いつか迎えに来てくれる日まで

数年前の6月27日、たった一人の家族、最愛の妻を癌で喪った。独り遺された男やもめが「複雑性悲嘆」に喘ぎつつ、暗闇の中でもがき続ける日々の日記。

2017年12月

俺は今、「ひとり」ではない。
お義母さんもいるし、
2人の義弟たちもいる。
かみさんを想い、
時折しんみりするけれど、家の中は概ね賑やかだ。

そうだ。
俺は「
ひとり」ではない。

でも。
やっぱり「ひとり」なんだ。
俺は「
一人ぼっち」ではないけれど、「独りぼっち」なんだ。

今ここにいるはずの人がいない。
俺の隣にいるはずの人がいない。
かみさんがいない。

だから俺は淋しいんだ。
心が寒いんだ。
潰れてしまいそうなんだ。

・・・

ここは俺の居場所じゃない。
この世界には、俺の居場所なんて無い。

俺の居場所があるのは「
過去」だけだ。
かみさんと一緒に暮らした20年の記憶の中にだけ、俺の居場所があるんだ。

だが、
その記憶も徐々に薄れていくんだろう。
そして、いずれは消滅してしまうんだろう。

記憶が消滅したとき、俺は自らが存在する意味を失う。

その瞬間、俺の余生も終わるはずだ。
その瞬間、俺はようやく逝けるだろう。

そして俺は、「光」を見るだろう。


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かみさんがいない。
世界で一番大切な人は、「今ここ」
にはいない。

俺は独りぼっちだ。
この残酷な世界の中、
俺は独りで佇んでいる。

・・・

多くの人が集まってくる。
そして、
みんなが自分の語りたいことを語る。
大半の人々は、
自分の家族について語る。

だが、俺には家族がいない。
語るべき家族がいないのだ。

それでも俺は、
自分の家族を語りたい。
自分の「家庭」を語りたい。

俺が語ることのできる家族の姿は、すべてが過去にある。
今ここ」にはいない家族の姿だ。

それでも俺は、語り続けたい。
今ここ」にいる家族の姿ではないが、それでも俺は、語り続けたい。

でも。
誰も聴きたくないんだ。
死んだ人の話なんて聴きたくないんだ。

こんなふうにして、
死んだ人は忘れられていくんだろう。

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この記事がアップされるのは12月29日の午前0時0分。

その時間、
俺は東京にはいないはずだ。
おそらく北海道にいるだろう。
よほどの悪天候で、新千歳空港が閉鎖されない限り、俺は札幌市にあるかみさんの実家にいるはずだ。

周囲の人々は俺に言う。
この寒い季節にわざわざ寒いところに行くなんて…

だが、
俺にとっては毎年の慣例だ。
かみさんと結婚して以来、
年末年始は必ずかみさんの実家で過ごしてきたのだ。

その習慣は、かみさんが亡くなった後も変わっていない。

変わってしまったのは、俺が独りぼっちで北海道に行かなければならなくなったこと。
かみさんと俺が、二人で北海道内を旅行したり、食べ歩きをしたり、買い物をして回ることがなくなってしまったこと。
そして何よりも、あの元気で明るいかみさんがいなくなり、どこか「うわの空」で年明けを迎えるようになってしまったこと、元旦を迎えても、何の感慨も湧かなくなってしまったことだ。

やっぱり俺は、かみさんがいないことが寂しいんだ。

・・・

北海道に行くのが面倒だ。
なんだか心が重いのだ。

義母や義弟たちに会いたくないということではない。
むしろ会えることは、とても嬉しい。

だが、それでも心は重いのだ。
北海道に行っても、かみさんがいないからだ。

かみさんがいないのに、わざわざ飛行機や電車を乗り継いで、
遠路はるばる札幌まで行く。
雪の降る中をとぼとぼと独りで歩き、
かみさんの実家に向かう。
その行為が虚しくて、同時に寂しく思われるのだ。

かみさんが待っているなら別だ。
もうすぐ容ちゃんに逢える…と想えば、俺の足取りも軽かったはずなんだ。

だが、この記事がアップされる時間、やっぱり俺は、かみさんの実家にいるんだろう。
そして、お義母さんと一緒にかみさんの想い出を語りつつ、俺は咽び泣いているのかもしれない。

・・・

この記事を書いている今。
俺は心の奥底で、わずかな期待をしている。
北海道に着いたら、かみさんが待っているんじゃないだろうか…と期待している。

だが、それが幻想だということも分かっている。
俺の理性は、かみさんの不在を認識している。

それでも俺は、何かに縋りたくなるんだ。
何かに縋らなければ、俺は自分の心身を動かすことができないんだ。

北海道に行けば、そこにはかみさんがいるかもしれない。
そして、満面の笑顔で俺を出迎えてくれるかもしれない。
そんな微かな期待が、俺を支えてきたのだ。

だが、この記事がアップされる時間、俺はかみさんの不在を再確認し、落胆しているに違いない。
やっぱり容ちゃんはいなくなっちゃったんだ…という事実に向き合って、咽び泣いているに違いない。


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12月27日の水曜日。
かみさんの月命日だった。

祥月命日ではない。
かみさんが死んじゃった「その日」ではない。
しょせんは「月命日」
にすぎない。

祥月命日ならば思いっ切り泣くことがあってもいいだろう。
グリーフワークの世界には、「命日反応」や「記念日反応」という言葉もあるくらいなのだ。

亡くなった「その日」には、
最愛の人を看取った直後の「あの感覚」が戻ってくることもあるだろう。
その感覚に押し潰されそうになることだってあるだろうし、激しい感情をコントロールできなくなることだってあるだろう。

だが、
月命日は「その日」ではない。
愛する人を喪った日ではない。
人生で一番悲しい日ではないのだ。

それなら「やり過ごす」ことができてもいい。
しょせんは月命日なんて人工的で、文化的で、宗教的なものなのだ。

だが人々は、
自分に無関係なはずのクリスマスを祝ってみたりもする。
商業主義に踊らされ、バレンタイン・デーに浮かれてみたりもする。

そうだ。
人間は自ら創造したモノに踊らされる。
人間は
それほどまでに文化的で、かつ愚かな生き物なのかもしれない。

・・

月命日だって哀しい人は多かろう。
厳かな気持ちになる人も多かろう。

そして何よりも。
逝った人に想いを馳せてあげたい。
愛する人を想ってあげたい。
誰も覚えていないけど、自分だけは忘れてないよ…と伝えてあげたい。

そういう人々の「想い」を、俺は大切にしたいと思うんだ。

・・・

かみさんの月命日を意識するのは、俺とお義母さんだけだ。
それ以外、もはや誰も月命日なんて覚えてはいない(とは言いつつも、ブログの読者さんやメル友さんたちが覚えてくれているので本当にありがたい)。

それは哀しいことだけど、仕方のないことでもある。
俺だって、祖父母の命日はおろか、実父の命日、親友の命日さえ覚えていないのだ。
赤の他人が、かみさんの月命日を覚えているはずもない。

だが。
俺だけは決して忘れない。
俺が生きている限り、かみさんの月命日は決して忘れない。

俺の存在は、かみさんが生きた証だ。
かみさんがかつて存在した証を遺せるのは、この世界で唯ひとり、俺だけなのだ。

だから俺は、かみさんを偲ぶ。
毎日偲んでいるけれど、月命日を忘れるつもりはない。

俺の肉体が朽ち果てるその日まで、かみさんを想い続けるんだ。


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かみさんが元気だった頃。

日々の時間の経過はとても速く感じられた。
1日はあっという間に過ぎ去ってしまい、気づけば夜になっていた。

かみさんと一緒に過ごしていると、訳もなく楽しくて、嬉しかった。
そして、1日の終わりを迎えると物悲しかった。

土日や祭日、年末年始や夏休みの連休はなおさらだ。

連休最終日の夜、かみさんはいつも淋しそうに言っていた。
もう休みが終わっちゃうね…

俺は応えた。
今度の連休もいっぱい遊ぼうね…

楽しい時間は速く過ぎていく。
毎日が楽しくて、1年がとても短い。

こんな調子で暮らしていると、
あっという間に年を取ってしまうんだろうなぁ…と想っていた。
俺たち夫婦は、すぐに「おじいちゃん、おばあちゃん」
になってしまうんだろうなぁ…と想っていた。

・・・

俺はかみさんを看取った。

その瞬間、
俺の時間の感覚は狂ってしまった。
1日がやたらと長く感じられるようになってしまったのだ。

まるでコールタールの海の中でもがいているみたいだ。
とても大きな重力場の中にいるかのようだ。
1時間が、1分が、
やたらと粘っこいのだ。

粘度の高い時間は俺を疲弊させる。
1日が終わると心身ともに疲れ切ってしまうのだ。

・・・

毎晩10時過ぎには床に就くようにしている。
就寝前にはかみさんの仏前に座り、線香をあげる。
その後、
バルコニーに出てタバコを吸う。

そして、タバコを吸いながら思うんだ。
やっと終わってくれたな…と思うんだ。
とても長い1日が終わり、俺の心はようやく安らぎを覚える。

だが次の瞬間、これは本当の安らぎではないことに気づく。
これは本当の「終わり」ではないことに気づく。

そうだ。
数時間後には、また朝が来てしまうのだ。
長くて長くて長い1日が始まってしまうのだ。

終わったと思って安堵したにも関わらず、また「始まり」はやってきてしまう。
いつまで経っても本当の「終わり」にはならない。

俺は本当の「終わり」を待っている。
だが、時間の流れがあまりにも遅すぎて、本当の「終わり」はいまだに視界に入ってこない。

それに気づいた瞬間、暗澹とした思いになるのだ。

・・・

楽しい時間は早く過ぎ、つらい時間は長く感じる。
これが真実なのだとすれば、俺の余生はとても長いものになるだろう。

何もないのに。
何も残されていないのに。

独り残された者にとって、時間というモノは本当に残酷なのだ。


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