさんの死とともに止まってしまったが、周囲の世界は俺の主観とは無関係に変化していった。

時間が経過するにつれて、あらゆるモノが秩序を失って、ゆっくりと崩れていった。

かみさんが元気だった頃。
俺たち夫婦は二人で力を合わせ、すべての崩れを塞き止めて生きてきた。

しかし…
かみさんはいないんだ。

ひとりぼっちでは、崩れを止める気力も湧いてこない。
なすすべもなく、俺はすべてが少しずつ崩れていくのを呆然と眺めているしかなかった。

眺めているだけでは崩れが止まるはずもない。

いずれはどうにかしなければ…と思っていた。
それでも俺は、だましだまし暮らしてきてしまった。

頭の片隅では、そんな暮らしが長続きするはずもないだろうとは思っていた。
それでも俺は、あらゆるモノが崩れていくのを見ているだけだった。

ひょっとすると、すべての崩れはどこかで自然に止まってくれるかもしれない…と淡い期待を抱いていた。
運が良ければ、あらゆる崩れは自然と修復されるかもしれない…とも思っていた。

そんな期待をあざ笑うかのように、すべては崩れは少しずつ進行していった。

・・・

そして…
それは突然やってきた。

すべてが一気に崩れてしまったのだ。

もう先延ばしにはできない。
だましだまし暮らしていくのは限界だ。
やる気も気力も湧いてこないが、そんな自分に鞭を打ち、重たい心と身体を動かして、俺は一歩を踏み出さなければならない。

こんなとき、ひとりぼっちは辛いな…と思う。
かみさんがいてくれたらな…と思う。

かみさんがいてくれた頃、俺はすべてを乗り越えてくることができた。
かみさんのために…と思えば、俺はあらゆる障害を乗り越えてくることができた。

だが…
やっぱりかみさんはいないんだ。

いちばん大切な人のためならば、人間はいくらでも頑張ることができる。
しかし、自分だけのために頑張るっていうのは面倒くさくて鬱陶しい…と思うのだ。


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俺の部下の中にAさんという男性がいる。
今年の4月に配属された、いわゆるアラフォーの係長さんだ。
結婚してから3年弱しか経っていないが、すでに1歳の息子さんがいるそうだ。

彼とは週一くらいでランチに行く。
食事中の話題はもっぱらAさんの家族のことばっかりだ。

それは当然そうだろう。
俺には家族がいないんだ。
たった一人の家族は死んじゃったんだ。
俺には家族について語る資格はない。

俺だって語りたいとは思う。

だが…
死んだ人の話なんか聞きたくない…
死んだ人の話を聞くのはウザったい…
伴侶や子どもとの死別を体験したことのない人々は、誰もがそう思っている…

かみさんが亡くなって以来、俺が学んできたことの一つだ。

ちなみにAさんは、俺がかみさんを喪ったことを知っている。
かみさんが亡くなったあと、俺が複雑性悲嘆に苦しんでいたことも知っている。

それでもAさんは家庭を持って、どれほど自分が幸せなのかを聞いてほしいのだろう。
彼は楽しそうに自分の私生活を語り続けている。

部下の話を傾聴するのも管理職の役割だ。
俺は笑顔で相槌を打ち、Aさんの話に耳を傾けている。

しかし…
俺は辛いんだ。
俺は苦しいんだ。

家族と幸せに暮らしているAさんと、たった一人の家族を亡くしてしまった俺との落差が大きすぎる。
まるで心臓が抉られているみたいだ。

・・・

つい数日前のことだ。
またAさんからランチに誘われた。
いつもとは違うAさんの表情に戸惑いつつも、俺はAさんと食事に行った。

Aさんの話はそれなりに深刻だった。
Aさんの奥さんが子育てに疲れ、ひとりになりたい…とつぶやくようになったらしい。
また、Aさん自身も奥さんの愚痴を聞くのにストレスを感じているようだ。

子どものいない俺には分からないことだけど、せめてAさんのガス抜きだけはしてやろうと思った。

しかし…
ふとした瞬間だった。
Aさんが俺に言った。

課長ってうらやましいですね…

俺は意味が分からず頭が真っ白になってしまった。

なんで?

俺が聞くとAさんが答えた。

ひとりになりたいこともあるじゃないですか。
課長っていつもひとりですよね?
うらやましいですよ(笑)


怒る気にもなれなかった。
ただ、こいつはひょっとしてバカなのか?とは思った。

俺は”ひとりぼっち”になりたくてなったわけじゃない。
かみさんとずっと一緒にいたかったけど、無理やり”ひとりぼっち”にされてしまったんだ。

Aさんは”ひとりぼっち”の恐ろしさを知らない。
あのアイデンティティが溶けていくような感覚を知らない。
自分の存在が希薄になっていき、身体が震えだす感覚を知らない。

俺はAさんに言いたかった。

あんたは本当に”ひとりぼっち”になりたいの?
あの自分が崩れていくような感覚を味わってみたいの?
本当に”ひとりぼっち”になったら死にたくなるよ…
と言いたかった。


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一方には、かみさんと暮らした日々の俺の言動がある。
もう一方には、かみさんの死という悲しい現実がある。

その両者の間に因果関係はない。
俺がかみさんを癌にしてしまったわけではないからだ。
俺がかみさんを死なせてしまったわけでもないからだ。

そんなことは冷静に考えれば分かることだ。
それなのに、かみさんの死をめぐっては、俺は冷静ではいられない。

俺は自分自身を責めてしまう。
俺のせいでかみさんが死んじゃったんだ…と責めてしまうのだ。

そんなとき、心臓が潰れてしまいそうな圧迫感を覚える。
決して誇張ではなく、本当に胸が苦しくなってしまう。

それでも俺は、自分自身を責めずにいられない。

あれは多分、贖罪なのだろう。
俺は自分の過去の些細な言動を思い出し、それらをかみさんの死と結び付け、自分の中にある罪悪感を抉りだしている。

そうすることで、俺は自らの罪を購っている(つもりになっている)のだろう。

・・・

最愛の人を亡くした者たちの多くが罪悪感を抱く…と聞いたことがある。
自分が死なせたわけではないのに、あたかも自分に責任があるかのように、罪悪感で潰れてしまう人は少なくないらしい。

こういう話をどこで見聞きしたのだろう…と振り返ってみたが、おそらくグリーフワーク関連の本やサイトで目にしたのだろう。
そういうところに載っていることからすると、伴侶や子どもを亡くした人々が自分を責めて、罪悪感に苛まれるのは、ごく普通の心理状態らしい。

しかし…
まったく罪悪感の無い人もいるそうだ。
また、たとえ罪悪感があったとしても、ごくごく短期間で消滅してしまう人もいるようだ。

彼らはいったい、どういう人なのだろうか。
彼女らはいったい、大切な人の死をどのように受けとめたのだろうか。

そして…
彼らや彼女らにとって、「最愛」という言葉はどういう意味合いを持っているのだろうか。

おそらく彼らや彼女らの言う「最愛」と、俺たちが言う「最愛」とでは、同じ「サイアイ」という音声ではあるが、意味されるモノはまったく違っているのだろう。

念のために言っておく。
罪悪感の無い人を責めるつもりはない。
短い期間で罪悪感から解き放たれた人を責めるつもりもない。

ただ、彼らや彼女らのことが、ある意味でうらやましいと思うのだ。
ドライな人々は生きやすいということを、身をもって示してくれるからだ。

ウェットなことが、ドライであることより優れていると言いたいのではない。
ただ、ウェットな人間は、どこでもいつでも生きづらい…ということを痛感するのだ。


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