九州芸術工科大学/梅棹忠夫さんを悼む(10)
梅棹忠夫さんの「情報産業論」の初出は、朝日放送の広報誌『放送朝日』(6301)である。
しかし、単行本として『情報の文明学』中央公論社(8806)に収録されるまでの25年の間、有名な割りに、なかなか一般の目に触れる機会がなかった。
『放送朝日』のバックナンバーなど、なかなか手に入らなかったのである。
私自身は、探し求めた末に、コミュニケーション関連の著名論文を集めた一種のアンソロジーを知人から借りて、コピーして読んだ覚えがある。.
梅棹さんは、動物生態学の研究者として学究生活をスタートした。
「動物の社会的干渉」がそのテーマであり、オタマジャクシの集団を観察していたが、オタマジャクシは明らかに感覚器官によって他の個体の存在を情報として認知していた。
つまり、学者人生の最初期から、情報と係わってきたわけである。
放送などのマスメディアも、感覚器官による情報の捕捉という面では、オタマジャクシの問題と共通した問題を含んでいる。
梅棹さんの情報論の展開の上で、もう一つの重要な契機となったのが、九州芸術工科大学での講義であった。
九州芸術工科大学とは、下記のような大学である。
WIKIPDIA:100713最終更新
九州芸術工科大学(きゅうしゅうげいじゅつこうかだいがく、Kyushu Institute of Design)は、福岡県にかつて存在していた国立大学で、現在の九州大学にある芸術工学部・大学院芸術工学府・大学院芸術工学研究院の前身である。略称は芸工大。
1968年4月、福岡教育大学福岡分校跡地である福岡市南区大橋に、日本初の芸術工学 (design) を本格的に研究教育する国立の単科大学として設立された。これは研究を主体とする、現在の筑波大学のプロトタイプとして造られた経緯もある。この場所は1926年~1949年まで、現在の福岡県立筑紫丘高等学校の前身である筑紫中学校の跡地であった。「芸術工学部」の名称も日本初であり、世界でもほとんど例を見ないものだった。
当初、環境設計学科、工業設計学科、画像設計学科、音響設計学科の四学科であったが、1997年に芸術情報設計学科が加わった。ユニークな学部を持つ大学だったので、九州という立地にもかかわらず全国から学生が集まっている。一方、地元の人はその存在を知らない人が多く、大学名を言っても専門学校等と一緒にされがちである。
2003年10月、九州大学と統合し、芸術工学部は九州大学芸術工学部に、大学院芸術工学研究科は九州大学大学院芸術工学府・同研究院となった。所在地は変わらないがキャンパスの名称は九州大学大橋地区である。
梅棹さんは、1965(昭和40)年秋、文部省内の「国立産業芸術大学(仮称)設置に関する会議」の専門委員に任命された。
他のメンバーは、小池新二(千葉大学教授)、木村秀政(日本大学教授)、清家清(東京工業大学教授)、福井晃一(千葉大学助教授)、諸井三郎(東京都交響楽団長)などであった。
論議を重ね、1968年4月に、九州芸術工科大学として開学した。
初代学長は、小池新二氏(1901~1980)。
小池氏は、千葉大学工学部意匠学科教授、日本デザイン学会初代会長等を歴任したデザイン関係の草分け的存在で、『デザイン』保育社(1965)等の著書がある。
上述のように、このユニークなコンセプトを持つ大学は、いまは存在しない。
私も、何人かのOBと知り合ったが、こんな大学で学んでみたかった気がする。
もっとも、私が高校生の頃は、構想すら存在しなかったのだが。
なお、同大学では、年に1度、「勧進」と称する全学討論会が行われる慣例があった。
その第3回目(1970)が「梅棹忠夫氏と語る」で、「情報産業社会における設計人(デザイナー)」がテーマであった。
大学の開学に係わりを持った梅棹さんは、オープン後も集中講義をするなどの形で大学に関係していたが、この「勧進」において基調講演を行った。
このような大学が、合理化という名目で統廃合されてしまう風潮が、日本の科学技術を底の浅いものにしているのではないか。
「事業仕分け」は常に行うべきであるが、当然、仕分ける人の見識が問われるものである。
功罪を明確にするためにも、いたずらにパフォーマンスに走るのではなく、仕分けの責任の所在を明らかにしておくべきだと思う。
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