いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2022年03月

平日の昼休み。
俺は昼飯を食べるために会社から少々離れた所にいく。

そのあたりでは、散歩をしている高齢者や主婦らしき人を見かけるだけで、あまり人影のない静かな場所だ。

だが、
先週あたりから大勢の人だかりができている。
彼らや彼女らは、
なぜ集まってきたのだろうか。
満開の桜を見に来たのだ。

以前から、ソメイヨシノの木が多いところだな…とは思っていた。
しかし、一昨年も昨年も、桜が満開になる時期には、この場所に来たことがなかったのだ。

桜が咲くと、
こんなにたくさんの人が集まる場所だったんだな…と気づいてウンザリしている。

彼らや彼女らは、
決して一人ではない。
年配の夫婦、子どもづれの若い夫婦、
赤ん坊をベビーカーに乗せた主婦らしい人…
そういうグループが何組もいて、狭い歩道に立ち止まり、桜を眺めて写真を撮っている。

そうだ。
彼らや彼女らは、
道を塞いでいるのだ。
彼らや彼女らは、「俺たち」
の障害物なのだ。

俺にとっては邪魔でしかない。
俺にはウザったくて仕方がない。

そして俺は、
自分が惨めで仕方がないのだ。

かみさんがいたならば、
俺たち夫婦も大勢の人だかりの中にいたのだろう。
そして、
二人で一緒に満開の桜を見上げたのだろう。

だが、俺は“
ひとりぼっち”だ。
一緒に桜を見に行く家族はいない。

まったく…
自分が惨めになってくる。

俺はたぶん、
彼らや彼女らが妬ましいだけなのかもしれない。

歩道にたむろして、俺の行く手を阻むからウザいのではない。
家族のいない俺から見ると、一緒に行動する家族のいることが羨ましいだけなのかもしれない。

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俺はかみさんを納骨していない。
かみさんが亡くなってから半年ほど経った頃、俺たち夫婦が二人だけで眠れる永代供養墓を買ったが、その墓はいまだにカラッポだ。

かみさんの遺骨は、
今でも仏壇の傍らに安置されている。

そのせいだろうか。
無性に会社を休みたくなってしまう時がある。
かみさんの傍を離れたくない時がある。

会社をサボって朝から酒を飲み、かみさんの遺骨に寄り添っていたいのだ。
とりわけ精神的に疲れてしまった時は、かみさんの傍にいたいな…と想うのだ。

かみさんの「魂」があまねく存在しているのであれば、
どこにいようと彼女は俺の傍にいるはずで、俺がどこにいたって大差は無いはずだ。

それにも関わらず、
仏壇から離れたくないと想う時がある。
出勤する際、
後ろ髪を引かれるような想いをする時がある。

・・・

伴侶との死別に伴う喪失感は、言葉で表現できるようなモノではない。

激しい悲しみに心身が引き裂かれる。
胸の真ん中にポッカリ穴が空いてしまう。
周囲がリアリティを失って、世界が自分から遠のいてしまう。
そして不安、絶望、虚無…

いくら言葉を並べても、
あの喪失感を他人に伝えるのは不可能だ。

それほどの喪失感を抱えつつ、それでも「俺たち」は生きている。
歯を食いしばり、全身から血を流し、それでも「
俺たち」は生きている。

生きているだけで、やっとなのだ。
周囲からのくだらない雑音に構っている余裕など無いのだ。

だが、周囲は容赦なく「俺たち」に襲い掛かる。
すべてを奪われて、もはや何も残されていないのに、周囲は「俺たち」からエネルギーを奪っていく。

そして「
俺たち」は、疲弊してしまうんだ。

・・・

そんな日は、
会社なんかに行きたくない。
かみさんに寄り添っていたい。

本当に…
本当に疲れてしまうんだ。
かみさんの傍らで死んでしまいたい…とも想うんだ。

だが。
それでも「俺たち」は生きていく。
これからも奪われるだろうし、
これからも傷つけられるだろう。

それでも「俺たち」は、「
それでも…」と叫び続けるんだ。

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かみさんが亡くなって1か月。
俺はほとんど眠れない日々を送っていた。

寝床に入ったものの、
朝まで声を張り上げて泣いていた。
あるいは声を殺し、
全身を震わせながら泣いていた。

わずかに眠ったかと思うと朝を迎えていた。

最愛の人を喪ったばかりの頃だ。
激しい悲嘆が俺を眠らせてはくれなかった。

かみさんの最初の月命日だっただろうか。
俺はメンタルクリニックの門を叩いた。

主治医は抗鬱剤、精神安定剤、睡眠導入剤を出してくれた。
おかげで俺は、ようやく眠れるようになった。

だが、
その後しばらく経つと、夜中に目覚めるようになった。
いわゆる中途覚醒だ。

目覚めてしまうと、その後は眠れなかった。
無性に悲しくなった。
朝まで咽び泣いていたこともあった。

あれから時間が経つにつれ、次第に俺は、中途覚醒をしなくなっていった。

・・・

ここ最近、
俺は再び中途覚醒をするようになった。
たとえば
326日の土曜日だ。

俺は午後
10時半ごろ就寝した。
朝の
6時くらいまで眠れたらいいなと思った。

しかし

3
27日の午前2時半ごろのこと
俺は突然、目覚めてしまった。
その後は目が冴えて、
まったく眠れなかった。

深夜のことだ。
何をしたらいいのか分からない。
不安感ばかりが強くなっていく。

仕方がないので俺はウィスキーを飲んだ。

だんだんと酔いが回っていき、俺はようやく眠りに落ちることができた。
すでに朝の
6時を過ぎていた。

・・・

ある人に指摘をされて思い出したことがある。
それは、冬から晩春にかけて、俺が熟睡できなくなるということだ。

自分では忘れていたのだが、
昨年も一昨年も、俺が中途覚醒に悩まされていたと教えてもらい、「そういえば、そうだったかもな…」と思い出したのだ。

かみさんが癌だと診断されてから息を引き取るまでの期間。
それは春から初夏にかけてだった。
俺が毎年、
中途覚醒に陥る期間と(ほぼ)重なっている。

偶然なのかもしれないが、そうではないような気もしている。
確かに俺は、毎年この時期になると、自分の神経がヒリヒリするのが分かるのだ。

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俺は周囲の人から「ストレスに強い奴」を言われていた。

まだ「平社員」だった頃、重役の一人が俺のことを、「いくらコキ使っても、あいつなら大丈夫」と言っていたらしいし、「主任」だった頃、会社の中で、最も困難で、最もストレスの大きい業務を所管する部署にいた。

また、「係長」や「課長補佐」だった頃も、負荷の大きい部署にいて、激しいストレスと無縁でいられなかった。

俺が「管理職」になれた理由は様々だが、そのうちの一つに「ストレスに強い奴」との評価があったことは間違いない。

だが本当は、俺はストレスに強くない。
難しい仕事、高度な判断を求められる業務、他の部署との調整や関係者の説得、それらに伴う人間関係の軋轢など、あらゆるストレスに弱いのだ。

どんなにストレスに曝されても、俺は平気なフリを装ってきただけだ。
俺は単に、「やせ我慢」をしていただけなのだ。
ストレスに押しつぶされそうでありながら、それを表情や態度に出さないようにしていただけなのだ。

周囲の人々の俺に対する評価は間違っている。
俺はストレスに強くなんかない、本当は脆弱な精神の持ち主なのだ。

・・・

やせ我慢をすることができた。
それは、かみさんがいてくれたからだ。

仕事が終わり、会社を出ると、俺はかみさんに「帰るコール」をする。
電話越しに、かみさんの明るい声が聞こえる。

今から帰るね!と言う俺。
かみさんは、今日の夕飯は○○だよ~だとか、早く帰っておいで~だとか、風呂は入れておいたよ~だとか、暖かい声で俺を受け容れてくれた。

かみさんの声を聞いただけで、俺の中に蓄積したストレスが軽くなっていき、俺の心に光が射す。

自宅に帰ると、かみさんが笑顔で俺を出迎えてくれる。
かみさんが全身で俺を包み込む。
かみさんの存在を五感で受けとめる。
かみさんの笑顔を見て、かみさんの手や髪に触れて、かみさんを感じる。

電話越しの声だけとは違い、「今、ここ」にかみさんがいる。
俺の中のあらゆるストレスが解消していき、俺は至福に包まれる。

この瞬間があったからこそ、俺はどんなストレスにも耐えてこられたのだ。

・・・

だが今は、かみさんはいない。
帰るコールをしてみても、かみさんが電話に出ることはなく、留守電に切り替わってしまう。
自宅の玄関を開け、「ただいま…」とつぶやいてみるが、かみさんが俺を出迎えてくれることもない。

それでもストレスは、俺に圧し掛かる。
やり過ごす術(すべ)も知らず、酒に逃げることもできず、悪夢のような世界を漂うしかない。

独りぼっちで生きていくっていうのは、本当につらくて苦しいことだ。

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年度末が近づいている。
どういうわけだか知らないが、毎年この時期になると、会社では「定年退職したら、どんな生活がしたい?」という会話が聞こえてくる。

定年間近の社員だけではない。
退職なんて、まだまだ先だ…という社員まで、そんな会話に加わっている。

かみさんが元気だったころ。
俺もそんな話題に加わっていた。

だが、かみさんのいない今、未来のことなんて見えやしない。
かつては想像するのが楽しかったはずなのに、今では明日のことを考えるだけでウンザリだ。

それでも、あえて老後の暮らしを予想してみるが、ロクでもない晩年になりそうだ。

早朝に目が覚めて、かみさんに線香を手向けるだろう。
その後はバルコニーに出て、タバコを吸うだろう。
吸い終わったら、深いタメ息をつくだろう。

部屋に戻って、かみさんにお供えをするだろう。
あとはやるべきことが何にもない
朝から仏前でウィスキーを飲み、酔いつぶれて眠ってしまうだろう。

たぶん死ぬ直前まで、その繰り返しに違いない。

たまには北海道(かみさんの実家)に遊びに行って、2人の義弟たちと盃を酌み交わすかもしれない。
かつての同僚や大学時代の友人と待ち合わせ、昼から酒を飲んで昔を懐かしむかもしれない。

そして…
いまだに納骨していないのに、かみさんの墓参りに行くに違いない。

・・・

定年退職したら、どんなふうに暮らしたい?という質問への回答に耳を傾けていると、部下たちの家庭の様子を窺い知ることができる

嫁さんとゴルフ三昧の暮らしがしたい…とか、夫婦二人で世界一周旅行をしたい…と言う部下たちがいる。
きっと仲睦まじい夫婦なのだろう。

一方で、旦那とは別居して、島で一人暮らしをしたい…とか、実家に帰って一人で農業をやって暮らしたい…と言う部下たちもいる。
夫婦仲の良くない人たちなのかもしれない

俺が定年退職したら、どんな暮らしをしたい?
かみさんと俺も、何度か話し合ったことがある。

かみさんの言葉でいちばん印象に残っているのは、「別荘を買おうよ!」だ。
俺は「函館あたりに買いたいなぁ…」と応えたが、かみさんは「海の近くの暖かいところがいい!」と言った。

俺たち夫婦の決定権は、いつだってかみさんが握っている。
俺は、いずれ房総半島あたりに別荘を買うことになるかもしれないなぁ…と思っていた。

もう一つ、印象に残っているセリフがある。
それは「死ぬときは二人一緒がいいよねぇ…」という言葉だ。

俺もかみさんと同じだった。
二人で一緒に死ねたらいいな…と思っていた。

その他のかみさんの希望は他愛もないことばかりだった。
じぃちゃん、ばぁちゃんになっても、二人で一緒に散歩をしようねぇ…だとか、二人で一緒にいっぱい旅行をしようねぇ…だとか。

かみさんはこれまでと変わらない、平穏な日常を望んでいたのだろう。

・・・

かみさんが癌研有明病院に入院していたときのこと

俺はかみさんに聞いた。
容ちゃん。病気が治ったら、どんな生活をしたい?

かみさんは応えた。
プーちゃん、これからもずっと横にいてね…

荘に比べたら些細な希望にすぎない。
だが、かみさんが心の底から望んでいたのは、ごく普通の日常だったのだ。

だからこそ…
俺はその気持ちを大切にしたい…と思っている。

だからこそ…
俺はかみさんを想い続けよう…と思っている。

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